2024年5月30日木曜日

2024年 6月2日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節第3主日礼拝― 

時間:10時30分~


説教=「キリストはあなたの盾となって」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』3章1~15節
(新約聖書  167 頁).

讃美=  21-155(301),522,21-28(541).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 人目を憚るようにして夜、人の子イエスのもとを訪れたファリサイ派の律法学者ニコデモ。人の子イエスを「神が遣わした教師」として認めるニコデモにむけて人の子イエスは「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と、すべての人間の経験というものが神の国との関わりでは問われないと説きます。神の国とは神の愛が人の世すべてにあまねく響き渡り、争いをやめ、悲しみや嘆きに代わって全ての人が喜び、召された人の身体も甦るとの時の完成を暗示します。わたしたちには天に召されて「行く」ところが、『聖書』の世界では逆転して「来る」との理解に立ち、そのときに人々を苛む死も苦しみにも終わりがくるという理解に立ちます。ニコデモはその理解をより明らかにしたいために人の子イエスのもとを訪れていました。しかし人の子イエスの答えは却ってニコデモを混乱させます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれた者は霊である」。この箇所は『ヨハネによる福音書』の冒頭、また洗礼者ヨハネの活動から一定解き明かすことはできます。水と霊とによって生まれるとは、福音書に描かれる洗礼者ヨハネによる水による洗礼。世の穢れをヨルダン川の流れで清めてもらうとの「水による洗礼」ですが、前提としてあるのは自らの弱さや破れに対する深い自覚です。何者かとの深い関わりなしにはそのような自覚は生まれません。肉から生まれた者は肉である、とは滅ぶべきものから生まれた者は滅ぶものであり、霊から生まれたものは霊であるとは、神の力によって生まれた者は何者にも捕らわれないあり方を授かるとの理解です。そしてこの霊とは、垣根を越えていく「風」にあり方を重ねられていきます。囚われの身にある者が、ふと空を見あげるとすべての垣根を越えて流れていく雲があり、羽ばたいていく渡り鳥がいる。日々の暮らしに追われるわたしたちが、その大切な暮らしを否定することなしに、どのようにすれば新たにされるのかとの戸惑いが、ニコデモの問いには潜んでいるように思えます。日々の暮らしも尊く、目に見えない事柄も劣らず尊い。そう考えながらも、ともすれば日々の暮らしと祈りとが分離するのではないかとの危機をニコデモは感じているようにも思えます。

 わたしたちが新たに生まれるとの体験を授かるならば、それは予想しなかった出来事の中でいのちを救われたり、逃れたりするような「危機」なしには考えられません。それは何も特別に危険な目に遭うようなものではなく、日毎の出会いの中で起こり得ます。さまざまな出来事の渦巻きに揉まれる中で、わたしたちは「もう無理だ」と呟きます。しかし他方「無理だ」と言いながらも、われ知らず新しい一歩を踏み出しています。齢を重ねれば世間では体力が衰えたと言われるような状況に追いやられます。けれどもその中で誰かに支えられている喜びに気づくのだとしたら、それは新しくされているとは言えないでしょうか。大切な人を失ったとき、前よりも増してその人の臨在を感じることはないでしょうか。わたしたちが断片的にしか感じられず、語れない事柄を、イエス・キリストは「新たに生まれる」と語っています。清めとしての洗礼から、教会で執り行われる洗礼への移ろいがこの箇所では記されています。それはとりも直さず、イエス・キリストがわたしたちの盾となり、すべての悩みや絶望の中にあってなお、神が授けた光をお示しくださっていることに根ざします。

『民数記』21章4~9節ではイスラエルの民が神に反逆した折、神は炎の蛇を民に送り多くの死者が出たとの記事があります。他方でモーセの願いに応じて青銅の蛇の像を掲げて、それを仰いだ人々は助けられます。人々は誰かの助けなしには自らの過ちを知ることはなかったでしょうし、新たな課題も知ることはなかったでしょう。しかし十字架にあげられたイエス・キリストは人々に何の犠牲も求めませんでした。わたしたちにできるのは、十字架を仰ぐことだけです。十字架のイエスこそわたしたちの盾であり、キリストは全身に傷を残したまま甦られました。その中でただ苦しむばかりのあり方を突き放し、または時の中で必ず癒されると確信できるのです。

