2022年5月25日水曜日

2022年5月29日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー復活節第7主日礼拝ー
―キリストの昇天―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「神が備えたそのタイミング」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 17 章 6~16 節. 
(新約聖書 202 頁)

讃美= 158(1.2.3),こども 135, 542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 お子さんが百貨店やお祭りの人混みで迷子になるというハプニング。よく迷子になった当人にとっては、ただただ泣きじゃくるか、パニックになるか、迷子になったこと自体に気づいていないかでありますが、それがどうであれ、探し回る家族は気が気ではありません。百貨店であれば店員さんに声をかけ、祭礼の人混みであれば見回りの警察官に声をかけ、スピーカーで何度も何度もその名を呼んでもらうしかありません。今ではGPS機能のついた携帯電話を持たせたり、防犯ブザーを身につけさせたりと対応には余念はありませんが、そこにいるべき人が姿を消してしまうほど恐怖に襲われることはないかと考えます。

 本日の聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』だけに記される独自のイエスの祈りです。他の福音書にはないイエス・キリストの祈りを味わってみますと、キリスト自らの苦しみを訴える「ゲツセマネの祈り」とは、内容が格段に異なっているところに気づかされます。なぜなら、他の福音書では十字架にあげられたときに献げていたはずの祈りの内容に重なるところがあるからです。その内容は、救い主自らの苦しみから発せられる呻きというより、すでにとりなしの性格を色濃く帯びています。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」。これまで繰り返し福音書を味わってこられた方々には、この節には「本当にそうだったのだろうか」という疑問や違和感をお感じになるはずです。なぜなら、福音書に描かれた弟子の誰もが、イエスが人の子として世におられたときには、ボタンの掛け違いのような、内容のかみ合わないちぐはぐな対話に限らず、病に冒された人々の癒しの場に居合わせていたその場で、なおもキリストの癒しのわざを自らの手柄であるかのように自慢げです。そしてついには12弟子が互いに「誰が救い主の次の席に着くのか」との権力争いのように振る舞うからです。むしろ世にあってイエス・キリストが神の平和の実現として示したのは、病を癒された人々そのものであり、「群衆」と記され、イエスのもとに集る名もない人々そのものであり、肌の色も言葉も身体の特性も、家庭の事情も一切問われないところの「こどもたち」でした。もしそのような状況を押してイエス・キリストが「彼らは御言葉を守りました」と言うならば、そのときすでに、神の前にキリストは弟子を「かばい立て」していると言えます。しかし『ヨハネによる福音書』でのそれは「かばい立て」を遙かに超えて、とりなしとなり、それは十字架での贖いへと続いてまいります。『ヨハネによる福音書』は実に丹念に、人がその社会の歪みの中で抱えていく罪、また社会そのものの罪をえぐりながらも、決して人は罪の中には留まらないのだという救い主のみわざと言葉を前面に押し出して描きます。だからこそ、わたしたちもまた、そのあがないの核をなすところの神の愛がなにものなのかと問いながら、平安の中で安心してその答えの中に身を委ねることができるのです。

 この箇所には、ロシアを代表する作家ドストエフスキーの代表作である『罪と罰』を重ねずにはおれません。貧困学生であるラスコルニコフは「不当な貧しさの中で苦しむ者は、その不当に貧しくされた者を欺く者からであれば、たとえ暴力を用いてでも奪われたものを取り返せるのだ」との思いに駆られ、金貸しの老婆を斧で殺害します。しかしその後に襲ってくる罪責感に苛まれる中で、貧しさの中で夜の町に立つほかない、絢爛豪華であるはずのロシア帝国の闇に佇む娼婦のソーネチカと出会い、過酷な中でなおも生きる彼女が朗読する『ヨハネによる福音書』に耳を傾ける中で次第に自らの罪を認めていき、自首の後シベリアへと流刑されます。そしてソーネチカもその後を追うのです。神の備えたタイミングは必ず訪れます。イエス・キリストが復活の後、40日を経て天に昇る出来事を「キリストの昇天」と呼びます。召されるのではなくて自ら救い主として神のもとへと昇られるのです。他方でわたしたちの暮らす世にあっては、直接救い主の姿を仰ぐことはない、という時を迎えます。しかしそのような時の中で起きる出来事一つひとつは、うろたえと恐怖に支配されてはいません。なぜならイエス・キリストは、自らの世にあった姿と十字架と復活の出来事を通して今なお神の愛の力を注いでいます。これこそ聖霊の注ぎです。

