2022年12月29日木曜日

2023年1月1日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「父母の保護から自立する少年イエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』2 章41~52 節
(新約聖書 104頁).

讃美=7,121,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 飼い葉桶にお生まれになった人の子イエスはどのような道を経て救い主へと成長するのでしょうか。『マタイによる福音書』では嬰児イエスのいのちを狙うヘロデ王の追っ手から逃れるためエジプトへと急いだ父ヨセフ、母マリアと幼子の姿を描きます。エジプトで家族はヘロデ王の恐怖政治から逃れる難民の姿に身をやつします。いったい家族がどのようにエジプトで歳月を重ねたのか。それは福音書の文言には書かれてはいません。読者にはヘロデ大王が代替わりをし、その息子がユダヤを支配していると聞いて、家族はガリラヤ地方へ引きこもったと記されるだけです。『マタイによる福音書』で父ヨセフの姿はこの記事が記される2章を最後にして舞台から静かに消えていきます。
 他方で本日みなさまが先ほどお聴きになった『ルカによる福音書』では、幼子イエスの家族に実に立ち入った描写をしています。飼い葉桶の嬰児イエスのいのちを狙う者などどこにもおらず、徹頭徹尾祝福された存在として描かれます。それだけではなく、当時のユダヤ人、いや古代ユダヤ教の倣いに両親は実に忠実で、その時代の庶民がエルサレムの神殿に「山鳩一つがい」または「家鳩の雛二羽」の献げものを持参して、授かった幼子を神に献げる象徴とし、過越祭には12年間一度も絶やさずに毎年エルサレムへ旅をし、神殿で祈ったと記します。当時のローマ帝国の倣いに同化してしまった人々もいたはずだろうに、この家族はモーセの誡めに従い続けた様子が記します。
 しかし本日の記事ではこの家族に大きな変化が生じます。イエスが誕生して12年目のこと、祭りの期間が終わって家族が親族ともども帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残る一方でマリアとヨセフはそれに気づきません。おそらくそれまでならば両親が充分注意を払ってナザレとエルサレムの道を往復していたはずなのですが、今回は前代未聞のケース。「少年イエスはエルサレムに残る」と言えば聞こえはいいのですが、要は両親がエルサレムに置き去りにして、さらには一日分の道のりをナザレへとたどり、親類や知人の間を捜しまわったが見つからず、エルサレムに引き返す他なかったのです。息子を捜す夫婦の胸には何が去来したことでしょう。例えば本日の福音書には「良いサマリア人」の譬えが記されています。その中にはエルサレムから名のある街へと道を急ぐ旅人が追い剥ぎに襲われて服をはぎ取られ殴りつけられ、息も絶え絶えにされてしまった姿が描かれます。エルサレムからナザレへの旅とはいえ、12歳の少年の身に何かあったらと気が気ではない様子が夫婦の狼狽から窺えます。
 とはいえ、両親の心配をよそに、三日後に見つけた少年イエスの姿は意外なものでした。神殿の境内で律法学者の真ん中に座り、律法の話に耳を傾け、疑問や質問を投げかけていたのでした。車座と言ってもよいその語らいの場には、話を聞くために立ち止まる人々の姿もあります。少年イエスには父母への思いや過越の祭からの家路への思い煩いはなく、ひらすら『聖書』の解き証しに向けた関心があるのみであった模様です。身柄は学者が保護していたのでしょう。その夢中な姿に「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と母親は言うほかありません。返す少年イエスの答えは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この一文の中で「父」との言葉に込めた意味合いが大きく変わっていることにお気づきでしょう。すでにこの箇所で少年イエスの言う「父」とはヨセフから「父なる神」へと意味が変わり、将来の救い主としての働きの兆しを見てとれます。しかも「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」と、わが子の言動に理解できないものも感じ始めています。「メシアの秘密」の目覚めです。そしてその後、はじめて家族はともにナザレへ戻り、少年イエスはナザレに帰り、両親に仕えて暮したとあります。手伝うということではなくて、父なる神の愛を注がれて、凛とした少年は身体としては衰えつつある父と母を、時が満ちるまで支え続けたのでした。母はこの出来事をすべて忘れることはありません。こうして、少年イエスはキリスト・イエスへと成長していくのであります。
 本日は元旦です。干支や年始の挨拶など配信動画やリモート中継礼拝ではするべきだったかもしれません。けれども教会のメッセージで肝となるのは『聖書』が何をわたしたちに語っているのかというこの一点です。お正月には家族が集まります。集まるはずです。しかしまた今年もコロナ禍の中で年始を迎え、いるはずの家族の姿が見えない、または久しぶりに集まった家族と食卓をともにしながら、少し年をとったね、少し大人びてきたね、との語らいもあるでしょう。「メシアの秘密」に示される「神の愛の秘密」はみなさまにも賜物として備えられています。新たな年。2023年もまた、わたしたちの交わり、家族の交わり、大切な人との交わり、主にある教会の交わりが、変化や困難の中にあるからこそ耕され、新たな希望の種が蒔かれていくことを祈ります。

