ー聖霊降臨節第10主日礼拝 ー
―平和聖日―
時間:10時30分~
※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「身体ひとつの痛みが癒される喜び」
稲山聖修牧師
聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅰ』 12章14~26節
(新約聖書316頁)
讃美=496,531,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
久しぶりにお刺身を食べて急にお腹が痛くなったらアニサキス症を疑う。アニサキスは線虫という生き物に分類され、天然の鯖や鯵、鰯や鰹、鱈や鮭、鮃やイカを始めとしたほぼ全ての海洋生物の体内におり、事前に冷凍されたり充分に加熱処理されたりしてはいない場合に人体、とくに消化器系の臓器にダメージを与えます。それではこのアニサキスに寄生された魚は苦しむのでしょうか。おそらく苦しむことはないだろうとの考えが現在主流を占めている、とのことですが、質問したのは当時6歳の女の子。父親がアニサキス症に罹って病院へ行ったのだが、魚の場合、アニサキスが体内にいたら苦しくないのかという素朴な気持ちから出た問いかけです。ラジオ番組での専門家の答えではアニサキスはもともとクジラやイルカの腸に数十万と暮らしており、その卵はイルカの糞に入っており、糞を栄養源として食べたプランクトンを、その次に魚が食べ、その体内でアニサキスが育ちます。この道筋を踏まえると、その魚をクジラやイルカが再び食べるのであれば、もとの宿主の体内に戻って、全体としては循環していくはずです。ただこれが人体に入ってしまうとアニサキスは拒絶反応を起こし、胃腸を食い破って逃げようとするのだそうです。
本日は平和聖日。今日では内視鏡で除去できる寄生虫も、今から77年前までは容易く駆除ないし治療できなかったはずです。アジア・太平洋戦争では日本軍民あわせて310万人以上の死者を出し、軍隊に限っても戦死者ではなく戦病死者が7割を越えていたという異常な数値を出しています。戦場という過酷な環境で体力が消耗し、アメーバ赤痢などの病に罹患し斃れていく兵士。それこそ身体の免疫が一切通じない地域へ従軍し病死・餓死した人々は数知れなかったことでしょう。そして戦後の困窮に身をやつすほかなかったのが戦没者遺族や戦災孤児。こちらにもまた慢性的な飢餓状態の中で斃れる無数の人々がいました。
本日の『聖書』の箇所は『コリントの信徒への手紙Ⅰ』。先週は『コリントの信徒への手紙Ⅱ』をお話ししましたが、いわゆる「コリント問題」として揺れていたのがこの都市にある初代教会の交わりでした。数ある課題のひとつには、ギリシア都市コリントに入り、キリストの証しを立てた使徒各々を担ぎあげるという分派活動が行われ、その結果教会の交わりが分断される事態です。「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』、『わたしはアポロに』、『わたしはケファに』、『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と使徒パウロはコリントの教会の人々を諫めます。なぜでしょうか。それは、教会がイエス・キリストの名を疎かにしていきますと、キリストを通して明らかにされた神の恵みもまた疎んじられてしまうからです。神の恵みを疎んじた教会はもはや、教会の名に値しない「烏合の衆」に陥り、人々は互いに異なった特性を受容できなくなり、裁きあうという事態に陥ります。これは、コリントの教会にはまことに致命的な状況でした。なぜなら、コリントの都市人口60万人のうち、40万人は奴隷であり、その奴隷の中にもさまざまな処遇の格差が設けられていたと考えられるからです。コリントの人口20万人の繁栄が絢爛豪華になるほどに、40万の奴隷への抑圧は激しさを増していきます。そのような人々が教会に集うのです。キリストによる一致があればこその教会の交わりですが、その一致の消滅は、混乱と争い、そして分断につながります。牧師も含めキリストから離れた教会は、いつしかこの世の寄生虫と成り果て、権力に阿ったとしても居直ります。
ところで人の交わりの分断と争いを鎮めるためにローマ帝国は軍事力を用いました。しかし教会の場合、本来その道は禁じ手です。病の源として蔑まれるアニサキスでさえ、神の備えた被造物本来の交わりの中にあれば、数ある尊いいのちの一つとして宿主を別の病原体から守る役目を担うのかもしれません。しかしその交わりから切り離されてしまえば、兵士や民間人の最大の死因となった病原体同様、人体に害を及ぼします。破れを身にも心にも負っているわたしたちです。わたしたちが隣人との関わりを蝕むのではなく、神の交わりを世に証しし、地域や家庭に仕えようとするならば、全ての権限をキリストにお委ねしなくてはなりません。だからこそパウロは、教会の交わりをキリストの身体に重ね、連なる人々の特性を、人体を構成する無数の部分に喩え、互いに敬うようにと語りかけたのではないでしょうか。世にあって蔑まれる人々がいたとしても、教会にあってはキリストとつながって各々が尊ばれます。そして世にあって神に仕えるわざは、世にも格差や蔑みから解放される喜びをもたらします。そしてそのわざがどれほど小さくても、神の愛の証しする輝きとなり、伝道となります。それは神の愛の先取りでもあります。いのちの痛みへの敏感さ。共に苦しむ繊細さ。世の全ての痛みは、その痛みを伴う愛の中でのみ癒されるのです。
わたしたちは今、アニサキス症以上に猛威を振るうコロナ禍の只中にいます。そしてウクライナの紛争や台湾海峡の緊張の中にもいます。だからこそわたしたちには、二度と戦争や飢餓の苦しみを繰り返すことなく、キリストに立ち帰る態度が問われます。