―降誕節第10主日礼拝―
説教=「黙れ、静まれ」
稲山聖修牧師
聖書=マルコによる福音書 4 章 35~41 節.
(新約聖書 68 頁)
讃美= 300(1.3.5),494(1.3),541.
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「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と始まる『マタイによる福音書』24章の言葉。変異と流行を繰り返す新型コロナウイルスの流行や戦争の報せに足下をすくわれそうになるわたしたちに、深い平安と安心を備える言葉です。しかし同時に、福音書の成立の背景に限らず、人の子イエスが歩まれた世というものが、どれほど名もない人々に過酷であったかを物語る箇所でもあります。ローマ帝国の皇帝を頂点とするところの社会には様々な階層がありました。日々のわざに疲れ、額に刻み込まれた皺、人生の長旅に疲れ、ひび割れた足。聖書の世界に描かれる人々も、描いた人々も、今その物語を味わうわたしたちも、世の荒波に翻弄されるばかりです。
そのような荒波の中で用いられる船の働きに焦点を当てた作品が『旧約聖書』の物語には概ね二箇所にわたり登場します。第一には現在のイラク周辺にある川沿いの都市国家を、予期せぬ仕方で襲った大洪水を題材にした「洪水物語」、そして第二には箱舟には乗り込めなかった人々の呻きを、嵐を鎮めるために海に投げ込まれる預言者ヨナの祈りを通して代弁する物語でもある『ヨナ書』です。「洪水物語」はもともと『創世記』オリジナルの話ではありません。さらに時をさかのぼる同様の物語が彼の地の古代神話にはよく見られます。概ねその物語の場合、自然災害を「神の怒り」として受けとめていく色合いが濃いものとなっています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」という言葉が、『旧約聖書』の「洪水物語」の理由としてはっきり記されています。しかし『創世記』の物語では、水もひき、洪水に関する全ての災いが終わり、ノアが箱船から出て祭壇を築き、焼き尽くす献げものを献げた際に、主なる神はこの宥めの香りをかぎながら「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と再び語ります。つまり他の古代の言い伝えでは神罰として受けとめられるのにも拘わらず『旧約聖書』では「幼いときから悪い思いを抱える人への赦しの物語」へと転換してまいります。その転換をもたらす器として箱船は用いられます。
本日の福音書の物語では、夕刻に人の子イエスが「向こう岸に渡ろう」と弟子に命じたところから始まります。この時代の一日とは太陽が昇ってから沈むまでとされます。そうなりますと暗夜に湖の只中を進む可能性も含み入れて人の子イエスと弟子の舟は漕ぎ出されてまいります。後に残された名もない人々のさまは描かれませんが、おそらくは家路を急いだことでしょう。天候が急変し、激しい突風が起き、湖は荒れ放題となったわけですから。
もちろん漁師であった弟子にもこの天候の急変は予測できませんでした。しかしあろうことか、イエス・キリストは、舟の艫の方で枕をして眠っていました。嵐の中、船底で寝ていたのはヨナ。人の子イエスは水を被る小舟の中で眠っていたのです。慌てる弟子がいうには「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。荒れ狂う波の中で自己への過信を砕かれ、弟子が剥き出しにしたのは、嵐の中でさえ平安の中にいるところのイエスに向けられた憤りともつかない言葉でした。「あなたはわたしたちのうろたえが他人事なのか」との思いが伝わってきます。この言葉を聴き届け、イエス・キリストはやおら立ち上がり「黙れ、静まれ」と仰せになります。これは嵐に向けられた言葉でもあり、また剥き出しになった弟子のうろたえと憤りを諫める言葉でもありました。風がやみ、すっかり凪となった後に「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子に向けた言葉。弟子たちは嵐よりもイエス・キリストを恐れます。「弟子たちは非常に恐れて『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。弟子はイエスの「黙れ、静まれ」という言葉を通して、荒れる湖に翻弄される怖れとともにありながら、まことに畏怖するべき方が誰で、恐れる必要のないものとは何かを水浸しの舟の中で気づかされ、目指す岸辺へと到着します。
古代イスラエルの民が巻き込まれた戦乱と政治の混乱の只中で記された『旧約聖書』の『イザヤ書』30章15節に「お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とあります。ある教会員から「今は祈ることしかできません」と連絡を受けましたが、まさしく祈りとはこの『イザヤ書』の言葉にある通りのわざ。祈りは決して小さな営みではありません。黙して神の智恵と平安を授かる揺るぎない交わりです。