2022年12月21日水曜日

2022年12月25日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ―降誕節第1主日礼拝―

――クリスマス礼拝――

時間:10時30分~
※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。

説教=「あなたの涙をぬぐうイエス・キリスト」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5 章 3~10 節
(新約聖書  6頁).

讃美=111, 112, 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 クリスマスにまつわる物語にはさまざまなお話があります。イギリスの作家チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』のように、守銭奴のような暮しを続けてきた人物がクリスマスの夜に起きた出来事を通して回心する、または北米はオー・ヘンリーの『賢者の贈り物』では若い夫婦が貧しさの中でせめてもの贈り物を、と夫は自分の懐中時計を売って鼈甲の櫛を、伴侶は長い髪を切り、それを売って懐中時計につけるプラチナの鎖を買い求めるという一見愚かな行き違いが最も賢いわざだとする、しみじみとした感動とともに読者に希望を与える物語が喜ばれます。
 しかし一方でアイルランドの作家オスカー・ワイルドの『幸福の王子様』では両目にサファイア、剣にルビーを帯びた王子の像が貧しさに喘ぐ人の姿に心を痛め、渡りそびれたツバメの助けを得てきらびやかな宝石をすべて贈り物にした挙句、人々から捨てられ、凍えて亡骸となったツバメとともに神に天国へと招かれる物語、デンマークのアンデルセンの『マッチ売りの少女』、イギリスの作家ウィーダの『フランダースの犬』は、凍てつくクリスマスの夜に凍えながらもその貧しさの中で苦闘した生き方を神に祝福されて天に召される少女や少年を描きます。悲劇的な生涯にも必ず神がともにおられるとのメッセージが鐘のように響きます。
 このようにクリスマスをめぐっては実に多彩な物語が編まれるのですが、一体なぜなのかとみなさまとともに思い巡らします。キリストの誕生という出来事は、もちろん嬉しく、喜ばしくはありますが、その出来事は同時に今、このときに涙する人、悲しむ人、凍える人、孤独に苛まれている人、病の床にある人、家族を失った人、明日をも知れぬ不安に苛まれている人にも等しくともにされているに違いないとの確信や祈りと不可分だったからではないでしょうか。
 例えば『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの誕生とともに、王の座を脅かされるとの恐怖に駆られたヘロデ王が、嬰児イエスのいのちを狙って、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を「一人残らず」殺害させたとの記事が記されます。もちろん、権力闘争は常に暴力を伴い王の跡継ぎをめぐるこのような血生臭い事件は枚挙に暇がないといえばその通りなのですが、本当にそれが当然、当たり前であるとの意識に立っていればこの「幼子殺害事件」の記事は掲載されず、少しも顧みられなかったことでしょう。しかし救い主の誕生との関係の中で、権力への妄執とその妄執がもたらす犯罪行為が白日の下にさらされ、幾度も『旧約聖書』の『預言者の書』に記された死者の復活の出来事が反復されます。
 そうであるならば、今朝は『聖書』のテキストを、クリスマス物語の箇所そのものとするよりも、救い主として成長し、群衆とその中から人の子イエスに従う道に招かれた弟子たちに語った、世に言う「山上の垂訓」から解き明かしてみましょう。
「心の貧しい人々は幸いである」。「貧しさ」とは「頼るべきものが何一つない」という状態を示し、最低限の誇らしさや意地さえも失ってしまっている人々だと言われます。そして「悲しむ人々」、「柔和な人々」、世の不条理に憤りを覚えながらも悔しさに震えている「義に飢え渇く人々」、自分の事柄を棚に上げてでも人の痛みに心を寄せる「憐れみ深い人々」、処世の術を知らず世にあれば欺かれてばかりの「心の清い人々」、そして人々からの無理解に晒されても神の平和を待ち望み、規模を問わずその平和を証ししていくところの「平和を実現する人々」、そして神の正しさである義に依り頼んで迫害される人々は、まさしくクリスマスの主であるイエス・キリストに「幸いである」と特別の祝福を授かり、その祝福の中で深く結びつけられてまいります。ヘロデ王に殺害されていった幼子は、十字架のキリストの死と復活にその道を同じくされて、今や神の恵みに満ちた統治のもとでの甦りの時を待っています。イエスが幼子一人ひとりを抱きあげて祝福された箇所に重なります。苦しむ者も悲しむ者も誰も孤独ではないのです。
 嬰児イエス・キリストのもとに招かれた人々は、誰もがみなその時代にあっては「招かれざる客」「招かれざる人々」として遠ざけられていった人々でした。ヘロデ王に対して「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねた東方からの「無礼な」三人の学者、そして「人として扱われなかった」羊飼い。その人々が飼い葉桶のいのちの光によって包まれたのがクリスマスです。礼拝に集う人々は何らかの生きづらさを抱えているとは言われますが、わたしたちもまたその生きづらさを大なり小なり抱えて活かされています。ときに暮しのことでオロオロするあまり、奉仕や祈りを疎かにし、隣人に無関心となるわたしたちです。だからこそ飼い葉桶の主イエス・キリストはわたしたちを幾度も目覚めさせてくださります。そして涙をぬぐってくださります。それがクリスマスの出来事であり、聖日礼拝を通してそそぐ神の愛の力です。期せずして新型コロナ感染症の流行によって在宅礼拝に絞った2022年のクリスマス。気持ちが満たされないと嘆くよりも、飼い葉桶の主イエスの光が照らす人々に祝福を祈りつつ顔を向けてまいりましょう。モニター越しにではありますが、心からクリスマスの訪れをお祝いしたいと願います。