 ウクライナへの特別軍事作戦の名の下、演習が終われば帰宅する約束だったはずなのに行方不明となったロシアの兵士がいます。今や兵士の数が足らず、視力障がいや脳に障がいをもつ若者まで、前触れもなく徴兵されていきます。兵士の母親はもはやロシアにではなく敵国のウクライナのコールセンターに電話します。すでに兵士のデータがロシアのコンピューターから抜き出されて行方が分かるしくみになっています。うろたえ泣きじゃくる母親に、ウクライナの電話担当者は「泣かないでください。息子さんは戦死者のリストにはありません。戦争は痛ましいです。だからこそ平和が来る日を待ちましょう」と語りかけます。平和を実現する者は幸いです。聖霊の注ぎのもと、キリストに慰められ、励まされた者として、神の備えた時に相応しく支えあいましょう。


2022年5月19日木曜日

2022年5月22日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―復活節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「キリストの慈しみにまもられて」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 16 章 16~22 節. 
(新約聖書 200 頁)

讃美= 239(1.3.4),166(1.2.3),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 コロナ禍の中で急速に発達し、そして今ではなくてはならないインフラとして浸透しているのがリモートワークと、キャッシュレス決済というしくみです。正確にはポイントカード制度も含めてコロナ禍以前から技術はありましたが、非接触型業務が感染対策として行政からも企業からも奨められた結果、コンピューター、タブレットパソコン、スマートフォン、電子書籍があって当然のものとなりました。確かに個人的にも立ち入るような、またはトップシークレットの話し合いであれば、外部から不正に情報を入手される場合もありますので直接の会議に出向かなくてはなりませんが、学校の講義や職員会議の全体会といった程度であるならば、充分リモートワークで対応できます。対人関係がどちらかといえば苦手だという方には、これはむしろ朗報かも知れませんし、教会によっては「聖書研究会」や「祈祷会」もすべてリモートで行うところも増えています。新進気鋭の牧師であるほど、そのような選択肢も含めて創意工夫を重ねて、臨機応変な牧会に励んでいるとのこと、時代遅れの牧者からすれば頼もしい限りです。
 しかしその反面、そのように外出の機会が減る中で、足の指先が地面に着かない「浮き指」のこどもたちが増えていると申します。運動不足に伴う足指の筋力低下が原因だとされていますが、コロナ禍で外出の機会が減り、放置すれば腰痛や歩行障がいにつながる恐れから、さまざまな対策が講じられ始めたと申します。「最近のこどもたちの筋力の低下は著しい。このままでは多くの人が、齢を重ねたときに深刻な腰痛や関節の変形を抱えることになる」と教会員の橋間隆子さんのご子息・誠さんは危機感をあらわにされています。浮き指の原因にはサイズの合っていない靴を履く、幼少期の歩行距離が短い、ゲームのしすぎなどによる長時間の前傾姿勢を指摘されています。これは『産経新聞』5月10日夕刊の記事によります。
