2023年9月28日木曜日

2023年 10月1日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第19主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「無視せずに手をさしのべる勇気と愛」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』16 章 19~26 節
(新約聖書  141頁).

讃美=74,392,讃美ファイル 3,542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 学生時分の一時期に暮らしたアパートから最寄りの駅に着くまで何度も「兄ちゃんいい身体しとるなあ、仕事せえへんか」と声をかけられた思い出があります。大阪市西成区の「あいりんセンター」の周りにマイクロバスが多く集まり、手配師と呼ばれる人々が人手を集めていました。日雇い労働者の人手が足りないとされた時代の話ですが、身体に緊張が走った覚えがあります。あのころマイクロバスに乗り込んでいった、土木工事の作業服に身を固めた若者や中高年の方々がどこにいるのか定かではありません。

 今その場所にいってみれば齢を重ねた人が不自由になった手足でふらふらと自転車を漕いでいたりぼんやりと佇んでいたりとの様子を見ます。辛そうにされている様子に思わず手を出して「この街の倣いと違うことはするな」とお叱りを受けたこともあります。そのような記憶をたどりながら本日の『聖書』の箇所を味わってみますと様々な事柄に気づかされます。人の子イエスの物語る譬えには人物が二人描かれます。片や「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日をぜいたくに暮らす金持ち」、片や「この金持ちの家の門で、できものだらけの姿で横たわる貧しい人ラザロ」です。人の子イエスが強調するのは、名をもつ人物がラザロであることから分かります。また譬えであるにせよ、死後の世界を舞台にしているという点でも異色の物語となっています。ヘブライ人は死後の世界を問題視しないからです。しかし敢えてそのような筋書きを用いて強調したい事柄がこの物語にはあるようです。それではこのラザロが亡くなり、金持ちが葬られた後、二人はどうなったというのでしょうか。

 ラザロは死に、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに招かれます。そして金持ちは陰府の炎の中で次のように叫びます。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。(略)ラザロをよこして、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。しかし返事は次の言葉でした。「(略)お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。ラザロと金持ちとの間には深淵があり、互いに行き来は出来ません。金持ちが兄弟にこのような場所に来ないよう伝えてほしいと願えば「『律法の書』と『預言者の書』がある。これに耳を傾ければよい」との返事。死んだ者の誰かが甦り兄弟のところへ行けば悔い改めるだろうとの声には『律法の書』と『預言者の書』に耳を傾けなければ、たとえ甦ってもその言葉は聞き入れられないと突き放され続けます。

 こうして読み進むうちにわたしたちはある疑問にたどり着きます。それはこの金持ちは死んだ後にこれほどまでに苦しまなくてはならない悪事を働いたのかという問いです。東アジア文化圏でいう因果応報論に則する死後の世界には地獄があり、このような苦しみの中を彷徨いますが、この金持ちは具体的に悪事を働いたとは記されていません。ただし、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに暮らしていた」、そしてこの金持ちは家の前に横たわる皮膚病に冒されたラザロに気づかず、残飯すら与えなかった態度が記されます。すなわち門前にいたラザロを一切視野に入れなかったその無関心さのゆえに、そして関わりを持とうともせずにその財産を「自分の贅沢のため」だけに用いていたというところに、永劫の苦しみを受ける理由があったとしか考えられません。そういたしますと『ルカによる福音書』の主たる読み手として想定されたローマ帝国の身分の高い役人や富裕層には極めて耳の痛い話となります。福音書の書き手はそれとしてローマ帝国の支配を認めてはいても、その中に生じている富の格差に決して無関心ではないとはっきりと語りかけているからです。