2022年12月24日(土) クリスマスイブ礼拝 説教 (コロナ禍対策により 収録動画によるメッセージの分かち合いのみとなります)

クリスマスイブ礼拝は、

コロナ禍対策により、収録動画によるメッセージの分かち合いのみとなります。

説教=「皇帝にまさる救い主の栄光」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』2章1~7節
(新約聖書 102 頁).

讃美=107,109,544,

クリスマスイブ礼拝の説教は、
下記のリンクよりご覧ください。

説教動画は、
「こちら」←をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「そこで敬愛するテオフィロ様、わたしもすべての事を始めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」という、ローマ帝国の身分の高い役人と思しき人物に宛てて記される『ルカによる福音書』。『新約聖書』に収められた福音書はそれぞれ個性的ですが、具体的な宛先が直接には教会宛ではなくして、ローマ帝国の役人宛であるという点で『ルカによる福音書』は異彩を放っています。とりわけ2章と3章には、その時代のローマ帝国を統治していた皇帝を時代の節目に描き、あたかも日本の和暦と同じような扱いで、誰が皇帝であったのかを明記し、それと関連させて救い主の生涯を描こうとしています。
 それまで議会の話し合いをもって国政を決定していた共和制ローマが、拡大した領土の統治に苦心する一方で、利害をめぐる暗殺などの混乱を押さえ込むために導入したのが皇帝を頭に置くという制度でした。これにより諮問機関による話し合いを皇帝が承認するかどうかという仕方で、皇帝自らが拒否権をもつ一方、緊急時には皇帝の勅令という仕方でローマ帝国が支配する地域全体を動かす権限が与えられ、力ずくでの統治にも道が拓かれることになります。しかし『ルカによる福音書』の関心は、ローマ皇帝が命じた勅命そのものではなく、その命令のもとで右往左往するほかない人々の群れに埋もれる若い夫婦の物語です。ローマ帝国の役人にはこのような物語よりも、整理された「公文書」のほうが分かりやすく要領も得た表記であったかと考えます。しかし福音書の書き手はあえてそのような体裁をとりません。映画のカメラワークに喩えますと、始めはフレームを大きくとります。そして次第にカメラを絞り込み、そして誰にフォーカスを当てるのかと問えば、皇帝でも役人でも総督でもなく、宿屋に泊まる場所がなかったヨセフとマリアです。『ルカによる福音書』は「住民登録」が、地中海を囲む一帯に君臨するローマ帝国には、税金を納める上で実に効率的であり、民衆を支配する上でもより効果的だったとも描きません。また、人々が出身地に戻るために用いた道路が、21世紀でも解明困難な技術を駆使して建設されたことにも関心を向けません。むしろ支配を受け入れざるを得なかった人々が慌てふためき、「勅令」であるということで、住民登録をしない者は国家反逆罪として逮捕される恐怖のもとで、各々の暮しの事情を問わずに帰郷したその混乱を鮮やかに描きます。「各々」という場合、それは従来まで培われた各々の土地で育んだ交わりを捨てて、人々の関係がバラバラにされる中、他人に関心を向けることもなく我先にと旅路をたどっていく様子を偲ばせます。皇帝の勅令は人々の交わりを解体し、恐怖によって虐げていきます。それが「ローマの平和」の本質でした。
 『ルカによる福音書』では、「処女懐胎」に対する古代ユダヤ教との関係以前に、直接的にマリアを脅かす危険をはっきり記します。それは妊婦の長旅です。いつ産気づくか分からない女性をロバに乗せ、そして夫がそのロバを曳くという旅の姿。本来その姿は美化されてはならず危険でまことに異様です。故郷ベツレヘムに到着したマリアとヨセフの長旅を慰労する人の群れもありません。天使ガブリエルから祝福とともに確約された「神にできないことは何一つない」との宣言を受け入れたマリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との返事が映し出したのは、人の眼からすればこのような、何とも危険極まりない道筋でした。