 仮に新型感染症対策の規制緩和が行われたとしても様々な後遺症が健康にも社会にも残されます。たとえ会社がこの危機を免れたとしても、長い時間をかけて身につけたスキルを用いられないところに配置換えされるという話は、会社そのものの解雇と並んで聞き及ぶところであり、生活の再建にあたっては長い時間を必要とします。ご高齢の方々のお身体の衰弱も無視できない課題です。就職先の内定の取り消しは日常的に耳にするところであり、決してよく聞く話として軽んじるわけにはいきません。郵便局の配送も感染症対策のために遅くなり、直接小銭に触れるという行為にも手数料を課金し、歯止めをかけるしくみがあちこちで生まれています。そのような状況の中で、わたしたちはようやく、自分たちの暮らしが準戦時体制にあったのだとようやく語りうるようになりました。問題の渦中にあってはそのような話すら耳を塞ぎたくなるのが人情というものです。
 しかし本日の箇所は、そのようなわたしたちの日常の課題以上の重荷である、世人の罪を背負ったイエス・キリストが弟子を前にして最後の教え、いわば遺言を語るという場面です。この箇所では「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」との言葉をめぐって弟子の間に混乱が生じます。この混乱の中で「女性はこどもを授かるとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかしこどもが生まれると、一人の人間が生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去るものはいない」。まとめれば、この箇所ではキリストの十字架での死と復活に留まらず、キリストの昇天、そして神の愛が遍く世に伝えられた後に訪れる終末のしるしとしての再臨のイエス・キリストとの出会いという福音書を貫く歴史の流れが書き記されていることとなります。
 それでは直接イエス・キリストとまみえてはいない、しかし世の終わりも先送りされているようにすら思える今、イエス・キリストはどのようにわたしたちと関わってくださっているというのでしょうか。鼻で息する者、すなわち人の姿しか見えない、見えるものしか受け入れられない場合、教会は他の集まりと同じような集いに過ぎない、いやその方が、人の思いに適う目的に特化できるので、利用しやすく公告も出しやすいとも言えます。しかしながら、ただの人の集りとは教会は決定的に一線を画するところがあります。それは、神の慈しみによって世界に平和が訪れるそのときまで、キリストが示した神の愛の力がこの交わりには注がれ続けている、聖霊が注がれ続けられているという一点です。この聖霊の力によってわたしたちは神を讃え、キリストの姿を心に焼きつけ、世にある思い煩いから自由にされるのであります。それだけではありません。思い煩いから自由にされたわたしたちは、聖霊の力によって聖書の言葉に従い、互いに傷つけることもなく、排除しようと思わず、互いの多様さを認め、新進気鋭の人々の示す変化を受け入れ、時代の負の遺産に苦しむ人々を、御心ならば支えようと求めることができるのです。眼差しは内向きにではなく、聖書に記されたキリストを通して外へと向かいます。これは神の絶対の救いと約束であり、教会が最優先とすべき事柄です。