 現代の格差社会にあって、わたしたちは「このままでよいのだろうか」との問いを絶えず抱えています。極端な貧しさの中で今なお食に事欠くこどもたちがいる一方で、インバウンド景気を狙った宿泊施設の料金は天井知らず、です。新今宮駅からそびえ立つ高級リゾートホテルを眺めますと、手配師に声をかけられた折以上の目眩を感じます。福音書の物語で絶えず「それでよいのか」と問われる事柄とは「わたしのものはわたしのもの」という独占です。しかし独占にばかり気を囚われていますと、わたしたちは一人だけで生きていけるとの錯覚に陥り、他者との関わりを斬り捨て、誰をも愛せず、誰からも愛されないという洞穴に閉じ込められてしまいます。『聖書』が示す生き方とは、イエス・キリストが伝える生き方とは、神に愛され、隣人を愛するというあり方です。教会関係者にはかつての日雇い労働者とは異なる時代の貧しさに喘ぐ人々のためにおにぎりを作ろうとされる人がいます。また「こども食堂」では他の年齢の方の肩身が狭かろうと別の名称のもとで奉仕する方々がいます。礼拝でも献金の備えをされる方々がいます。奉仕と献身のかたちには多様性があります。その豊かさを尊び、キリストが癒しを求める人を見捨てずにあゆんだそのあり方を本日は分かちあいたく願います。かつて日雇い労働者の声をすべて受けとめようと完璧さを求めたあり方を顧みながら、今わたしは教会から教えられるばかり。イエス・キリストに超えられない深淵はありません。そこにはあふれる希望があります。

2023年9月20日水曜日

2023年 9月24日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第18主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「世のための教会」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』16 章 1~13 節
(新約聖書  140頁).

讃美=226, 191, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 事実がどうであれ、主人の財産をごまかすか、または横領していると告げ口され、帳簿を出せと迫られた管理人がいました。「土を掘る力もなく、物乞いするのも恥ずかしい」と自分の生活力のなさを知る管理人は、解雇されても自分を迎え入れてくれる人々を作るため、主人に借りのある者を一人ひとり呼び、「油百バトス」とある帳簿を半分の量に書き換えさせ、「小麦百コロス」との帳簿を実際の数字の八割に書き直させます。保身というよりは「どの道解雇されるはずだ」との思いを前提とした管理人のなりふり構わないやり方。それは結果として貸し出した油や小麦の返済を額面通り強引に迫るのではありませんでした。どの道商品は劣化し、いわばアウトレット商品化しているはずですから、実は貸した方にも借りた方にも損のない道筋を結果として見出したこととなり、貸した方にも借りたほうにも世間の評判にも、いわば「三方よし」の結果を導き出し、思い込みに反して主人に褒められた、という物語を人の子イエスは語ります。ただわたしたちがこの箇所で注意したいのは、工夫のために奔走した管理人そのものにではなく、イエス・キリストがこの譬えを用いて何を言わんとしていたのか、という点です。

 それは第一には「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」に始まる教えです。これは何も「なりふり構わない仕方で得た富で」という意味ではありません。福音書の中で問われる正義とは本来は神の御旨通りにあゆむという意味です。しかしその時代の古代ユダヤ教の基準となった「正義」とは実際には『律法の書』を守る生活態度としての面が強調されるばかりで、先ほどの譬えのような、礼拝での話にも上らない日常のやりとりの中で見られる柔軟な発想は困難でした。イエス・キリストは「不正にまみれた富」と言っています。つまり「富」とはそのものとしては正しくも何でもなく、どれほどの財産を所有しているかどうかが生き方としての正しさを決定するものではないと言うのです。確かに『旧約聖書』の『出エジプト記』では財産に示される豊かさを「金の雄牛」として崇拝したイスラエルの民の一部は十戒の前に絶たれ、今や滅びの最中にある豊穣な都市国家ソドムから逃れる最中、思わず街を振り返ってしまったロトの妻は塩の柱になったというな「富」の崇拝を戒める物語は無数に描かれます。しかし他方で、わたしたちは日々の糧としての財産を否定して生きるわけにもまいりません。だからこそ10節では「不正にまみれた富」が「ごく小さなこと」として、些細なことであっても疎かにはできない事柄として理解され、「富」そのものが礼拝の対象ではないながらも、「本当に価値あるもの」との関わりの中で理解され、「二人の主人に仕えることはできない」、すなわち手段は手段として、すべての被造物の根本を司る神が神とは鮮やかに一線が引かれます。教会は世のために仕えます。絶えず移ろう世に奉仕します。そしてわたしたちも世に属する者です。道の定まらない狼狽えがちな者でもあります。ただしこの世界そのものは、神自らが創造された場です。不正にまみれた世にあって、神の愛を宣べ伝えるには、身近なところにある希望を見つけ出し、分かち合うわざこそが肝要だと本日の箇所は訴えているようです。経済的な富をもたらす生産性という観点からは決して見定められず、見定めてはいけないのがいのちの尊さです。

