2022年9月2日金曜日

2022年9月4日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ー聖霊降臨節第14主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「見捨てられた者が暮らしの中心に」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  12章1~12節
(新約聖書85頁)

讃美=519,522,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  ウクライナ戦争が始まる前の話。欧州をはじめ世界各国で盛りあがったのは「脱・炭素運動」でした。その動きは徐々に具体性を帯び、地球温暖化につながるとされる大気中の二酸化炭素削減のためだとして、2030年代には日本でもガソリン燃料の自動車の新車販売が禁止され、その後に販売される自動車は水素や電気などクリーンエネルギーを燃料とする長期計画が立案されました。この計画はすでに動き出しています。日常で感じている環境の激変や温暖化の原因を化石燃料の消費に求めた上での構想。水素電池を用いれば、あるいは高性能のバッテリーを用いれば安らかに暮らせるというPRがなされています。
  しかしそのPRとは裏腹に、北半球での脱炭素社会を目指す運動が進むほど、環境破壊が酷くなる地域があることも忘れられません。高度なクリーンエネルギーの実現には、レアメタル、特殊で貴重な鉱物資源が不可欠です。その結果、南米であればブラジルやベネズエラ、アフリカであればコンゴといった地域の地下資源が採掘されます。南米の場合は森林を伐採し先住民の暮らしを犠牲にして、コンゴであれば内戦に乗じて、という具合です。その被害は焼畑農業のダメージを凌ぎます。今やアマゾン川はレアメタルの精錬に伴う重金属で汚染され、沿岸で水産資源を用いて暮らす人々が水俣病やイタイイタイ病の害を受けています。地球環境を救うといいながら、開発途上国にしわ寄せがいくというしくみ。このしくみをすべて変えるためには、わたしたちも某かの不便さを分かちあう覚悟が求められます。しかし人間は、なぜか常に楽園を自分の手で作れるものだという錯覚に陥りがちです。
  本日の『聖書』の箇所で記される譬え話では、ぶどう園の自作農が登場します。福音書に限らず『旧約聖書』の物語でも、ぶどうは農作物としては麦に劣らぬ収穫物として尊ばれます。そのまま食べてよし、ドライフルーツにしてよし、果汁を発酵させればぶどう酒となり、それを蒸留させれば香水にすらなり得ます。お酢も作れます。また生い茂るその葉はキャベツのように用いられ、無駄が一切ありません。第一次産業が暮らしのほぼすべてを占めていた時代には加工の仕方によっては巨額の富すら手に入れられるのです。そしてこの自作農である主人は雇用する農夫を全面的に信頼し旅に出ました。時が経ち収穫を得るために第一の僕(しもべ)を遣わしますが、残念ながら農夫はこの僕を袋叩きにし、何も持たせずに帰します。次に遣わされた僕は頭を殴られ侮辱される目に遭わされます。ついには多くの僕が遣わされますが、狼藉を受け、殺害されます。豊かなぶどう園を委ねられた農夫は主人からの信頼に応えるどころか徹底的に反故にするのです。この僕たちの姿には『旧約聖書』の預言者、農夫にはイスラエルの民と連なる諸国の民が重なります。ぶどう畑の主人に遺されたのはたった一人の愛する息子。「わたしの息子ならば敬ってくれるだろう」と主人はわが子をぶどう園に遣わします。しかし農夫は謀をめぐらします。もはやその内容は農夫のそれではなく、犯罪組織の打ち合わせのようにも響きます。「跡取りを殺害しよう。そうすれば相続財産はわれわれのものだ」。物語ではこの息子は殺害されて遺体はぶどう園の外に遺棄されます。何と恐ろしい譬えでしょうか。そしてこの物語は何を示しているというのでしょうか。
  「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。その時代のユダヤ教の正典であるところの『聖書』にはこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える』」。イエスはこの恐ろしい譬え話をこのように結びますが、正直にいえば、この話を聞かされた、祭司長や律法学者、長老以上に、わたしたちは戸惑います。いったいこのまとめは何を意味するのか。大きな飛躍がそこには隠されています。それは、殺害され捨てられたはずの救い主が復活し、新しい交わりの基となるということです。さらには仲間はずれにされ、闇に埋もれ、不条理に苦しみ、そして消されていった人々もまた、キリストを軸とした交わりにつらなり息を吹き返すのです。その枝には、わたしたちの暮らしもつながっています。
  『ヨハネによる福音書』15章5節にはこうあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。イエス・キリストにつらなる者は、時には社会や暮らしの中で無視され、黙殺され、見捨てられた痛みを知る者です。しかしその痛みや弱さを知るからこそ、自らの力に溺れ、幸せを独占しようとするのではなく、絶えず誰かと分けあおうとするのです。もしぶどう園の農夫がこの「分けあう喜び」を知っていたというのであれば、悪政を行った王の手下やマフィアのようにはならなかったことでしょう。そしてそこにわたしたちの希望もまた隠されています。まだまだコロナ禍明けぬ9月。それでもわたしたちは、キリストに連なり、豊かな実りを楽しみ、新たな歩みを起こす、あふれる希望の光の中にいます。わたしたちが忙しさを始め様々な理由を重ねてなかなか顧みようとしないところに、キリストは立っておられます。