ー聖霊降臨節第17主日礼拝 ー
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「いつまでも語り継がれる出来事」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』14章3~9節
(新約聖書90頁)
讃美=226,164(1,2,4),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
天気予報と新型コロナ感染症関連の報道以外にはマスメディアと関わりのない暮らしをしておりましても、ここ数週間ほどはエリザベス二世が天に召されたことが話題となっているようです。女王は英国国教会、日本では日本聖公会の首長でもあるというところから、国葬という言葉も含めて耳にしました。継承者はチャールズ三世となりますが、英国では実にあけすけに王族の事情に立ち入る報道をします。曰くチャールズ三世の万年筆のインクをめぐる奇行や沿道の黒人との握手の拒否、こどもたちの仲違い、インドからは王冠にあるダイヤモンドの返還を求める声、イギリス連邦内の諸国では共和政体への移行が表明されるなど。世界で最も栄華を極めているはずの家族に際立つ仲違い。大衆メディアの騒ぎであるにせよ、ノーブレスオブリージュと言ってみても、かつてのドイツ皇帝や、ロシア皇帝との姻戚を誇る一族には「わたしのものはわたしのものだ」との声が止まないようです。
他方で江戸時代の日本。「貧民窟」と軽蔑された長屋におきましては、井戸や調理場も共用だったことから、不衛生なのにも拘わらず相互扶助が実践されていたと申します。病気になっても医者に診せられるお金はありません。川の土手から薬草をとってきて煎じて呑む程度の養生でしたが互いに気遣い宵越しの銭は持たないという気風がありました。知的障碍のあるこどももまた「よたろう」というイメージに結晶し「わたしのものはわたしのもの」との執着に凝り固まった世のあり方を問います。もちろんそのような共同体にも一定の限界があるのは承知の上で申しあげています。
本日の『聖書』の箇所におきましてはよく知られた「ナルドの香油」の物語が記されます。わたしたちは女性が香油をもって人の子イエスの頭に注いだり、足を拭ったりするという劇的な場面に関心を寄せがち。しかし本日はこの出来事が起きた現場から丹念に読み解いてみましょう。「イエスはベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられた」とあります。本日の箇所はその始めからイエス・キリストなしにはあり得ない舞台設定となっています。そこでは重い皮膚病に罹患した人が、自ら食卓の席を設け、その席にイエスを招き入れています。社会常識からすれば隔離され、このような食卓など設けることなどできなかった人がそこいるのです。このように、神の国のモデルとなる交わりの中で、「ナルドの香油」の出来事は起きます。女性の名は『マタイによる福音書』と本日の『マルコによる福音書』では記されません。素性の分からないこの女性は、給仕役だったかも知れませんが、古代ユダヤ教の世界ではむしろ主人自ら招いた人の世話をする習慣もあります。宴席におきましては舞を舞う踊り子だった可能性もあります。いずれにしても場違いな振る舞いに、『マルコによる福音書』では「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」が憤慨します。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。そして女性を厳しくとがめたというのです。食事の席には瞬時に、一般の月収の額に値する香油の価格を見極める「目利き」もいたようです。一見するとこの言葉はもっともらしく読めるのですが、人々は女性の行為が彼女自らの決断であるところを見落としています。弟子の一人とも思える人物の発言には「お前のものもわたしのものだ」との傲慢さも読みとれるというもので、イエスへの献げものを「もっとましな使い方があるのだ」と呟く執着の表れにも聞こえます。
しかし人の子イエスは語ります。「するままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。貧しい人はいつもあなたがたとともにいるとの言葉。これは『マルコによる福音書』が生まれた時代、そして現在の教会への誡めともなる言葉です。教会の交わりに連なる人々は貧しい人々です。それはわたしたちも変わりません。イエスが眼差しを向けるのはそのような人々です。代々に及ぶ教会に「貧しい人とともにいなさい」と人の子イエスは語ります。それは何によって可能なのでしょうか。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」。香油を注ぐ女性のわざを、イエスは「埋葬の準備」だと意味づけています。則ち、これから待ち受ける不当な捕縛と裁判、弟子の逃亡と十字架にいたる苦しみと死、そして埋葬と復活を通して明らかになる救い主の姿です。人の子イエスはキリストであり、救い主であるとの確信の中で、教会では「貧しい人の交わり」が「わたしのものはわたしのもの」というありかたを越えて育まれ、広まっていきます。イエス・キリストのあゆみへの眼差しと祈りなしには、教会にも格差の問題や神なき豊かさへの憧れが忍び込んできます。イエス・キリストの埋葬では葬儀は行われませんでした。しかしその悼みを越えて復活の出来事がありました。本日の箇所の宴は、主の復活を讃える、喜びを分かちあう宴となりました。この語り継がれる出来事の只中にわたしたちもいるのです。