2021年4月29日木曜日

2021年5月2日(日) 説教(在宅礼拝用動画・要旨です。当日、礼拝堂での対面式礼拝はありません。)

「約束の実現に先んじる希望」 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『ヨハネによる福音書』14章1~11節 
讃美歌:187, 280(1,2) , 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

説教動画「こちら」をクリック、又はタップしてください。

【説教要旨】
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへと移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」との序に続く弟子とのやりとりの中に、本日の箇所は記されています。人の子イエスは弟子の足を洗い、そして最後の晩餐の席でイスカリオテのユダによる引き渡しを告げ、ユダがその席から去った後にはペトロの離反を予告します。『新共同訳聖書』ではイスカリオテのユダの場合は「裏切り」、ペトロの場合には「離反」と言葉を換えております。これは新共同訳のテキストに付加された見出しであって、ギリシア語の原文には出てまいりません。弟子たちの群れには、この相次ぐ仲間の離反の予告は想像を絶する恐怖と不安をもたらしたことでしょう。イエスが十字架への道をいよいよ具体化するに連れて、一人、またひとりと去っていく者がいる。これまでイエスとともに歩んだ時には何であったのかという腰の抜けるような脱力感と、これからわたしたちはどうなるのかという深い闇に、残された者は覆われてまいります。わたしたちの中から主イエスがいなくなる。それだけではなく主イエスが殺害されていく。すべてを捨てて従ってきたのに、もはや先は見通せず足もすくむといったところに弟子たちはいました。イエス・キリストは十字架での殺害という道を通り父なる神のみもとへと召されていきます。復活の出来事はまだ弟子たちには分からないままです。この箇所で迎える弟子たちの危機とは、交わりが解体され、バラバラにされていくというだけでなく、これまで喜びに満ちていたはずのイエス・キリストとの出会いがすべて空虚な思いの中に捨て置かれる恐怖です。人の世にありましては、どれほど尊敬を集め、仰がれる人と出会ったとしても、やがて別れの後、その姿は懐かしさとともに曖昧模糊となっていきます。いや、まだ思い出せるのであればよいほうで、それすらも困難になってしまう場合もあります。

 しかしそのように狼狽える弟子の群れにイエス・キリストは語りかけます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのところへ迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。世の中から締め出されると恐れる弟子たちにイエスが仰せになるには、わたしのいるところには居場所がある、と語っているのです。たとえ弟子たちにその居場所が見えず、分からなかったとしても、イエス様は居場所を用意してくださっている、というのです。これは戸惑いを和らげはしなかったとしても、弟子たちのうろたえや危機感に、光をもたらしたのではないでしょうか。確かにこれからわたしたちには想像もつかない大事が降りかかるだろう。けれどもそのような大事であったとしても、何一つ神の御旨からは外れてはいないというメッセージです。「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分が話しているのではない。わたしの内におられる父が、そのわざを行なっておられるのである」。だから心配するな、だから祈りつつ現実に働きかける神の声に耳を傾けなさい、というのです。

 おそらくはわたしたちが知る以上に、わたしたちが見聞きする以上に、イエス・キリストのわざは今、希望とともにわたしたちをつつみ、支えてくださっているとわたしは思いつつあります。泉北ニュータウン教会が創立されて50年を迎え、緊急事態宣言が発令される少し前の、実に不思議な体験です。それは泉北高速鉄道泉ヶ丘駅の駅前で、赤いのぼり旗を立ててアピール中の市議会議員のそばで署名活動をされる運動員から声をかけられたときです。全く知らない人です。職業を尋ねられたので「牧師です」と答えました。勤め先を尋ねられましたので「泉北ニュータウン教会・こひつじ保育園です」と答えました。保育園がこども園として名称を変更する前です。すると「牧羔先生のところですか」と運動員の方の堅い表情が和らぐのを確かに見ました。わたしはその方が熱心に活動されているのは存じていましたが、どこの誰かは存じません。そのような方から「牧羔先生は、いろいろなお話をされにきたことがあるんですよ、今は母親になった娘も、こひつじでお世話になりました」とまで仰せになっていました。思わず胸が熱くなりました。わたしたちは教会の中で、深い信頼関係のもと、教会員それぞれの想いを分かち合ったりぶつけ合ったりしながら交わりを深めておりますが、実はこの50年間、神様はイエス・キリストを通し、みなさんをお用いになって、時にはわれ知らないところで福音を広め、教会を人の所有物には決してさせない喜びを感じました。だからこそわたしたちは、このコロナ禍の後を、コロナ禍の最中にあっての祈りに加えたいと願います。やがて感染症の恐怖からも解放されます。そのときにキリストの香りを湛えるために、今まさに神の希望をともにしましょう。