2022年5月12日木曜日

2022年5月15日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―復活節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「主イエスと手をつないで」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 15 章 1~10 節. 
(新約聖書 198頁)

讃美= 21-57(1.3.4),285(1.2.4),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 2月24日から始まったロシアのウクライナ侵攻で、暮らしを破壊され難民となった人々は少なくとも450万人を数えているとの報せを聞きました。当初は突然やって来たロシア兵に丸腰で詰め寄る市民の姿もありましたが、時が経つに連れてその攻撃も無差別化し、いたるところで廃墟と爆発の映像が流れます。老若を問わず、わたしたちはその映像を見て胸が苦しくなります。そのような残酷さの中で、人間が良心の呵責を次第に失っていく恐怖を覚えずにはおれません。ある写真を観る機会を得ました。それは、花壇を造るときに用いる赤煉瓦で畳一畳ほどの広さを囲ったところに粗末な十字架が立っています。その近くに俯きかげんの表情でパーカーを着た男の子が写真の右端に立つという構図です。盛り土のところには母親の遺体があり、少年が母親を埋めたというのです。言葉もなく、ひたすら頭の中でこどもさんびかの「せかいのこどもは」がエンドレスで流れるばかりでした。「世界のこどもはお友だち 歌声あわせて進みましょう。神の平和が来るように 心をあわせて いのりましょう」。正確にいえば、写真の男の子がロシア人なのかウクライナ人なのかは分かりません。けれども母親を残忍な仕方で失ったことは確かで、その男の子がこれから母親を殺害したであろう誰かを一生憎んで生きていく、そしてそのようなこどもたちの数が数え切れないほどに膨れあがっていくとするならば、情報戦争の名の下で繰り返される非難合戦とは比較にならないほど辛いことであろうと打ちのめされる日を過ごしています。このようなこどもたちは77年前の満州にもいただろう、沖縄にも朝鮮にも上野にも難波にもたくさんいたことだろう。いったいそのうちの何人が憎しみから解放され喜びにあふれた道を歩んだのか、次第に分からなくなりつつあります。
 もしその子たちを憎しみの呪縛から解き放つことができるというなら、そこには出会いしかないだろうと考えます。それは可能性でしかありませんが、決してゼロではありません。難民という道筋ではなくても、両親から見捨てられてしまったという悲しみが癒され、絶望の扉が打ち破られるとするならば、そこには出会いしかありません。その出会いの中で死に体の人生に新たにいのちの息吹を注がれたという牧師をわたしは知っています。今年93歳になるはずの、金城重明牧師です。不思議な導きで、12年前に天に召されたわたしの母が、高校生の頃に教会の献身キャンプで神学生として出会い、極々たまに連絡をとりあっていたと申します。島民の四分の一が亡くなったと言われる沖縄戦でも特に激戦地となった渡嘉敷島の洞窟で「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けた金城少年は米軍に囲まれ集団自決を図り、母親を殺害して米軍陣地に突撃しようと試みます。しかしそこで目撃したのは、あろうことか累々と連なる日本兵の捕虜の群れでした。「死ねといっておきながら、大人はなぜおめおめと」という、家族を殺めた深い罪責の念と「生きて虜囚の辱めを受けず」と恥ずかしげもなく語り、人々に説諭して回った大人への腹の底からの憎しみは想像を絶するものだったでしょう。しかしその金城牧師が憎しみを超えて教会に連なり、高校生のキャンプの準備をし、笑顔で接するようになったところに、わたしは神様のみわざを感じずにはおれません。そういう言葉を軽々に用いるなといわれても、やはりそこには神の働きがあったとしか申しあげようがないのです。
 本日の聖書の箇所には、新共同訳では小見出しに「イエスはまことのぶどうの木」とありますように、コロナ禍で聖日礼拝を献げることすら躊躇われるような状況を何度もくぐり抜けた、昨年の泉北ニュータウン教会が懸命になって確かめ続けたところのメッセージが記されています。政府の官房長官が公式に「屋外マスクは距離があれば不要」とアナウンスする規制緩和が出るまで、いったい何名の方々の弔いを感染リスクを避けて「家族葬」としなくてはならなかったというのか。生き死にを問わず、わたしたちの交わりが、果たしてイエス・キリストに根ざしているのかどうかと問われるこの三年目です。もちろん這ってでも教会に来なさいというような精神論、またそのような教会員のみが「立派だ」として賞賛されるような雰囲気は、幸いにして泉北ニュータウン教会は見られませんでした。わたしたちが手にしているのは「教育勅語」や「戦陣訓」ではなくて『聖書』です。だからこそイエス・キリストは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とお話しになります。教会の聖日礼拝、またはリモート礼拝、聖書の言葉を味わい、祈る度に、主イエスがわたしたちの手をつないてくださっていることが分かります。各々の暮らしの課題が重いほどに、その手は堅くわたしたちの手をとって離しません。
「世界のこどもはおともだち 両手をつないですすみましょう きょうも一日イエスさまの おことばおぼえてはげみましょう」。これは旧版のこどもさんびかの歌詞ですが、本日の聖書の箇所と重ねるのであれば、これは単なる歌詞に留まらず、ありかたとして全く曇りのない言葉です。どのような報せにもうろたえずに、キリストに根を下ろして新しい一週間を始めたいと願います。

2022年5月5日木曜日

2022年5月8日(日) 父母の日礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ―復活節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「おたがいに愛しあいながら」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 13 章 31~35 節. 
(新約聖書195 頁). 