 イエス・キリストが語る神の国とは、この世の破壊や否定に成立つ「破局的終末論」とは全く異なった特性を帯びます。この世を神の愛が包み込んでいくのであり、その只中にわたしたちはあるという理解に立ちます。わたしたちはエデンの園に暮しているのではありません。教会とて世と関わりを持たずに済む場ではありません。むしろわたしたちは、箱舟物語で洪水が引いた後の、神の赦しの世界に暮しています。大自然のいきものとて、食物連鎖の只中に暮しています。これはいのちが別のいのちの犠牲の上に成立つ生態系です。しかしそれはそれぞれのいのちがそれぞれの特性に応じて生き長らえる環境を前提としており、特定のいきものばかりが繁栄を謳歌する「弱肉強食の世界」とは全く異なります。わたしたちの世も決して弱肉強食論や自己責任論では片づけられません。多様な特性がその多彩さに応じて、それぞれの個性が神に祝福されたものとして用いられ、隣人のために誠実に用いられる交わりの只中にあります。イエス・キリストに根を下ろした生き方が示すあり方です。

 一般に、わたしたちは自分たちの暮らしを富のありやなしやで計ろうとしがちです。確かにそれは分かりやすい尺度ではあります。しかしそこには誰かとの比較の上で成立つ、かりそめとしての幸福しかありません。イエス・キリストはわたしたちに伝えたのは、何よりも「貧しい者は幸いである」という教えと生き方であり、孤独からの解放、「独占する」というありようからの解放です。幸せや豊かさの基準が絶えず移ろう世にあるわたしたちだからこそ、神は世のいのちをすべて等しく尊くお造りになり祝福されたとの喜びを伝えてまいりましょう。それこそが「世のための教会」というあり方の多様性を裏づけるものだと確信します。


2023年9月14日木曜日

2023年 9月17日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第17主日礼拝 ー

―長寿感謝の日礼拝―

時間:10時30分~



説教=「いつまでも新しくされるわたしたち」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』15 章 25~32 節
(新約聖書  139頁).

讃美=517,520, Ⅱ192,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 父親の遺産の半分を前借りして旅に出たのはよいけれど、大金の殆どを遊興に用い、それに輪をかけて飢饉に襲われ、身を持ち崩して豚飼いの手伝いをする羽目になった弟。汗みどろの日々が続く中でふと父親を思い出し、たとえ雇い人の一人にされてもよいからとの一念で帰郷します。父親はこの弟を冷たくあしらうどころか喜びにあふれ服を着せ、履物を備え手に指輪をはめ、肥えた子牛を屠り宴会まで催します。他方で弟不在の間、黙々と父親に仕えてきた兄は不平を漏らします。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」と物語が展開する本日の箇所は、教会やキリスト教の枠を超えて知られる「放蕩息子の譬え」と呼ばれます。本日お読みしたのは兄と弟の帰還を祝った父親との対話ですが、父と兄弟の関係の複雑さは新鮮さを失うどころか却って時を超えてわたしたちに深い問いを突きつけます。福音書での聴き手は「徴税人や罪人」となります。

 さてもしこの物語が『旧約聖書』に記されていたならば果たしてどのような顛末になっていたかと幾度も考える機会がありました。「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞えてきた」と始まる箇所は『出エジプト記』では「十戒」を神から授かり、山から降りてきたモーセの物語を彷彿とさせます。そして音楽や踊りに興じる人々は、奴隷解放の神を忘れ、金で作られた雄牛を囲み、イスラエルの民が興じる舞い踊りに重なります。その後この宴に連なった者たちはモーセに従った人々の剣にかかり、三千人の男性を頭とする家族が絶たれたとの記事につながります。あるいは『創世記』には神が弟アベルの献げものを喜び、兄カインの献げものを退けたとの物語があります。妬みと憎悪に駆られた兄は弟を殺害します。いずれにしても物語の読み手や聴き手であるわたしたちには極度の緊張が強いられ、その物語の顛末に深く傷つくところです。どうしてこのような取り返しのつかないことになってしまったのかという消化できない問いかけがそこには残ります。あるいはモーセの帰還を待ち続け神の言葉をひたすら待望する態度こそが正義なのだと生き方に枠をはめられてしまっても戸惑うところがあります。

