時間:10時30分~
※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
動画は2種類
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「神の愛は涼やかな風となって」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』 9章42~50節
(新約聖書80頁)
讃美=301,532,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
礼拝のライブ配信を致します。
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説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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本日の福音書の記事で人の子イエスが語る救い主への信頼、神への信頼をつまずかせる者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、斬り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、斬り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩をもちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と語ります。教えの最後に「そして、互いに平和に過ごしなさい」とある割には、本日の箇所ではなかなか物騒な、心穏やかにならない、激しい言葉が延々と続きます。さらには死後の世界に属するはずの、地獄の存在にすら言及します。これはもともと古代ギリシアの世界観であり、ヘブライの民の理解には見いだせない考えです。このように、身体の切除を伴う刑罰をイメージさせる言葉を用いながら、「人は皆、火で塩味をつけられる。塩はよいものである」と語りかけ、「互いに平和に過ごしなさい」と語るところの、脅迫じみて響くこの教えは、どのような態度をわたしたちに示しているのでしょうか。実にこの箇所では、字義通りに正典を受けとめる宗教原理主義の国家で執行される刑罰も含みますので、丁寧に解き明さなくてはなりません。
この箇所の第一の関心事は「つまずき」です。とりわけ、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」に始まり、「つまずき」の原因そのもの、または意識してきっかけをもたらす者へ向けられた警告が記されます。人々の不信仰や、単なる特定の行為や人格に向けた非難に終わるのならば、人の子イエスもまた、一部のファリサイ派や律法学者と寸分違わなくなります。しかし注意してみると、人の子イエスの非難は、つまずきをもたらすわざへの激しい怒りとしても理解できます。溺死の理由は他人の信仰をつまずかせたからだ、あるいは身体の欠損や障碍はつまずきをもたらしたそのわざの報いだ、などと人の子イエスは語っていません。むしろそのような因果応報の理屈で人の心を惑わす教えそのものが「つまずき」だと言えます。
それでは「つまずき」とは何を内容とするのでしょうか。思うにそれは「神と人に希望を置く者の信頼を台無しにする」、また、「キリストを信頼する生き方を妨げたり、嘲笑ったりする」、さらには「身命を賭してキリストに従おうとする者のあり方や生き方を挫いたり、茶化したりする」といったわざであるとも言えるでしょう。そうなりますと、『マルコによる福音書』とは異なる、『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』の記事で、荒れ野での四十日間、イエスを三度誘惑する悪魔の振舞いが視界に入ってまいります。すなわち、自分の飢えだけを満たすために石をパンに変え、これが人生の目的の全てだと思わせて分かちあいを否定し独り占めする態度。次には『聖書』の言葉を引用しつつ神を試す体裁をとりながら、その実態は神を疑わせる弄び。そして多くの犠牲や抑圧が隠されているのにも拘わらず、諸国の繁栄ばかりに注意を惹かせて、思うままにその富を操る中で縛りあげられる生き方。残念なことに、現代では国家も含めた公の組織でさえこのような妄想に囚われ、人の心を荒廃させ、時には『聖書』を用いて戦争さえも正当化します。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。古代のギリシア文化に根ざす地獄とは『マルコによる福音書』の場合、死後の世界ではなく、この世における現実の「焼けつくような痛みと苦しみ」に満ちています。
ただしイエス・キリストは、そのような灼熱の世にあっても大切な塩は消えず、同時に、潤いに満ちた神の平和こそ、あらゆるつまずきに優ると語ります。そしてつまずきの実質的な内容となる妄想にとりつかれたわたしたちにとって桁違いの「つまずき」である十字架での死と復活を通して、人間が作り出す破れと限界に満ちた平和ではなく、何人にも損なわれない神の平和にあって過ごす安らぎを勧めます。そこには涼やかな風としてそよぐ神の愛の働きがあります。神の愛への信頼が世界を変えていくのです。
核戦争の脅威がこれほど高まった時代はないと言われる今、わたしたちの暮らしにはさまざまな不安に満ちています。いつコロナの災いは収まるのか。いつ戦争は終わりを告げるのか。いつこどもたちは安心して遊びと学びに専念できるのか、と。しかしとりわけ広島や長崎で深い火傷や手や足や目を失って、なおも人として懸命に生きてこられた方々が、今、次世代に平和のバトンを渡そうとしています。非常勤先の大学での授業の最中、その浅薄な内容への学生の抗議への反省として広島を訪れ、祈念碑に水を献げた旅を思い出します。多くのこころない言葉やつまずきに勝利した人々は今、記録映像からメッセージを語りかけています。「平和を実現する人々は幸いである。その人は神のこと呼ばれる」。毀誉褒貶に囚われず、キリストとともにあゆみましょう。