ー聖霊降臨節第16主日礼拝 ー
時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
しかしもっと立ち入って考えますと、献金は額の多いか少ないかというよりも、さらに尊い意味合いがあります。言葉を正しく用いると、献金とは「支払う」のではなく、税金のように「納める」のでもなく、あくまでも神の恵みへの応答として喜びの中でそして神様との関わりの中で教会を支えるべく献げ、分かちあうわざです。もちろん決して他者から強要されはいたしません。
ヨーロッパのように王室や国家から運営費が支給される立場とは異なり、キリスト教の種が蒔かれて150年程度でしかない日本という地にある教会は、まことに逆説的ですがキリスト教文化圏にある教会よりも、使徒が活躍した時代の教会に接近しているのではないでしょうか。だからわたしたちは礼拝で「わたしはあなたがたとともにいる」とのイエス・キリストのメッセージを聴くとともに「どこにいるのか」との神の問いかけにわが身を正すのです。『フィリピの信徒への手紙』の中で使徒パウロは「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と論じます。その道筋にあって本日の言葉を味わいましょう。
本日の『聖書』の箇所、則ち『マルコによる福音書』12章38節以降で、人の子イエスは神殿の境内で大勢の群衆に向けて「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。『新共同訳聖書』には「律法学者を非難する」との小見出しがあります。しかし本日より前の箇所では、イエスは自らとの受け答えの中で一人の律法学者を論駁するどころか「あなたは神の国から遠くない」と語るところから、十把一絡げで律法学者の問題を扱ってはいません。むしろ名もない群衆が惑わされがちなところを指摘しているようです。さらには「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」という箇所を踏まえますと、ともすれば人々にありがたがられていた律法学者もまた、その時代の富裕層に属していたとも言えます。そうなると律法学者も42節の「大勢の金持ち」の仲間入りをします。では次にイエスが示したのは誰だったのでしょうか。人の子イエスは佇む場所を変えて、神社の賽銭箱ならぬ神殿の献金箱の向かいに座ります。「大勢の金持ちがたくさん金を入れていた」とありますが、これは暮らしの中からあり余る富を献げているのに過ぎません。見栄も虚勢もあるでしょう。しかし異彩を放ったのは、富裕層に食い物にされているはずの「一人の貧しいやもめ」でした。このやもめの眼差しはどこに向けられていたのでしょうか。群衆でしょうか。大勢の金持ちでしょうか。献げられるお金そのものでしょうか。そうではありません。眼差しはあくまで神に向けられています。やもめの献げた献金は1クァドランス。これは労働者の日当である1デナリオンの64分の1とされますから日当を8,000円とすると124円ほどとなります。124円で一日を暮らすのは常識的には不可能です。ひょっとしたらこのやもめは住まいを転々とする暮らしを続けていたのかも知れません。しかしイエスは弟子に「あの女性を見なさい、暮らしの余りを献げたのではなく、暮らしのすべてを神に委ねたのだ、それは金持ちには比較にならないほどの献げ物なのだ」と示すのです。やもめの心情は描かれず、ただその振る舞いが記されます。凄みすら覚えます。
『旧約聖書』の世界では、神への献げものには、聖別された羊や牛が用いられましたが、福音書ではわたしたちの日常と同じく貨幣経済が力を振るっています。その現実の中で、暮らしのすべてを神に委ねたやもめが描かれます。このやもめは暮らしの中でこのように隣人を愛し、慈しんできたのでしょう。まさに貨幣では表わしきれない恵みを感じてきた女性であるとも言えます。イエス・キリストは病を癒した相手に見返りを求めたことは一度もありません。癒された人はその喜びを別の人に伝えていきます。それもまた奉仕だと言えます。献金とは困っている人のために呼びかけはしても保身のために執拗に求めるものではありません。神の国と神の義をまず求めましょう。神の愛に応えるやもめの姿に、キリストはいつわりない神への信頼を見抜き、今も示します。