説教=「みことばに養われたキリスト」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』5章17~20節
(新約聖書7ページ)
讃美歌=239, 247, 二編136.
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「聖書は繰り返し味わうもの」。昨年天に召された教会員の形見でもある明治20年訳の日本聖書協会版『聖書』。その聖書を手にお話をした後に、この三月で卒園予定のこひつじ保育園の園児さんにぴかぴかの聖書をお渡しする機会を得ました。聖書は50年を経ても、100年を経ても問いを発し続ける書物であるとともに、わたしたちが進退の時を見極める際には決して忘れてはならない福音です。それはわたしたちを閉じ込めるのではなく、わたしたちのありようを解きほぐし、練りあげていく上で不可欠の書物。聖書を忘れたときに、また聖書の言葉を現状肯定に用いたときに、教会は解体するか、分裂するか、過ちを犯すかのいずれかの袋小路にはまり込んでまいりました。
それでは福音書で描かれるところのイエス・キリスト、人の子イエスは何をもって養いとし、また福音書の書き手は何をもとにしてイエスを救い主として描いたというのでしょうか。それは『律法』そして『預言者』と称される書物、その時代のユダヤ教の正典です。そして『律法』とは、わたしたちには『創世記』から『申命記』にいたる書物、『預言者』とは『イザヤ書』『エレミヤ書』『ホセア書』を含む膨大な量に及びますが、決してわたしたちから縁遠い書物ではありません。『旧約聖書』にはイエスもまた養いとした書物が宝石のように収められているのです。
だからこそイエス・キリストは次のように弟子に語るのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。イエス・キリストはわたしたちが『旧約聖書』と呼ぶところの書物にある、神の愛による約束を実現するために世に遣わされた救い主として『マタイによる福音書』の書き手は描きます。そして文字の読み書きを知らないはずの弟子たちにも、そのように教えるのです。それでは文字の読み書きを学ぶ機会が稀であった弟子たちは、どのようにして『旧約聖書』の教えを尊べばよかったというのでしょうか。
ひとつにはイエス・キリストが語る教えを聴き、その約束の結晶をその身に刻むことです。旧約聖書の教えを知識という面からだけでなく、暮らしの中での証しとして身に帯びるのです。これによってわたしたちもまた、聖書の言葉との関わりを尊びながら、わが身の至らなさ、そして己の驕り高ぶりという、ときとして罪として呼ばれ得るありようを舐めながらも、キリストに従う道を各々の場に応じて見出すにいたります。それは個人のありようとなるだけでなく、旧約聖書に記されたイスラエルの民と同じように、神に反逆する道ばかりを選びがちなわたしたちが、どのようにすれば神の平和に連なるのか、という道筋を示されることとなります。
それだけではありません。聖書の言葉は鵜呑みにすればよいというものでは決してなく、わたしたちには難しく響くどころか、時に厳粛に問いを投げかけてまいります。例えば「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」とあるが、そんなことはあるはずもない!とわたしたちが思ったといたしましょう。聖書はわたしたちに問いかけます。「なるほどあなたの言うことは分かった。それではあなたは、悲しむ人々は決して慰められないとでもいうのか。あなたは支えようとはしないのか」と。「イエス・キリストは復活したという話、死人の復活の話などあり得ない」と問うならこう問いかけられるかも知れません。「そのような問いをわたしたちは千年以上も聞いてきた。それでは尋ねるが人間は死んだらお終いだ、などと本当に考えているのかね。先達の遺した言葉、もっといえば約束によって、あなたは生かされているとは考えないのか」。実際、いのちの危険や責任に身を晒す場面にいたりますと、わたしたちは学習塾通いで得たような知識のありやなしやを問わず、軽はずみな言動は自ずから慎むようになります。これは日常のごく小さな場面に過ぎませんが、わたしたちは聖書に問いかける時、聖書から問われているということをも同時に思い浮かべる必要があります。それは単に「個人と書物」という関係を越えて、その問いかけを「ともにする」という交わりを育みます。この交わりの中に立つのが教会であり、この交わりは教会の枠を超えて広がってまいります。その広がりが社会に根を降ろし種を実らせさらにまかれたとき、いのちを活かす出来事が、思いもよらずに起きるのです。イエス・キリストはその時代のユダヤ教の義しさを十全に知り、その義しさをともにし、分かち合う交わりを広めました。だからわたしたちにも、とくに教会には、聖書に立つという主体性が絶えず求められるのです。危機を覚える時ほど聖書の言葉は近くにあります。キリストもともにおられます。主にある忍耐には希望が必ずあります。
2021年1月27日水曜日
2021年1月20日水曜日
2021年1月24日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝は行われません。)
「託されたいのちのバトン」
説教=稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』4章12~17節
讃美=75, 74, 540.
