ー聖霊降臨節第15主日礼拝 ー
時間:10時30分~※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「喜びと苦しみをともにする愛」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』 12章28~34節
(新約聖書87頁)
讃美=298(1.2),399,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
小・中学校で「運動会」が行われる季節となりました。わたしは世代として、かなり昔気質な運動会を経験しております。当日の朝は信号弾のような花火が打ちあげられます。そして会場の校庭にはロープが張られ、その外側には敷物に座って保護者がお弁当も一緒にしながら見物。今考えれば、紅白に分かれて相手を倒すという発想に、児童よりも大人が悦に入っていたようでした。それでは身体に障碍があったり、知能に障碍があったりというこどもたちがいたのか。これが記憶にありません。故郷の小学校にはそのような学級はなく、その後転居した東京でも記憶にありません。中学校では「特殊学級」というずいぶんな名称のクラスが設けられていました。その教室の生徒と関わる時間は設けられていません。家族に障碍のある生徒もいたはずなのですが、みな誰にも語りません。思えば当時の教育の現場では、多様性を尊ぶよりも、概して生徒を型にはめるのが好まれていたのかもしれません。集団行動で「勝負事」に臨ませ、それに向かない生徒は協調性がないとされ、決してよい印象をもたれません。
そのように、何かと人を枠にはめたがる眼差しには、本日の『聖書』の箇所はかなり異様に映るのではないでしょうか。なぜなら、古代ユダヤ教での律法学者、ファリサイ派と呼ばれる人々は、イメージとしては絶えず人の子イエスに論争を挑んできたり、病を癒す行為に文句をつけたりする常習者のように受けとめられがちだからです。わたしたちの集う教会ではあまり聞かない話で幸いなのですが、「あの人はクリスチャンらしくない」「あの教会は教会らしくない」とレッテル張りばかりしている人の態度を「ファリサイ的だ」と呼ぶ場合があります。けれども実際のファリサイ派、律法学者は今でいう『旧約聖書』のテクストを徹底的に読み込み、その解釈が妥当かどうかを論じあい、その態度から民衆からも尊敬されていたと申します。もし問題があるならば、やはりどれほど研鑽を積んだと申しても、人は誰であれ他人を型にはめなければ安心できないという呪縛が露わになった時です。そこには排除があり、虐げがあり、蔑みがあり、傲慢さがあります。それは破れに満ちた人間であれば誰にでもおきることです。
本日の箇所で描かれる律法学者は、復活をめぐる問答で示された鮮やかな『律法』の解釈に感じ入り、人の子イエスに敬意をもって問い尋ねます。「あらゆる掟の中でどれが第一でしょうか」。イエスが応えるには「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聴け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」。『申命記』6章4~5節、『レビ記』19章18節の誡めを、主イエスは活きいきと語るのです。人を貶めるための誡めではなくて、いのちを活かすための誡めをイエスは語ります。第一の誡めは、いわば垂直線。神と人との関係です。第二の誡めは、自らを受け入れるように、隣人を受け入れたことで広がる、水平線のありかた。この垂直線と水平線の重なるところに、イエス・キリストは立っておられます。そしてその言葉は、イエスに尊敬の眼差しを向ける律法学者にも向けられています。イエスやその弟子と律法学者は論争ばかりしていたとの先入観に惑わされるわたしたちの心の壁が崩れ落ちる瞬間であり、なおかつ律法学者に向けては、十字架の苦難の兆しの中で、神の愛を自ら証しされた瞬間でもあります。律法学者は答えます。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。イエスはこの律法学者に答えます。「あなたは、神の国から遠くない」。人間が自分の経験を通さなくては理解できない「隣人」という言葉を突破するのが神への愛だとするならば、この律法学者もまた、自分の抱えていた様々な壁や型というものをイエス・キリストによって突破されたといえるでしょう。古代ユダヤ教が定める「隣人」から、それが誰であれ、神の愛が備えた「隣人」へとその意味合いは移ろいます。この変化の中で初めて神が備えたいのちが脈打ち、また「神の国から遠くない」という言葉の中で、この律法学者にもイエス・キリストは同伴者としてともにあゆんでくださるという、全く予想しなかった展望が拓かれます。何が壁だというのでしょうか。何が障碍だというのでしょうか。障碍とは、神を知らない世が定めるところの型を基準としたものであり、神との関わりの中では、前人未踏の可能性が秘められている「いのちの秘義」なのです。
先日9月6日(火)、泉北ニュータウン教会にも特別伝道集会を始めし、様々な関わりのある「(福)汀会 止揚学園」の創設者・福井達雨先生が、90年のご生涯を全うされました。福井達雨先生の生涯は、自らもまた「あの人は気が変になっている」と呼ばれるのを臆さず、知能に障碍をもったこどもたちを「仲間」と呼び続け、支え続けたその一点に要があります。わたしたちもぜひとも、さまざまな先入観や、弱さへの蔑みから解放されたいと願います。弱さを聖なるものとして神が祝福されているからです。