讃美= 461(1.2.4),Ⅱ 167(1.2.4.5),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 分刻みで時計の針に追われる暮らしを続けていくというありかた。確かにその中で我を見失うこともあれば、後から考えれば些細な事柄に「それどころではない」と腹を立ててみたり、憤懣やるかたない中で夜半に目を覚ます時もあるかもしれません。けれども毎日があっという間に過ぎていくありかたは、裏を返せば暮らしが軌道に乗っていることでもあり、後々振り返れば順風満帆とはいわないまでも、順調であったといえるかも知れません。翌日のプランを確かめて、お子さんを寝かせながら布団に入る。そして朝はさあやるぞと一念発起してまた一日を始める。忙しかったけれども、あの頃はかわいかったなあとわが子の姿を見て思うときが必ずやってきます。
 しかしそのような当たり前の暮らしが突然絶ちきられてしまう、という事態にわたしたちは出遭う場合もあります。なるべくならばそのようなところに身を置きたくないのですが、それは突然やってきます。例えばわたしたちが日曜日は教会として、ウィークデーは「こひつじこども園」、「放課後等デイサービスこひつじ」の働きのために用いているこの施設が建てられ荷物が搬入されたのは2011年3月11日、東日本大震災の起きたその日。地震だけでなく大津波、火災や家屋の倒壊、原子力発電所の爆発も含めて12都道府県で18,717名の犠牲がもたらされたその日。北日本に響く日常の絶たれた親たちの声、こどもたちの声に茫然としながらも、園関係者・教会関係者は何ができるのだろうかと日々の保育のわざとともに手探りに明け暮れた日々だったと聞きます。
 同時に今日にいたるまで政の舵取りが必ずしもうまく及ばず、その結果として極端な格差社会がもたらされてしまいました。この施設と保護者の方々が関わるとき「こども園」とお呼びのことでしょうが、これは昨年来のことで、それまでは「保育園」、つまり社会福祉を軸としていることが鮮やかでありました。事業体としてブランドを志向するよりも、どれだけ社会のセーフティーネットとして機能しうるのかと働き人は絶えず自問しています。見渡し通りに暮らしが続けば、人々は福祉にはさほど関心を向けません。しかし実際にはそういかないからこそ、社会福祉というインフラが必要です。それでは、なぜそのような福祉が、福祉事業そのものに特化せずに、教会と密接にリンクしているというのでしょうか。中途半端なことをせずに働きを分離して各々特化すればよいではないかとの声もあったでしょうが、あえてわたしたちは「車の両輪」という言葉を尊んでまいりました。それは泉北ニュータウン教会・当時のこひつじ保育園創立者の土山牧羔牧師の着想によります。仮に保育園が単体で事業を拡張していった場合、その事業が自己目的化するという可能性があります。実例は全国いたるところにありますが、いつの間にか収益事業体と化した社会福祉法人がさまざまな問題や事故を起こして倒れていくケースがあります。しかしわたしたちの場合は、保育のわざが礼拝を始めとした教会のわざと堅く結びつき、保育の眼差しそのものが自己目的ではなく、必ず園児さん、そして保護者の方々に向かうよう整えられます。それはイエス・キリストが神の愛のわざを行う生涯を全うされていった足跡を絶えず思い起こすところに根拠があり、誰よりも主イエスが車の両輪をつなぐシャフトとなってくださっているのです。そしてキリストの教会が園児さん、卒園していったこどもたち、また保護者の方々が肩の荷を下ろす場として用いられることによって、神が備え給う安らぎを分かちあう交わりが地域社会に根を下ろしてまいります。そこには「こどもたちによりよく仕えることができますように」との祈りが響きます。
 本日の聖書の箇所で、イエス・キリストは次のように弟子に語ります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。この箇所でいうところの「愛」とは、奪うのではなく、「愛し合う」といった、誰かとの尊い関わり、いのちとの尊い関わりが示されます。さらにその愛は見返りを求めず、わたしたちの日常という「足下」に隠されています。何よりも大事なのは、わたしたちが暮らすこの世の利害には全く根拠がないところです。何かの能力に長けているとか、経済力があるとか、社会が求めるところの健康だとかといったことは問われず、親子の間の血のつながりさえも問われません。母マリアは処女懐胎という仕方で、福音書の物語ではイエスを身籠もっています。さらに注目したいのは、イエスがこの教えを語っているのは、弟子であるイスカリオテのユダの裏切りを公然と認めた後の話で、きれい事では済まないという一面もある点です。イエス・キリストは裏切りを恐れません。弟子の期待に失望するどころか「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言うのです。互いに労りあい、互いに敬いあい、互いに育みあう間柄。平和な世にあっても、そうではない世にあっても、イエス・キリストという変わらない神の愛の戒めを頼りにしながら、こどもたちを育むというわざは続けられます。保護者の方々もぜひ、イエス・キリストを通し、己の至らなさを赦し、思いがけない変化を受け入れ、いのちを養い育むわざに触れてくださればと願います。