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「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」とのイエス・キリストの言葉。実に有名なこの言葉は、聖書の文脈から離れて一人歩きしながらも、個人のありかただけに留まらず、組織が代替わりしたりモデルチェンジする場合にもよく用いられます。とりわけ教会関係者やキリスト教文化圏の会社などの組織論では世代交代の場合によく耳にするところでもあります。
けれどもキャッチフレーズとしてではなく、福音書の物語の文脈の中で受けとめ直してまいりますと、ある一大事を背景にしているのが分かります。それは洗礼者ヨハネの逮捕。そしてイエス・キリストもその報せを聞いて、故郷のあるガリラヤに退かれた、とあります。しかしながらヘロデの追手を警戒してでしょうか、人の子イエスは、ヨハネと連座しての逮捕を免れようとするかのように、ガリラヤ湖湖畔の町カファルナウムにひとまず伝道の足場を設けます。『マタイによる福音書』の書き手はこの緊迫した状況の中で『イザヤ書』9章1~2章を大胆に再解釈して記します。新共同訳『イザヤ書』では次の通りです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが『マタイによる福音書』では「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者には光が射し込んだ」となります。『イザヤ書』にある文言にイエス・キリストが伝道の足場を設けた場所が記され、そこに大きな光が射し込むとされるのです。イエス・キリストが洗礼者ヨハネの身柄拘束の後に設けた活動の拠点とは「ヨルダン川の彼方」、「異邦人のガリラヤ」、そして「暗闇」。なるほどその時代には誰からも注目されないこの場所は、クリスマス物語に登場するヘロデ王の息子ヘロデ・アンティパスの追手から身を隠すにはもってこいの場所でしょうし、エルサレムを聖なる都として奉る人々にとってすればまさに盲点とも呼べる、決してその時代のユダヤ教徒からすればあえて足を踏み込みたいとは思わず、またローマの兵士やギリシア人といった異邦人にとっても、そこに暮らす人は豊かではなく、決して開明的でもありませんから別段関心も惹きません。「異邦人の町ガリラヤ」とは二重の意味が込められていると考えられます。それはその時代のユダヤ人から見たところの、文字通り異国の人という意味での異邦人という意味と、時に混血として蔑まれてきたサマリア人もその場に行き来していたという意味にもとれるからです。訪ねたところで何のメリットのないところ。語弊を恐れずに言うならばその時代の吹きだまりのような町であると蔑まれたとしてもおかしくありません。しかし、その町からイエス・キリストの働きが始まります。だから大切だとはいえないでしょうか。
洗礼者ヨハネの活動の場は荒れ野でした。洗礼者ヨハネはエルサレムを中心とした都市を「穢れたところ」と見なしていたようで、その限り、聖・俗というはっきりした境界線を設けています。しかしイエス・キリストが救い主のわざを始めたところでは、事はそのように単純には済まないグレーゾーンにうごめく人々が少なからずいたのです。
ヨルダン川で清めの洗礼を授けるヨハネのもとを訪ねることもできず、自分が何者であるかという問いすらも浮かばない無名の人々。その人々にイエス・キリストは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語りかけるのです。語りかける言葉が洗礼者ヨハネと異なるのは、語りかける相手が全く異なる点です。身動きがとれない相手に語りかける「悔い改め」とは、悪い行いを改めるのでは断じてなく「あなたの頭をあげなさい」という愛の励ましに満ちた言葉です。「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」とはまさしくそのような文脈の中で本来の力を宿すのではないでしょうか。「悔い改めよ、天の国は近づいた」。それは「悲しむ人々が慰められ」「柔和な人々が地を受け継ぎ」「義に飢え乾く者が満たされ」「憐み深い人々が憐みを受け」「心の清い人々が神を仰ぎ」「平和を実現する人々が神の子と呼ばれ」「義のために迫害される人々が天の国を授かる」だけでなく、これら全ての人々がイエス・キリストから「幸い」であると呼ばれ、祝福に満ちた交わりと不可分にされる出来事を示します。そして、わたしたちが常日頃口ずさむ主の祈りが聞き届けられ、その約束が完成する時でもあります。洗礼者ヨハネは捕えられた獄中から弟子を遣わし「来るべき方はあなたですか」とイエス・キリストに尋ねました。それはまことに切実な問いではありましたが、ヨハネをも主の平安に導く答えがすでに備えていました。洗礼者ヨハネに託されたいのちの光の束は、今ようやく救い主へと渡されたのであります。混乱を極める今の時代、暮らしは勿論のこと、教会も新たにされていきます。そのただ中で、次の世代へといのちの光の束は、ときに悔い改めを促す諸刃の剣として問いを発しながら、わたしたちの楽しみとなるのです。
説教=稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』4章12~17節
讃美=75, 74, 540.