 しかし「宿屋には泊まる場所がなかった」マリアとヨセフが飼い葉桶という誰にも顧みられないところで神の御子を授かることで、この時代には人間扱いされなかった人々に、神の祝福に溢れた交わりが授けられます。主の天使が神の栄光を世に照らし、その光に応えたのは寒風吹きすさぶ夜、羊を守り続けたところの羊飼いでした。姿を現わした天の大軍は一斉に語ります。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。栄光はローマ皇帝にではなく神に帰せられ、神の平和は世の波に翻弄されながらも神の導きを忘れない人々に祝福として授けられます。この祝福に招かれるのはマリアとヨセフ、そして羊飼いに始まる無名の人々、そして東から訪れる三人の博士という、その時代のユダヤ教の垣根を越えた人々です。皇帝の計画ではなく、神の御心に適う人に与えられる平和。「神の平和(シャーローム)」。それが飼い葉桶に眠る嬰児イエスによって実現したのです。
 この「喜ばしい知らせ」は困難の中で語り継がれ、書物となり、虐げられた人々に神の希望を伝えるキリストの物語となりました。そして幾度もローマ帝国から残虐な弾圧こそ受けたものの、その弾圧が却ってローマ帝国そのものが抱える問題を露わにし、同時に交わりを広げていきました。そして遂にローマ帝国は教会を公認せずにはおれなくなります。最後に教会を弾圧した皇帝はこう呟いたと言われます。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。飼い葉桶のキリストの栄光は、強引な「ローマの平和」から痛みや弱さを慈しむ「神の平和」へと変えました。それは決して知略によりません。まず神の愛に則して互いに愛し合い、慈しみ合ってもたらされる平和です。この平和が霞みそうになったとき、飼い葉桶のイエスを思い出し、クリスマスの門出を常に喜びましょう。

2022年12月15日木曜日

2022年12月18日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―待降節第4主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 



説教=「おめでとうマリア」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』1章 26~38 節
(新約聖書 100 頁).

讃美=Ⅱ 218,102,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 祭司ザカリアと伴侶エリサベトに洗礼者ヨハネの懐妊を伝え、そしてガリラヤの町に暮すマリアを訪ねる天使ガブリエル。天使ガブリエルは『ルカによる福音書』だけに描かれる御使いであり、「クリスマス物語」で驚きに満ちた出来事を記す個々の物語を自由に飛び回っては結びつけていくという特別な役目を担っています。

 しかし天使ガブリエルに出会った人々はことごとく決してあるはずのない出来事に巻き込まれていきます。それは究極的には喜びの光に包まれてまいりますが、その道筋では苦悩したり、祭司ザカリアにあっては、祭司に必要な言葉さえ一旦は奪われたりするという危機にさらします。ザカリアには天使ガブリエルとの出会いは不安に留まらず、恐怖の念に襲われるという背筋の凍るような出来事で、その報せの内容が何であれ、まずは拒絶するほかに道がありません。その一方、今日の暦でいうところの半年後にガブリエルはマリアのもとに現われ「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる」と本日の出会いの箇所にあたっても祝福の言葉から始めます。

