可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
そう考えますと、ユダヤ教の「過越の祭」で人々がともにする食事は、極端なまでに質素です。小羊のすねの骨か鶏の脚の骨をカラカラになるまで焼いたもの、苦菜と呼ばれる西洋わさびの葉、苦菜を浸して食べる塩水、デーツとクルミ、レモン汁と粗挽きのナツメグ、肉桂を混ぜて焼いたもの(甘味)、小羊(ゆで卵でも代用可)、野菜、そして種なしパンと赤ワイン。これが概して過越の祭では食せられます。どの食材にも象徴的な意味がありますが、おそらく当時の舌の肥えたローマ市民であれば、祝祭にまでこのような無味乾燥な食事をともにしなくてはならなかったのか理解できなかったことでしょう。祭りといえばご馳走を食べるのが人情ですが、現代のユダヤ教、そして人の子イエスの古代ユダヤ教の世界ではなおのこと方向性が全く異なっていて、自分たちの先祖がかつてどこにいたのか、その苦境を思い出すために食卓を囲むのです。エジプトでの奴隷の暮らしと、その暮らしからの解放を思い出すための食卓です。「臥薪嘗胆」という言葉があります。人生の辛い時期を忘れないために薪を並べたところに横たわり、苦みに満ちた動物の干した肝を舐めるというわざを示します。これは中国の故事から生まれたところの、侮辱的扱いに遭ったことを忘れないための格言で、神によって奴隷の暮らしから解放された喜びと艱難を思い出す態度とは明らかに異なります。
そのような、富の格差を超えてまで行われる過越の祭の食卓に、人の子イエスを権力者に引き渡そうとするイスカリオテのユダの眼が光ります。過越の食卓をどのように整えたらよいのか、どうすればよいのか分からないといった他の弟子とは全く対照的な態度です。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい」。無名の男性に従うことで、弟子は解放の出来事を祝う宴を設けることができました。おそらくは一二人の弟子以外の名もない弟子、そしてイエスをメシアであると受け入れた人々がいた様子が偲ばれます。しかし食卓の席で、一二人の弟子も、備えを整えた人々も絶句するような言葉を人の子イエスから聴くこととなります。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。その後弟子の「まさかわたしのことでは」と混乱する様子、パニックに陥る様子が描かれます。実に人間臭い描写です。誰もがキリストとの関わりの中で、自らのあり方に確信が持てていない証拠です。「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな」ではなくて、何を食べていても、何を着ていても、この確信のなさを隠し通せる術がないのです。この箇所で弟子の覚悟の不確かさが明るみに出ました。そして次には「一二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と、まことに激しい言葉を語ります。この箇所からわたしたちは何を聞き取ろうというのでしょうか。
わたしたちはこの箇所で群れなす心の闇や惑いにばかり心を奪われているようです。実はイエス・キリストはこの箇所で、弟子各々の心に完結した、「思い」としての信仰の不確かさを露見させました。そしてイスカリオテのユダの謀すらも無力にしてしまっているのです。「裏切り」とは裏切られるはずの者に気づかれない限りにおいて、はじめて決定的になります。始めから裏切りが分かれば裏切りは意味をなさないのです。だからイエス・キリストにはもはやユダがどのような表情をしていたとしても、ともに鉢に食べ物を浸すという至近距離にいたとしても、その裏切りは無意味です。キリストの前に隠し事をするなどという態度は人間には無理なのです。それだけ神の恵みの力は圧倒的なのです。だからわたしたちは安心してキリストが備える食卓に連なるのです。
理不尽な苦しみや傷みを知りながら、もっとましなことができやしないかと悔しさを噛みしめるわたしたちに、イエス・キリストは自ら備えた食卓で「話しを聴こうじゃないか」と語りかけます。コロナ禍のピークアウトの後に見えてくるさまざまな課題以上に、神はわたしたちの重荷を見抜いています。だからこそキリストが世に遣わされ、重荷をともに担ってくださるのです。