2021年4月22日木曜日

2021年4月25日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

説教:「死んでも生きるいのち」
稲山聖修牧師
聖書:『ヨハネによる福音書』11章17~27節 
讃美:310(1,2), 495(1,3), 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

説教動画は「こちら」をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、4月25日(日)10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。
ライブ中継は「こちら」をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

 ベタニアという村。エルサレムの3キロほど近くにありながら、エルサレムの都に較べれば貧しさの中に暮らすほかなかった人々の姿がそこにあります。なぜそこで貧しさが浮かびあがるかと申しますと、ラザロという青年は、本来その時代の医師による治療を受けなくてはならないほどの病に冒されながらも、事実上医療による暮らしの支援を受けることがなかったからであります。ラザロの病がどれほど重度であったかについては、『ヨハネによる福音書』12章3節で、姉妹マリアが当時の平均年収ほどの金額もすると指摘を受けたナルドの香油を人の子イエスに振りかけたことからも分かります。その物語の中でイエスは「わたしの葬りの備えをしてくれた」と申しましたが、それだけの価値ある香油があれば、兄弟ラザロの治療費にするのが家族の情というものです。しかしマリアはそうはいたしませんでした。ラザロが病から回復するのを願ってやまなかったはずのマリアが、あえてそのようなわざに出た背後には、兄弟がそれまで関わっていた医療にことごとく裏切られ失望するほかなかった悲しみと、だからこそ人々には名にし負うイエス・キリストに賭けた一念というものを察することができるというものです。貧しさというものは、単にお金のありやなしやばかりを指すのではありません。貧すれば鈍するという問題にも留まりません。その地域で人が暮らすための条件となる設備が整っているかどうか。そのような事柄も含みます。例えば現在、わたしたちは新型感染症流行を抑えるための緊急事態宣言の只中にいます。その緊急事態宣言に先んじて、すでに大阪府では医療緊急事態宣言が発出されています。仮に財力があったとしても、わたしたち市井に暮らす者は、いざというときに診てもらう医療機関があるのか深い不安の中で調べなくてはなりません。救命ボートに乗り、海に漂っているときに金貨をいくら持っていたとしても無駄であるのと同じような状況に、ラザロとその姉妹はうずくまるほかありませんでした。


 「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」とあるところ、ここは実に大切な箇所です。英語ではconsoleと申します。慰める、労わる、いずれにしても悲しみをともにするというあり方なしには成り立たないわざです。実はこの場に来る前に、弟子はイエス・キリストの歩みを遮ろうとしています。曰く「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行こうというのですか」。あるいは弟子のトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とすくむ仲間に檄を飛ばすような場面すら描かれます。でも実際そこで見た人々の様とは、弟子たちに敵愾心を燃やすのでもなく、憎しみをぶつけてくるのでもない、愛する兄弟を失い、悲しみに暮れる遺族に寄りそい支えようとする姿でした。その姿に人の子イエスの弟子は何を思ったことでしょう。故郷ガリラヤの貧しい漁村で幼いころに見た弔いの様子でしょうか。自分たちに刃を向けると思い込んでいたありようはそこにはなく、誰も彼もがみな等しく、遺族に寄り添い涙を流す人々がそこにいました。マリヤは心痛のあまり立ちあがる力もありません。人の子イエスを出迎えるマルタは声なき声で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言うのです。この段まではわたしたち自身、家族を天に送り悲嘆に暮れずにはおれなかった日々を思い出せば、十分に伝わるところです。しかし刮目すべきはマルタの次の言葉です。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。生と死という、人間には決して超えられない、目の前に立ちはだかる壁を、あなたは神との関わりとの中で超えていかれるとの呻きです。ですから「あなたの兄弟は復活する」と言われれば「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と幼いころから聞き及んだ聖書の教えを口にします。確かに、神の愛が世のすべての時も場所もをつつみこむときに、死者が甦るとの教えは繰り返し聞き及んでいたことでしょう。その線に立ちながらイエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。言葉による表現としては完全に崩壊しているところの「わたしを信じる者は、死んでも生きる」との声。「このことを信じるか」との問いかけにマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずのメシアであるとわたしは信じております」とはっきり答えます。嘆きに暮れるマリア、寄り添う人々の交わりの中でラザロのいのちの扉が開かれる瞬間。教会もわたしたちも、確かに困難の中に置かれてはいます。その中でキリストへの想いのまことさが問われます。祈りつつ、主にある深い平安への目覚めを授かりましょう。

2021年4月15日木曜日

2021年4月18日(日) 説教(在宅礼拝用動画・要旨 当日の礼拝堂での礼拝・動画中継もございます。)

「まことの愛に証拠は無用」
説教:稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』12章38~42節  
讃美:308(1,4), 234A(1,2),  540.