 天使ガブリエルがどのように描かれるかは、わたしたちはあくまで『聖書』という「書物としての御言葉」を通してその経緯(いきさつ)をたどっていきます。もちろん、この福音書の箇所は物語としても味わえます。しかし『新約聖書』で描かれる登場人物一人ひとりにおきましては、その出会いも祝福もあまりにも一方的で唐突すぎ、ただただ驚くほかないという一面が絶えずついてまわります。しかしザカリアとは異なり、本日の箇所でのマリアは、ガブリエルの言葉に戸惑い「いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ」とあるだけなのです。年齢からすれば今でいうところの中高生の域を出ないはずのマリアは、ガブリエルと正面切って語り合うという点ではザカリアとは異なる肝の太さ、胆力を授けられています。考え込むマリアにガブリエルは語り続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。この「受胎告知」ではイスラエルの民の歴史に基づくメシア理解が言い表されますが、この宣言に対してマリアは実にシンプルかつ重要な問いかけをいたします。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。「わたしは男の人を知らない」という一文が、エリサベトとマリアとの決定的な違いを示すだけでなく、クリスマス物語の最大の謎だと、あらゆる興味本位の詮索を差し引いても言うことができるでしょう。

 ところで、『マタイによる福音書』1章18~19節には「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。これはヨセフが世間体を気にして縁を切ろうとしたのではなくて、その時代のユダヤ教の誡めにあって、マリアは許嫁の身でありながら妊娠してしまったという理由から、他の男性と関わりをももち、その結果死罪を言い渡されて石打の刑に処せられてもおかしくないとの理解があったとされています。『マタイによる福音書』ではヨセフの目線から描かれているといってもよいかもしれませんが、マリアと身ごもった男の子を助けるためには離縁して、身ごもらせた別の男性と一緒になるという道を苦悩しながらも考えるところにその特質があります。しかし『ルカによる福音書』ではそのような苦悩はザカリアが引き受けます。ガブリエルはただただ祝福を告げるだけです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。その点ではガブリエルは徹底しており、マリアも「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と喜びのうちに返事をいたします。そしてガブリエルはマリアのもとを去り、マリアはエリザベトのもとを訪ねていきます。

 天使ガブリエルの祝福は、これまでの倣いというもの、伝統と呼ばれるものを革命的な仕方で新たにするだけでなく、今わたしたちが常識であるとして捕らわれている軛から解き放ちます。とりわけ「処女懐胎」という言葉が陳腐化または荒唐無稽だと見なす考えが当時も今も支配的な中で、この物語は救い主もまた、いのちとは本来は神から宿される、神秘に満ちたものだとの確信を新たにさせます。やがてマリアは夫ヨセフとともに嬰児イエスを抱えてエルサレムの神殿を詣でた折、老いた律法学者のシメオンから「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とイエスの十字架での殺害預言を報らされます。それでも後に齢を重ねたマリアは、イエスの復活を二人の御使いから聴き、弟子に伝えるとの役目を新たに授かります。神が授けたいのちの勝利を、わが子の復活から確信するあり方。それがマリアという女性の生涯を貫いています。「お言葉どおりになりますように」と祈る者となりましょう。

2022年12月8日木曜日

2022年12月11日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―待降節第3主日礼拝―


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 



説教=「語ることのできない喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』1 章 18 ~ 25 節
(新約聖書 99 頁).