 わたしたちは日々、忙しさだけでなく、暮らしの行方をその都度見直さなくてはならないような危機に直面しています。心荒むような事件を起こしているのもまた人間です。世界を滅ぼしかねない争いを続けているのもまた人間です。だからこそ、わたしたちは善悪の判断の根っこを、イエス・キリストに降ろしたいと願います。復活の光の中で、わたしたちが味わう課題の中に、別の輝きが必ず隠されているとの確信を深めたいと願います。夜半に人の子イエスを訪ねたニコデモは、やがて神の光のもと、キリストとの関わりを公言するにいたります。

2024年5月22日水曜日

2024年 5月26日(日) 礼拝 説教

  三位一体主日礼拝

時間:10時30分~



説教=「神さまはあなたを弁護します」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』14 章 9 ~ 17 節
(新約聖書  196 頁).

讃美=  21-351(Ⅰ.66),312,21-27(Ⅰ.541).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 本日は三位一体主日礼拝を献げます。ただし三位一体の神と呼ばれましても、いつもの日常からは遠いように思われます。常日頃お伝えしておりますのは、この宇宙万物を創造した主なる神のわざは、わたしたち創造された者には測りかねるところがあり、その愛はまことであるといわれましても、小さい子に身体の栄養として大切な野菜を食べてもらおうとしてもなかなか難しいように、わたしたちの口には合わない場合もあります。そもそも『聖書』に記された主なる神は『旧約聖書』でも言葉を通して人間と関わるのであり、それとして姿を現わしません。「神を見た者は死んでしまう」とさえ言われました。罪人たる人は神の光に耐えられないとの理由です。

 しかし『新約聖書』におきますと、それまで時にはそのような人との激しい緊張に満ちた間柄に立つ神の愛をもっとわたしたちの日常に則した譬えで語り、『旧約聖書』の神が虐げられた者の側に立ち、人の設けた境界線を越えていく「越境の神」であると示す人物が現われました。それが人の子イエスです。イエスは大祭司以外が立入を禁じられていた至聖所に留まるのではなく、顧みられなかった道を巡り歩いて神の愛の教えを説き、悲しむ者を癒し支えていきました。人々の暮らしから神の名を問われたとき、イエスは「父」と答えました。しかしイエスの振る舞いは権力者が危険視するところとなり、今でいう冤罪を着せられて十字架で死刑に処せられました。救い主が十字架にいたる苦難の道をあゆみ、処刑されるなどとは古代ユダヤ教ではあってはなりません。ですので、この折に古代ユダヤ教との分岐点が生じることとなります。しかしまことの愛とは喜びだけでなく苦しみをも分かちあい、大切にし、決してその人を一人にさせないという仕方で、「アガペー」という新しい愛のかたちを世に知らしめました。神の愛を知りたければ、イエス・キリストの生涯を辿り、そしていのちに終わりがあるのではなく、復活により死に終わりがあるのだという大転換を人々は目のあたりにするのであります。

 本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では、弟子のフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」との問いへの人の子イエスの答えが軸となっています。そのまま読みますと難解に感じますけれども、他の福音書の箇所のイエス・キリストの振る舞いと重ねていきますと、イエス・キリストが神の愛を証ししている様子がよく分かります。「わたしを信じる者は、わたしが行なうわざを行い、また、もっと大きなわざを行なうようになる。わたしが父のもとに行くからである」とある通りです。