説教メッセージ動画は「こちら」をクリック、
またはタップしてください。

礼拝日当日も、YouTubeによるライブ動画配信を致しました。


 悪霊に取憑かれ、視聴覚を奪われた病人の癒しをめぐって起きたベルゼブル論争。人の子イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力で種々の悪霊を追い出しているとの噂を祭司長や律法学者は流していきます。それは何よりもイエスを陥れるため。しかし陥れるはずの相手に「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と見抜かれただけでなく「毒蛇(Viper)の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」とまで言われる始末。おそらく憎悪に燃えた険しい眼差しで何人かの律法学者とファリサイ派の人々が人の子イエスに問い尋ねてまいります。イエス・キリストはただ一人、責め立てる者は大勢で人の子イエスに狙いを定めるのであります。

 「先生、しるしを見せてください」。この箇所で「しるし」とされるのは英語ではsignです。これは「奇跡」とも訳されます。つまり、この箇所で人の子イエスに群がる憎悪に凝り固まった律法学者たちは、十字架で「奇跡を見せてみよ」と迫った人々に姿が重なります。この人たちこそ「ベルゼブル」、あるいは「レギオン」に相応しい、責任主体のない悪霊に取憑かれたありように陥っているのですが、当人たちはそれには一切気づきません。人の子イエスは、このような人々に次の話をされます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。しかし預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさる者がある」。この話には、『旧約聖書』の物語の中で、偏狭な民族宗教に凝り固まったその時代のユダヤ教に対する批判の物語として編まれた『ヨナ書』が引用されています。新共同訳聖書では僅か4ページの『ヨナ書』ですが、その内容には思わず息を呑むような場面が多々あります。例えば主役級の扱いをされている預言者ヨナ。ヨナは決して神の導きに従順な預言者、神の言葉を預かる者ではありません。むしろ神の導きに背を向けて遁走しようとするのです。その訳は神からニネベの都の救いを委託されたからです。

 大都市ニネベは、史上初めてイラン・イラクからトルコ・パレスチナにかけての統一国家を打ち立てた大帝国アッシリアの首都として知られておりますが、このアッシリアこそ、かつてイスラエルの民を戦で破っただけでなく、虐殺に虐殺を重ね、伝統を破壊するために民族浄化を行なった人々であり、ヨナからすれば不倶戴天の敵といってよい人々が暮らす都でした。ニネベの人々を救えとの神の命令は、したがってヨナには到底受け入れがたいものです。しかし神はヨナをニネベの道に導くために嵐を起こし、船員は試行錯誤の挙げ句ヨナを生け贄として荒れ狂う海へと投げ込んでしまいます。その最中ヨナは巨大な魚に呑み込まれてニネベに到着し、都に悔い改めを呼びかけます。そのメッセージにニネベの人々は身分を問わず耳を傾けて悔い改めてしまいます。心に浮かぶ希死念慮を神に訴えながらも、ヨナはニネベの人々を滅びから救う器として用いられていくのです。イエス・キリストが仰せになった「敵を愛しなさい」との教えが、極めて視覚的に分かりやすく描かれているのに気づかされます。それでは「ここに、ヨナにまさるものがある」とありますが、これは誰の事でしょうか。それはまさしくイエス・キリスト自らを指しています。そしてソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたアフリカはシェバ国の女王もまた、物語の世界から立ち上がり「よこしまで神に背いた時代の者たち」を神の愛が世にあって完成する時に、悔い改めたニネベの者たちとともに立ち上がり、神から託された自由の賜物をみだりに用いる罪ある者として定めるというのです。そして繰り返されるのが「ここに、ソロモンにまさるものがある」との言葉。これもまたイエス・キリストを指しています。ニネベの人々は、イスラエルの民の敵でありました。そしてシェバの国もアフリカ奥地の、異邦の民の国でありました。つまりイエス・キリストはこの箇所で敵愾心やライフスタイルの違いで人々を分断する壁を突破する教えと生きざまを、敵対心に歯ぎしりするファリサイ派や律法学者たちに示しているのです。神の愛にしるしを求める。隣人を受け入れようとする愛にしるしを求める。それを奇跡だともちあげる。証拠を求めてあげつらおうとする。新型感染症に限らず、荒んだ今の時代に重なるありかただとは言えないでしょうか。しかしわたしたちはキリストにお叱りを受ける者として、聖書の前に立ちたいと願います。わたしたち自身人の愛に、信頼関係に証拠を求めずにはおれないのです。神の愛に証拠は無用。その言葉に全幅の信頼をおいて、恐怖に慄くこの時代、神を深く信頼して一週間を始めましょう。

2021年4月8日木曜日

2021年4月11日(日) 説教(在宅礼拝用動画・要旨 当日の礼拝堂での礼拝・動画中継もございます。)

「世を打ち破る神の現実」
説教:稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』28章11~15節 
讃美:154(1,3), 164(1,4), 540.

