―聖霊降臨節第8主日礼拝―
時間:10時30分~説教=「いのちはゆきめぐり、時は満ちていく」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』5 章 19~25 節
(新約聖書 172頁).
讃美=519, 21-289(122), 21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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福音書の時代におきましては、どのように小さないのちでさえ、神の力によっていのちを与えられていると理解されていました。これは日本語にも同じような理解があります。こどもたちの遊び友だちになってくれるバッタの仲間にショウリョウバッタがいます。その名の由来は、八月の旧盆、精霊流しの際に川に流す笹舟をその身に重ねているとの説があります。ただ異なるのは、日本の場合は召された方々の霊魂が盆に戻ってくるとの説に較べ、『聖書』では鮮やかに復活という仕方で身体を伴って甦るという理解があるところです。身体を伴っている以上、そこには歴史があり、召された人とともにあゆんだ人々はその問いかけへの向き合い方が問われます。誰かに責められるというのではなくて、どのような関わり方をし続けたのかと主なる神は問うのです。
その問いかけとしての「裁き」は果たしてわたしたちにどのように響くのでしょうか。それはその人の生涯を全否定するのではなく、完成に導く力があります。魂だけでなく心身ともに甦らせる力があります。そしてわたしたたちの五感や医療でいう生死を超えた交わりを、イエス・キリストを通して新たにする力があります。どのような過酷な環境で生涯を全うしたとしても、誰もが神の似姿として新たにされるのです。
わたしたちが今朝味わっているところの『ヨハネによる福音書』は、他の福音書が担う「イエス・キリストが歴史的にどのようにあゆんだか」を物語として再編し記録するだけに留まらず、復活したイエス・キリストがわたしたちとどのようにあゆんでくださるのかというさらに立入った物語としての特性も含んでいます。それはその時代に、キリスト教よりもはるかに力を振るっていたところの、古代ギリシアの影響を受けた考えへの答えです。神の愛の中をあゆんだいのちは、ただその足跡だけを世に残していくのでもなく、霊魂だけが肉体と切り離されてこの世とは無関係のあの世にいってしまうわけでもありません。どこかへと消えていってしまう無常の中にもありません。召された方々はイエス・キリストを通してこれまで以上にわたしたちと濃厚に関わり続けます。だからこそ『聖書』の世界では死は終わりではなく、新しいいのちへと接続されることにより死そのものの中にもいのちへの希望が授けられます。だから被災地で亡くなったはずの方の姿を見たとの話を聞いたとしても、その話を軽蔑するのではなく、天に召された方が遺されたその人への存在と問いかけとして受けとめ尊ぶのです。さらに『聖書』は、その人の生涯の終え方をしてその人の死後を意味づけることもいたしません。問われるのは「生き方」が主の祝福のもと懸命であったかどうかであり、その態度は余人の理解できる範囲を超えています。「父は子を愛して、御自分のなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きなわざを子にお示しになって、あなたたちが驚くこととなる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」。すべての裁量は、イエス・キリストに委ねられています。それでは、イエス・キリストはどのような人々と語り合い、交わりを深め、祝福されたというのでしょうか。イエス・キリストは超然と特定の場所に留まっておられたのはありません。むしろその時代には数の内にも入らぬとされた人々の間に分け入って神の愛を証しされ、教えを伝えられました。その話を聞いた読み書きの出来る人々も、ローマの兵士たちも、女性もこども、豊かに祝福されました。イエス・キリストはそのような姿を通してわたしたちに問いを発しています。
それは「あなたがたは、わたしの示した道を狭めてはいないだろうか」との問いかけです。パウロが心から憂いた課題は『コリントの信徒への手紙Ⅰ』1章にある通りです。すなわち「あなたがたはめいめい『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』と言い合っているとのことです」と記されているとおりです。人の姿だけが目に入るときにわたしたちはこのような躓きを犯しがちです。主なる神の大いなる救いのわざを信頼してあゆんでまいりましょう。