 そして本日の要となるのが「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をも守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と、『聖書』の中で「聖霊」と記される、神の愛の力のもう一つの面を書き記しています。「弁護者(パラクレートス)」としての働きです。弁護されるのはイエス・キリストがその人としてはわたしたちの世から目に見える仕方ではいなくなった時の間に生きるわたしたちです。つまり弁護する者をキリストがわたしたちに遣わすことは、とりもなおさずわたしたちのもとには振りかざせる正義はない事態を示します。自らの痛みや病を知れば、人は他者と争うことなどありません。己にこそ正義があるとの錯覚や思い上がりがあるからこそ、人を軽蔑し、人を悪者呼ばわりし、排除し、その者の言葉に耳を塞ごうとし終にはいのちすら奪おうとします。この振る舞いのどこに正義があるというのでしょうか。自戒も含めて人の間違いを指摘するときには弁護者である聖霊の働きを忘れてはいないか祈りたいと願います。

 先日お話しいたしました、西成区で殺害され木津川の千本松渡船場でご遺体が見つかった内科医の矢島祥子医師の捜査の進捗を求めるチラシ配りを「教会の活動を考える会・伝道委員会」で承認を得て、教会の活動の妨げにならない限り毎月14日に参加する旨赦しを得、5月14日に出かけてまいりました。自転車行き交う鶴見橋商店街で手渡すチラシを見る人の様子は様々でした。不思議なことに一枚いちまい月ごとに作成する兄の敏さんと弟の剛さんはお二人とも新島学園から同志社へと進学し、祥子医師の弟にあたる剛さんは同志社大学神学部99年度生でした。ご遺体の見つかった渡船場では口語訳讃美歌312番を参加者で歌うという想像を絶した出来事がありました。期せずしてわたしども夫婦の共通の知り合いが祥子医師の弟さんだったのです。祥子医師の不審死以上に「これはただ事ではない」との思いに駆られました。復活の出来事に依り頼み、弁護者たる聖霊の働きに委ね、深い痛みにありつつ黙々と世を耕し、神の平和を待ち望む人々の具体的な群れを観た思いです。




2024年5月15日水曜日

2024年 5月19日(日) 礼拝 説教

 聖霊降臨節第1主日礼拝

ーペンテコステ礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「世をかけめぐるイエスの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』10 章 9-16 節
(新約聖書  232  頁).

讃美=  21-475(Ⅰ.352),502,
讃美ファイル3(1.2),21-27(Ⅰ.541).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
 聖霊降臨節で朗読される『聖書』の個所と申しますと、イエス・キリストの昇天の出来事が描写された後に、弟子達が五旬祭の日に集まっている中で、突然激しい風が吹き、炎のような舌が分かれて各々の上に留まり、一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らされるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたというエピソードです。バベルの街の物語の課題がこの箇所で克服されるとの理解もあります。今やイエスの弟子はキリストにただ縋るばかりの姿とは異なり、神の愛の力を授かりイエス・キリストの教えと生きざまを語り、証しするという勇ましい物語が始まるようです。しかし実際の所は多くの課題を各々抱えながら世に福音が広まり、さらにいえば人の目には失敗としか映らない思惑のズレや衝突の中から新たな福音の芽が萌え出でるという出来事でもありました。

 その最たる例のひとつとして考えられるのは「異文化間の食事をめぐる問題」でした。現在のユダヤ教やイスラム教にもあるところの「清くない物、汚れた物」をも含めたいきものが天から大きな布に吊されて幻として示され「屠って食べよ」との声があり、使徒ペトロが戸惑うという場面です。これは『使徒言行録』に記される「言葉の課題の克服」に劣らず重要です。なぜならばこの問題をめぐってわたしたち人間は時に紛争さえも辞さなかったからです。そしてそれは使徒ステファノの殉教の出来事のはるか後の現代でもあちこちで起きています。