 しかし本日の箇所では、物語が決して一方的に意味づけられてはいないと気づかされます。「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」という弟の旅路にしても、何が放蕩で何が無駄遣いなのかはっきりとは語られてはいません。本人は前借りした父親の遺産を用いて何をしていたのでしょうか。確かに端から見れば放蕩や遊興に見えたかも知れませんが、本人は自分に託された人生とは何かと、当時は決して安全とはいえない旅路の中で試行錯誤を繰り返する中、ぼろ雑巾のような身の程を知り、夢破れて帰宅するほかありませんでした。このような家族をわたしたちはどのように迎え入れるのでしょうか。

 また本日の箇所では、家族や家庭を支えようとする兄の使命感をひしひしと感じるとも申せます。ともに働くはずの弟がいないのですから、身動きしがたいその状況を何とかしなくてはとの焦りにも駆られていたでしょう。兄は帰宅した弟を囲む宴に加わろうともせず、父親の宥めにも応じようとはいたしません。父に向けた言葉とは「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。いのちがけの旅から帰還した弟への妬みと憎悪を感じてあまりある箇所です。ただ不思議なことに、この家族崩壊寸前の状況の中で最も苦悩したはずの父親は、ただただ黙って兄の訴えに耳を傾けます。ひたすら言い分に耳を傾けるのです。わたしの青春時代はあなたのもとで失われてしまったとでも言いたげな兄の主張を決して否定しないのです。そしてその上で、「子よ、お前はいつもわたしとともにいる。わたしのものは全てお前のものだ」と遺産のみならず、おそらくは農場、また労働者であるところの人々も、みなお前に属するのだと宣言します。その上で「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当然だ」と語りかけます。おそらく文脈からは「弟を悪くいうのはもう充分だろう。あなたもこの喜びの座に早く加わりなさい。わたしもあなたとともにいる」と呼びかけているともいえます。

 わたしたちの中で、思い通りに事を運びながら齢を重ねた人など誰一人おりません。しかし本日の箇所では『旧約聖書』では血生臭い物語に繋がるはずの物語、そして家族を巡る悲しい事件の報道が絶えない現代にあって、どのような生き方であったとしても神は必ずともにいてくださるとのメッセージを発信し続けています。そしてもし置かれた場所が当事者のいのちや生涯にふさわしくなければ、そこを離れて、旅する逃れの道もあるのだとはっきりと示しています。本日は長寿感謝の日礼拝です。かけがえのない生き方の中で授かった賜物が当事者の心にどのように映ろうとも、分かちあいの中で喜びの宴になると確信する礼拝です。

2023年9月6日水曜日

2023年 9月10日(日) 礼拝 説教

   ー聖霊降臨節第16主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「一心不乱にあなたを愛する神」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 25~33 節
(新約聖書  137頁).

讃美=Ⅱ167,420,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
  「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないならば、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしにふさわしくない」。一緒についていこうとした大勢の群衆に向けて、人の子イエスはこのように語りかけます。福音書のすべての物語からこの言葉だけをきりとって理解するならば、すべての人間関係を否定してでも、イエス・キリストに従わなくてはならないという理解すら生まれます。事実そのような呼びかけに応え、すべての人間関係を絶ち切って教会の交わりに加わらなくてはならないと誤解されて、この箇所が理解された時に、『聖書』を味わう一人ひとりに大きな圧力をもたらす、または実際に家族との関わりを絶って教会に集うという、見方によってはカルト化した集団さえもたらすリスクをはらんでまいりました。しかし『聖書』という書物はわたしたちの身近な人間関係を破壊するような生き方や、画一化された生活の枠というものをわたしたちに決して求めてはいません。例えば『ルカによる福音書』より前に記された『マルコによる福音書』1章29節では、すべてを捨てて従ってきたはずのイエスの筆頭弟子とされるシモン・ペトロの姑のもとへイエスはまいります。姑は熱を出して寝込んでいたのですが、人の子イエスはこの熱病を癒します。もしイエス・キリストがわたしたちに出家のような生き方を求めているとするならば、このような記事は記されないと思われます。どだい、家族を捨ててキリストに従ったとの思いから弟子たちの間に生まれたのは「誰がイエスの次に偉いのか」という歪んだ傲慢さであり、何かを斬り捨てようとも、より「キリストへのふさわしくなさ」が際立つだけであったというのが福音書の物語の伝えるところでした。