讃美=Ⅱ 112,Ⅱ 119,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  あまりにも突然な出来事に言葉も出ない、というさまがわたしたちにはあります。そうそう滅多には聞かないからこそ、このようにならずにはおれないのですが、あまりの突然の報せに驚き、言葉を失ってしまうとは確かにあり得えます。
しかしイエスの母マリアが天使ガブリエルに御子の身籠もりを伝えられたとき、マリアは驚きながらも天使との語らいを止めませんでした。さらには『マルコによる福音書』7章でイエスが救い主としてのあゆみの中で出会った「耳が聞こえず舌の回らない人を癒す」との物語で癒された人を観ると聴覚と連動して舌が「もつれてしまう」というまことに写実的な仕方でこの奇跡を描いています。まことに深刻な状況がキリストとの出会いの中で突破されるという喜びの出来事です。
  クリスマスの出来事に先んじて描かれるザカリアとエリザベトの物語。ザカリアは祭司職を務め、伴侶のエリザベトは祭司アロンの系譜に繋がる女性であると匂わせます。アロンとは『旧約聖書』の『出エジプト記』で、神にエジプトの奴隷解放を命じられたモーセが「わたしはもともと弁の立つ方でない」と断りを入れた折に、モーセの言葉を奴隷であったイスラエルの民に語り継いだ人物です。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない」と本日の『聖書』ではザカリアとエリザベトを見なします。祭司しか入室を赦されないエルサレムの神殿での至聖所の中で香を焚いて祈る中、ザカリアは主の天使ガブリエルに出会います。ガブリエルは「恐れるな。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と、洗礼者ヨハネの誕生が予告されます。しかしザカリアにはこの告知は不安と恐怖であるばかりか受け入れがたいものであり「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と、ガブリエルの告知を一旦拒絶してしまいます。このためガブリエルは「あなたは口が聞けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と指摘し、その口が聞けないようにします。
  ザカリアにはこの出来事は喜びの報せどころか、生涯をかけた職責をも左右しかねませんでした。エルサレムの神殿に務める祭司は、神に向けて民の過ちを述べ、祈りを献げなくてはなりません。『聖書』の朗読の際にも民全体に聞こえるようにしなくてはなりません。「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころのない」はずのザカリアは、祭司としての職能を全うできず、またガブリエルと語らうどころか不安と恐怖すら覚えていくという、祭司として大きな破れを抱えていくこととなります。つまり物語としては、ザカリアが生来讃えられてきた「神の前に正しく、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがない」という人々の評判が破られて、初めて洗礼者ヨハネの誕生の喜びの道へと導かれていくのです。
  『ルカによる福音書』で繰り広げられるクリスマス物語では、1章36節にあるように、エリザベトとマリアは親類の間柄、更には洗礼者ヨハネとイエス・キリストも同じ関係として描かれます。そして天使ガブリエルの言葉によれば「不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神のできないことはない」と書き記されます。周囲の人々から「不妊の女性」と言われていた女性が身籠もるという話は、古くは『創世記』のイスラエルの民の先祖アブラハムの妻サライにまで遡りますが、サライの物語と異なるのは、その恵みの知らせを受けて戸惑うのは女性ではなく、男性であるザカリアであるというところ。『創世記』の物語の筋立てが見事に反転します。それだけではありません。「非の打ちどころのない」はずのザカリアは、マリアにイエスの誕生が予告され、マリアがエリザベトを訪ね、御子イエスの宿りを讃美し、そしてヨハネが誕生するまでの間、ずっと祭司職の務めを果たせなくなり、後にイエス・キリストに癒される人々と同じ立場に身を重ねることによって、初めて洗礼者ヨハネを授かり、その喜びをともにするにいたります。喜びを伴う「産みの苦しみ」は、エリザベトだけでなくザカリアもともにするという関係がこの箇所で生じるにいたります。息子である洗礼者ヨハネと同じく、ザカリアもまたキリストの誕生を乞い願う列に連なることとなります。
  人の子イエスは人の眼からすれば準備万端、全てが整えられたとは言えない場所、すなわち飼い葉桶に生まれましたが、そこには人間の破れを癒して余りある神の恵みが輝いていました。本日の『聖書』では、メシアの訪れを告げ知らせる、最後の預言者である洗礼者ヨハネもまた、非の打ち所のないはずのザカリアの破れを徴として世に遣わされてまいります。洗礼者ヨハネもイエス・キリストも神の愛である聖霊の力によって世に生まれました。『ローマの信徒への手紙』8章26節で「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださります」と使徒パウロは語ります。三本目のアドベントの蝋燭が灯されようとする今朝、言葉にならざる呻きを祈りに変え、主の降誕の喜びを先取りしたいと願います。

2022年12月1日木曜日

2022年12月4日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

   ー待降節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「クリスマスを待ち望んだ人々」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』4 章 14~21節
(新約聖書 107 頁).