 一例としては日本統治下の台湾の出来事があります。日本統治下の台湾には漢族に加えて狩猟民族のタイヤル族という先住民が暮らしていました。この先住民は「社」と呼ばれる多くの部族に分かれていました。日本の統治のもと「近代化」を半ば強要される仕方で進められ、当然のことながらタイヤル族の中にも分裂が生じるにいたりました。そして1930年10月7日、タイヤル族の酋長の息子の結婚式の最中、たまたま通りがかった日本人巡査に祝いの酒が振舞われました。タイヤル族の宴席で用いられる酒は、上代以前の日本で用いられていた、米粒を噛んで唾液ともに容器に入れて発酵させた醪を元にしています。「お前らの唾など飲めるか」と巡査はステッキで花婿を殴打、巡査はその場で袋だたきにされます。予想される報復に向けて27日、霧社公学校の運動会が襲撃を受け、134人が殺害されるという「霧社事件」が起きてしまいます。報復には先住民700人が殺害。もし宴席の酒を勧められた警官が実に危ういバランスに立つ統治を自覚して結婚式を祝福していればと悔やまれます。差し出される食卓を拒絶するとき、その時代の初代教会にもそのような奢りは潜んではいなかったか。実に難しい問題であったことが本日の箇所からも分かるというものです。

 そのようなところからも、あらためてイエス・キリストが病に罹患した人々、罪人と呼ばれる人々、そして徴税人といった職業上賤業と蔑まれる人々とともに食卓をともにし、また五千人の人々を二匹の魚と五つのパンで満たしたそのわざ。食卓を囲んだ人々はその時代の人々からはわたしたちの文化でいうところの穢れの者として排除されており、また五千人の人々は「群衆:オクロス」と呼ばれこそすれ、一人ひとりの名前は記されていませんでした。しかし近代・現代にあってなおもわたしたちが見つめるべきは、イエス・キリストの育んだ神の愛にあふれた交わりの上に、教会の導き手となった使徒たちは連なり、その交わりを広めるべく、時には自らの頑ななあり方を見つめ、打ち砕きながら歩んでいったという態度です。イエス・キリストが天に昇っていった、裏を返せばその人自らとしてはイエス・キリストはわたしたちの暮らす世とは一定の距離を保たれているという理解のもとに描かれる『使徒言行録』からも、使徒ペトロの苦悩に主なる神がその異邦人伝道に助け船を出してくださる様子が描かれます。新しい時代に向けて教会を整えようとするとき、わたしたちの閃きやアイデアが尽きてしまったと思ったときにふと空を見あげれば、雲とともにかけめぐるイエスの愛の力であるところの聖霊の働きに励まされはしないでしょうか。実りを先取りしようとする焦りを、雲を動かす風の力と陽の光、そして降り注ぐ雨垂れの滴に秘められる神の愛の力は洗い流してくださるように思うのです。『使徒言行録』は決して使徒となった弟子の思惑の通りには宣教のわざが進まなかったことを示しています。しかしそれとして備えられた思惑が破られたとき、一人、また一人と様々な生育環境の背景をもつ人々、一つの民の倣いには収まらない交わりが芽生えているのではないでしょうか。イエス・キリストの愛は、今もなおわたしたちの世界をかけめぐっています。その愛の力は憎しみの壁を新たな出会いへと変えてくださります。そして相互に謙遜な思いとともに仕える道を備えてくださります。すべてのいのちを大切にする神の愛のわざが、着実に実現いたします。

2024年5月8日水曜日

2024年 5月12日(日) 父母の日礼拝 説教 ※当日の礼拝中継視聴用リンクを掲載しています。

――父母の日礼拝――

時間:10時30分~




メッセージ=「みんなでしゅわっと讃美しよう!」
伊倉睦美姉(大阪昭和教会)

聖書=『コロサイの信徒への手紙』3 章16~17 節
(新約聖書  371  頁).

讃美=※こどもさんびかは「改訂」を使用.
こどもさんびか58,「このままのすがたで」,
こどもさんびか132,こどもさんびか25.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
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(礼拝終了後も、中継動画をご視聴頂けます)

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

なお、当日は特別伝道礼拝につき、
牧師による収録動画・説教要旨はございません。
宜しくお願い致します。

2024年5月1日水曜日

2024年 5月5日(日) 礼拝 説教

          ー復活節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「たとえひとりきりになっても」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 16 章25~33 節
(新約聖書  201  頁).