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当日の聖日礼拝中継動画は、
4月11日(日)午前10時30分より始まります。
中継動画は、「こちら」をクリック、またはタップしてください。

 人の子イエスが葬られたはずの墓。それが空になったという出来事を報せに急ぐ女性たち。「あなたたがたより先にガリラヤに行かれる」と弟子に告げよとの天の御使いの声に「恐れることはない、ガリラヤへ行きなさい、そこでわたしに会うことになる」との復活のキリストの言葉を重ねて走ります。粗末なサンダルはいつの間にかちぎれ飛び、傷だらけの足になりながらもガリラヤを目指し、ひた走りに走ります。

 同時に復活の出来事に出会い「死人のように」なってしまった墓守の兵士たち。纏えるだけの武具に身を固めてはいたものの、天の軍勢にその力が及ぶはずもなし、今度は番兵たちがエルサレムへと逃げ帰ります。この「すべて報告した」というところで、祭司長たちが神の出来事の目撃者としての兵士の証言に、つまびらかに耳を傾けずにはおれなかったことが分かります。「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士達に多額の金を与えて」言うには「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」。兵士たちは金を受けとって、教えられたとおりにした、とあります。祭司長と長老たちのこの指示からは、キリストの復活の出来事に自らの陰謀が破れ、そしてその責任を番兵たちに押しつけているところが分かります。なぜならピラトは自らの権限で祭司長たちに番兵に墓を見張らせるようにと命じているからです。人の子イエスが十字架で処刑された後、その後の始末にしくじった番兵たちが無傷で済まされるわけがありません。番兵たちもまた、ペトロをはじめとした人の子イエスの弟子と同様に愚かでありましたが、さらに輪をかけて惨めであったのは、すでに祭司長と長老たちの泥縄に絡め捕られていたところにあります。

 このような番兵の行く末がなぜ読取れるのかと問われれば、わたしたちはイエスの弟子であり、かつペトロよりも格段に世知に長けていたイスカリオテのユダの道筋を知っているからだ、と申せましょう。もちろんイスカリオテのユダはこの時点での番兵とは異なり、ペトロに劣らず人の子イエスを慕っていたに違いありません。しかもユダは万事につけて大ざっぱなペトロとは異なり、食卓のイエスに注がれたナルドの香油の価値を、一般の年収分にあたると瞬時に見定める眼力を備えていました。ペトロが第一次産業の最前線で働く漁師であるならば、イスカリオテのユダはよりこの世の社会組織に食い入って収益をあげる能力を備えた人物でした。そこには幅広い人脈もありました。けれどもその知恵と人脈に絡め捕られるようにして道を踏み外していったのです。番兵たちと同じようにイスカリオテのユダは、祭司長たちに銀貨三十枚で買収されることを通して、人の子イエスの無実を訴えながら生涯を終えていったのでした。わたしたちにとってこの番兵、そしてイスカリオテのユダの姿は、果たして他人事として済ませられるでしょうか。

 世にある社会組織が全て神の道から外れているなどという極論は聖書には描かれてはまいりません。なぜならば「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と『ヨハネによる福音書』にあるからです。ですから実に奇妙ですが、この番兵たちもまた、期せずしてエルサレムにいる祭司長や長老たちに向かって立つところのキリストの復活の証人となってしまっています。おそらくはピラトの前でトカゲのしっぽ切りの憂き目に遭ったであろうこの番兵たちもまた、自分たちの勇ましさのゆえにではなく、復活の出来事に打ち負かされたという神の現実に打ち破られた者として、イエス・キリストの勝利の証し人にさせられました。