讃美=97,30,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  わたしたちにはアドベント、そしてクリスマスの訪れを待ち望む厳粛さを礼拝に求めがちな一面がありますが、キリスト教がすでに文化として村落共同体の祝祭として定着している欧米諸国の地方におきましては、アドベントからクリスマスの期間とは特別な祝祭の雰囲気に包まれます。いわば里帰りの季節でもあり、久々に家族と再会する機会が増えるというものです。クリスマスは故郷に帰れる、クリスマスまでには戦争は終わるという言葉が映画に登場するのも、そのような倣いあればこそ、と言えるでしょう。クリスマスの団らんと望郷の思いとが、重なってまいります。
  本日の『聖書』の箇所では福音書では稀な「人の子イエスの里帰り」の様子が記されます。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。この箇所では人の子イエスがその時代では敬虔なユダヤ教徒でもあり、安息日を尊んでいたと『ルカによる福音書』の書き手集団は描きます。ローマ帝国という、世界最大の多民族国家を舞台にしながらも、人の子イエスが古代ユダヤ教徒であったとの史実に、書き手は誠実に向き合います。人の子イエスが手にする『聖書』とは、その時代のユダヤ教で尊ばれていた『律法』と『預言者』の書。この中でイエスが選んだのは、『イザヤ書』61章でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。『旧約聖書』の『イザヤ書』61章そのものでは、2節に「主の恵みをお伝えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め」とあるように、圧迫されている人々への報復をも謳うのですが、イエスはこの箇所には立ち入りません。初代教会で共有されていたイエスが救い主であるならば、敵味方に隔てられていた人々の間に和解と平和をもたらすに違いないと、の確信が浮かびあがります。
  実際のところ、ローマ帝国の内政と申しますものは実に巧みでした。軍事力による恫喝ばかりでなく、各民族や部族の中でローマ帝国寄りの政権を打ち立て、そして実際にその暮らしを向上させ、懐柔をはかることで、支配を認めさせてきたところがあります。例えばクリスマス物語で知られる箇所として「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」と『ルカによる福音書』2章にはありますが、これはすでにローマ帝国の交通網が整備されていなければ出し得ない勅令です。現代のコンクリートは劣化しますが、ローマ帝国時代に造られたコンクリートは今でもその強度を保っており、どのような造りであったのか分析しかねるところを考えますと、わたしたちの想像を超えています。
  しかし、先ほどのように会堂で『イザヤ書』を朗読した後に、集う故郷の人々が口々に賞賛の言葉を向けたところで、人の子イエスは心を許さずに「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と語りながら預言者エリヤやエリシャが、その癒しを同胞にではなくシドン地方のやもめやシリア人ナアマンといった虐げられた異邦人に向けていたと告げますと、賞賛していた会堂の人々は突如として憤慨し、総立ちになってイエスを町の外へと追い出し、山の崖にまで連れて行き、突き落とそうとした、と記されます。故郷の人々は突如としてイエスに牙を剥き、充分な手続きもなしに石打の刑に処そうとまで怒り狂います。ガリラヤの諸会堂では皆から尊敬を得ていたのに、であります。
  イエス・キリストの言葉は、時にわたしたちの胸に深く突き刺さるときがあります。とりわけ、教会の交わりがイエス・キリストへの感謝よりもムラ社会的な倣いに流されそうになったとき、とりわけ深々と突き刺さります。しかしその言葉によってわたしたちは新しい目覚めを体験します。それは教会がわたしたちの故郷であると同時に、この場にいるわたしたちが生涯を全うした後でも、キリストを頭とした愛のわざを担い続ける交わりが続く、という事実に由来します。この事実に目覚めていることにより、わたしたちのクリスマス、そしてこのクリスマスを待ち望むアドベントが、血のつながりのない人々、すなわちわたしたちには異邦人であるところの人々にも受け継がれてまいります。『聖書』に則するならば、教会は一般の村落共同体とは似て非なるところであり、連なる方々はイエス・キリスト自らによって絶えず新たにされるところでもあります。クリスマスを待ち望んだのは、誰からも癒されることなく、故郷を失ったところの旅人たちでした。東からやってきた博士たちは明らかに異邦人であり、クリスマスの訪れを真っ先に告げ知らされた羊飼いは、税を納める義務も権利もないという、その時代では「忘れられた」「いないとされていた」人々でもありました。そのような方々をお迎えするのも、クリスマスを待ち望んだ人々との喜びの分かちあいに他なりません。