讃美=  21-224(Ⅰ.73),320,
    21-27(Ⅰ.541).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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【説教要旨】
 「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ』」。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」との弟子たちの応答に、人の子イエスは「あなたがたは散らされる」「自分の家に帰ってしまう」「わたしをひとりきりにする」との文言が続きます。弟子一人ひとりにはショッキングでしたでしょうし、「あなたがたは散らされる」との言葉には十字架の出来事にいたるまでのキリストの担う苦難に誰も寄り添えないとの含みが加えられています。いずれにせよ聴く者の心に深い余韻を残す言葉となったのは疑いありません。

 先週の礼拝では「迫害とは恐怖を伴う劇的な出来事」との理解を超えて「わたしたちの快適な暮らしを満たし、思うままに振舞おうとする道筋を邪魔する者への排除」との理解に立ちました。それは現代にも充分起こりうるとのお話で一旦幕引きをしたのですが、「快適な暮らしを過ごしたく、思うままに振舞う」といういささか幼い、そして排除という名の暴力を伴うあり方がわたしたちの暮らしを締めつけています。例えばコロナ禍以降に政府関係者からテレワークが推奨されましたが、具体的にはリモートによる会議であったり、ミーティングであったりとのことで、他者との関係性がこれまでになく希薄化した時代をわたしたちは現在迎えています。「閉じこもり」「ひきこもり」はもはや異常ではなく日常の事柄であり、「孤独死」という言葉は英語の語彙にまでなりました。経済的に豊かであろうと、貧困であろうと、この孤独死は起こりえます。その意味で「散らされる」「ひとりきりにされる」とは貧富の格差を越えて生じるものと、心のどこかで諦めの寸前に立つわたしたちがいます。

 しかしながら、イエス・キリストの語る「わたしをひとりきりにする」との文言と、わたしたちが陥るところの「孤独」とは次の面で区別されることとなります。それは、わたしたちがひとりきりになる場合は、そうとは知らず予測もできないところでそのような状況に陥るのに対して、イエス・キリストは十字架と復活にいたる自らの救い主としてのあゆみを見越した上で語っているという点です。だからこそ「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」との言葉に連なることとなります。

 思うにイエス・キリストと弟子との関わりをわたしたちが考えるときに、十字架への苦難のあゆみに弟子たちはついていけず、一人ひとり櫛の歯が欠けるように脱落し、その中には人の子イエスを裏切る者すら現われるとの理解に立った『聖書』の理解を繰り返してきました。そもそも福音書そのものが、そのような負い目を抱えた弟子の口伝を基にしているところからそのような陰が強調されるのかもしれません。しかしもし、イエス・キリストがわが身に迫る苦難と危機をそれとして知っており、人の子イエスとしての辛酸をなめながらも弟子一人ひとりを逃れさせ、さらに自らの宣教を託されたとの理解があれば、従来の福音書の解き明かしとは異なる地平が拓かれます。イエス・キリストはわが身を盾として十字架刑に処せられ、そして三日後に復活されたとするならば『ヨハネによる福音書』の「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」また「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」といった教えに首尾一貫した道がより鮮やかに示されるのではないでしょうか。

 父なる神がイエスとともにいてくださるという言葉を集約すれば「インマヌエル」という、クリスマスの出来事の最中に天の御使いが語ったメシアの称号へと連なっていきます。わたしたちの交わりは、決して自己完結いたしません。それは絶えず広がっていくものでもあります。たとえひとりきりになっても、わたしたちは決して孤独ではありません。新たに迎えたその「ひとりきり」というありようの中で、わたしたちは、端から見ればそれは独り言のように聞こえても祈りを献げることができます。『聖書』を味わうことができます。そしてその先には新しい出会いとライフステージが整えられています。さらに申しあげるならば、デジタルに関わるすべての端末を絶って敢えて「ひとりになる」勇気をもつとき、わたしたちはキリストとの深い交わりに置かれ、身近な人々との交わりの尊さに気づかされるに違いありません。最も身近な交わりに感謝する日々でありたく願います。