 わたしたちもこの名も知らぬ番兵たちと同じところに立つ者です。とりわけ人前に誇りうるところの手柄や業績を振りかざすときではなく、言い尽くしがたい深い痛みを胸に抱えたときです。わたしたちは概して自分を正当化しようと弁明する場合、とかく「世の現実はこうなのだ」という言葉を用いがちです。そこには自分のライフストーリーを無条件に認めて欲しいという神様にしかできないわざを相手に押しつけるという自由の濫用があります。それを聖書では罪と呼びます。しかしわたしたちが今最も問うべきは、不安に満ちた世の現実をしっかり見据えながらも、神の現実を問い尋ね、その当事者となるという態度です。復活の出来事を軸にして活かされるという姿勢は、単なる理想ではありません。無知で無学で、誰かの命令に従わなくては何も出来なかったはずの番兵たちにさえ実現できた生き方です。神の見えざる手は復活という出来事を通して、困難な時代を歩むわたしたちにも及んでいるのです。

2021年4月2日金曜日

2021年4月4日(日) 説教メッセージ (在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「悲しみの闇は吹き消されて」 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』28章1~10節  
讃美:146(1,4), 148(1,2), 540.

説教メッセージ動画は、「こちら」をクリック、またはタップしてください。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。見捨てられていく人々とその苦しみをともにし、歴史からも「はじめからいなかった者」として扱われて処刑・殺害されていった救い主であるイエス・キリスト。『マタイによる福音書』は、この苦しみと無力さに徹した救い主の生涯と、全く対極にあるところの政治力と暴力をほしいままにした世の力を対比させるようにして怒涛のように筆を進めてまいります。人の子イエスのいのちだけでなく、その存在すらも「失き者」としたい勢力は、その葬りにあたってもぬかりなく注意を払います。「あくる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。『閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るよう命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死人の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります』。ピラトは言った。『あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。』そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵を置いた」。本日の箇所に先んじて記されたところの復活の物語の導入部には、世の力をほしいままにした人々の恐怖心が隠されているのにお気づきでしょうか。人の子イエスの弟子はみな恐れをなして逃げてしまっています。けれども人の子イエスを十字架につけた者は、処刑し、そして葬られてなお恐れているのです。そして本来ならば支配する側、される側というしくみの中にいるローマ帝国の総督ピラトとエルサレムの祭司長は談合の機会をもちます。「念には念をいれて」ということでしょうが、その実態は救い主の言葉と生きざまへの恐怖です。ピラトは祭司と律法学者に責任を丸投げして墓の石を封印し、番兵を配置しました。厳重に封印され、兵士が監視する中、今朝の物語が描かれます。

 マグダラのマリアともう一人のマリア。おそらくはイエスの母マリアと思われますが、葬られたイエスの様子を見に行くと、大きな地震が起きたと記されます。もう少し下手な翻訳をいたしますと、大きく大地が揺れたとも受け止められます。驚天動地の出来事が起きたのです。それはかつて人の子イエスの母マリアが身体にいのちを宿した際、夫ヨセフに伴侶を離縁する必要はないと安らぎに導き、やがて生まれ出ずる男の子に名をつけた天使でもありました。そして暴君ヘロデ王の追手から家族を守るために若い父親の夢に現れてエジプトへ逃れるようにと道を示した天使でもありました。それがこの箇所では文字通り実力行使に打って出て、人の子イエスが埋葬されている墓地の蓋を空けてしまったのです。幾重にも封印され見張りまでついた墓地の扉は、神の力の介入により開かれたのです。その結果何が起きたのでしょうか。武器や鎧に身を固めていた兵士らは自分の無力さを知り恐怖に畏き「死人のように」なってしまいました。そして丸腰でイエスの葬りの場に訪れた、その時代では語る言葉すら証言として認められなかった女性たちにミッションが託されます。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」。今やこの場に立ち会った女性は尽く主の天使の代理人としての役目を帯びて道を急ぎます。その行く手には「おはよう」といつものように挨拶する復活したイエス・キリストがいました。この挨拶は日常人々を苦しめた世にありがちなものではなく、悲しみの闇を吹き消す、まばゆい朝日の輝きのような挨拶でした。「主は生きておられる!」。

「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」。世の力でイエス・キリストの復活を「説明」するにあたって尤もそれらしく理屈を展開したのは人の子イエスを敵視し、尊敬するどころか軽蔑していた祭司長や律法学者、そして総督ピラトといった面々でした。他方で主の天使の言葉を託され、神の言葉のメッセンジャーとして悲しみの中から一転、喜びのメッセージを告げ知らせるべくガリラヤへと道を急いだのは、法廷での証言さえも認められなかった、世にあっては無力な中で辛酸を舐め続けていた女性たちでした。天の御使いはキリストの誕生の折には名もない羊飼いに現れ、復活の時はこのような女性たちに現れました。今、わたしたちの世界では、そして身のまわりには様々な悲しみの闇が覆っています。けれどもその闇を吹き飛ばす神の愛の光は、復活のイエス・キリストに示され、今もわたしたちを活かしてやみません。