 それは先ほどの箇所の後半にも読みとれるところです。ひとつには「塔を建てようとする者」、もうひとつには「戦の和睦の話」の譬えです。高い塔を建設する場合には緻密な計算が必要ですが、人の子イエスが主題とするのは塔の建設に必要な経費、すなわち予算です。予算を綿密に練らないことには、土台を築くだけに終わり、人々から嘲りを受けるだろうという話。これは、キリストに従うという道には祈りの中での熟慮というものが必要であり、衝動的なものであってはならないとの誡めが隠されています。人の欲求によるのではなく、キリストに従うというわざは神の愛との出会いと招きに拠るものであることがこの箇所では強調されています。人の思いのみによるあゆみの脆さは、何よりもイエスの弟子たちが示しています。

 第二に示された「戦の和睦の話」からは、極めて冷静な人の子イエスの現実認識が窺えます。二万の軍隊が押し寄せるに際して、こちらには一万の軍勢しかない。その場合、どうすればよいのかを「腰を据えて」、つまり冷静になり、その後の行く末も含めて王は考えるものだ。もし敵わないと判断したならば、犠牲を避けるために使節を送って和睦を求めるだろうという話です。

 この二つの譬え話に示されている事柄とは、その人自らの衝動的な服従の誡め、そしてそのままでは争いにいたるはずの相手との和解を、イエス・キリストは自らの服従への道筋として捉えているというところです。キリストを基として生きる生活は、決して今ある暮らしの否定にはただちには繋がりません。DV問題や家族間の問題の解決は個人の意志としての信仰の問題というよりはその人自らの暮しや社会全体の問題であり、場合によれば裁判所という司法機関や警察という行政機関の発動をも必要とします。むしろその結果暮らしや心に刻まれた爪痕が何をもたらすのかとキリストに問いかけ、癒しを乞い願う中で、キリストに従う道が拓かれてまいります。関係者との和解の問題のみならず、自らの肯定しがたい爪痕との和解がキリストにおいて起きるとき、その人は赦され、新たな「やり直し」の時を備えられてまいります。その赦しのために神は、髪を振り乱してわが子のために奔走する母親のように、わが身を省みずにその人に愛をそそいでまいります。まさに「一心不乱」という言葉があてはまるありようです。

 このメッセージを聞いたローマの市民たちは、果たして何を思ったことでしょうか。『ルカによる福音書』は、身分の高い役人に献呈された福音書という一面ももっています。土木建築はローマ帝国に地中海世界を網羅する物流のネットワークをもたらしました。また現代にいたるまで数々の建築も遺されています。他方で武力によって帝国の意志に反する勢力を徹底的に潰すという仕方で「ローマの平和」を実現しました。イエス・キリストの譬えは、そのような人々の現実を否定するのではなく、まず自らの足下を指差し、建築を依頼された者の暮しの重圧と、戦の中で流血を可能な限りに避けるために智恵を絞る王を引き合いに出しています。いずれの判断も、自らの保身や立場を考えていては、成し遂げられません。そのわざの途方もない重圧を振り向けられたとき、自らの力の限界を悟り、キリストに根を下ろした暮らしを選ぶほかはなくなります。追いかけてくる神の力に、イエス・キリストに依り頼むことによってすべてを委ねるのです。一心不乱にわたしたちを愛する神に身を委ね、神の智恵を授かりたいと願います。