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「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」とのイエス・キリストの言葉。実に有名なこの言葉は、聖書の文脈から離れて一人歩きしながらも、個人のありかただけに留まらず、組織が代替わりしたりモデルチェンジする場合にもよく用いられます。とりわけ教会関係者やキリスト教文化圏の会社などの組織論では世代交代の場合によく耳にするところでもあります。
けれどもキャッチフレーズとしてではなく、福音書の物語の文脈の中で受けとめ直してまいりますと、ある一大事を背景にしているのが分かります。それは洗礼者ヨハネの逮捕。そしてイエス・キリストもその報せを聞いて、故郷のあるガリラヤに退かれた、とあります。しかしながらヘロデの追手を警戒してでしょうか、人の子イエスは、ヨハネと連座しての逮捕を免れようとするかのように、ガリラヤ湖湖畔の町カファルナウムにひとまず伝道の足場を設けます。『マタイによる福音書』の書き手はこの緊迫した状況の中で『イザヤ書』9章1~2章を大胆に再解釈して記します。新共同訳『イザヤ書』では次の通りです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが『マタイによる福音書』では「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者には光が射し込んだ」となります。『イザヤ書』にある文言にイエス・キリストが伝道の足場を設けた場所が記され、そこに大きな光が射し込むとされるのです。イエス・キリストが洗礼者ヨハネの身柄拘束の後に設けた活動の拠点とは「ヨルダン川の彼方」、「異邦人のガリラヤ」、そして「暗闇」。なるほどその時代には誰からも注目されないこの場所は、クリスマス物語に登場するヘロデ王の息子ヘロデ・アンティパスの追手から身を隠すにはもってこいの場所でしょうし、エルサレムを聖なる都として奉る人々にとってすればまさに盲点とも呼べる、決してその時代のユダヤ教徒からすればあえて足を踏み込みたいとは思わず、またローマの兵士やギリシア人といった異邦人にとっても、そこに暮らす人は豊かではなく、決して開明的でもありませんから別段関心も惹きません。「異邦人の町ガリラヤ」とは二重の意味が込められていると考えられます。それはその時代のユダヤ人から見たところの、文字通り異国の人という意味での異邦人という意味と、時に混血として蔑まれてきたサマリア人もその場に行き来していたという意味にもとれるからです。訪ねたところで何のメリットのないところ。語弊を恐れずに言うならばその時代の吹きだまりのような町であると蔑まれたとしてもおかしくありません。しかし、その町からイエス・キリストの働きが始まります。だから大切だとはいえないでしょうか。
洗礼者ヨハネの活動の場は荒れ野でした。洗礼者ヨハネはエルサレムを中心とした都市を「穢れたところ」と見なしていたようで、その限り、聖・俗というはっきりした境界線を設けています。しかしイエス・キリストが救い主のわざを始めたところでは、事はそのように単純には済まないグレーゾーンにうごめく人々が少なからずいたのです。
ヨルダン川で清めの洗礼を授けるヨハネのもとを訪ねることもできず、自分が何者であるかという問いすらも浮かばない無名の人々。その人々にイエス・キリストは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語りかけるのです。語りかける言葉が洗礼者ヨハネと異なるのは、語りかける相手が全く異なる点です。身動きがとれない相手に語りかける「悔い改め」とは、悪い行いを改めるのでは断じてなく「あなたの頭をあげなさい」という愛の励ましに満ちた言葉です。「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」とはまさしくそのような文脈の中で本来の力を宿すのではないでしょうか。「悔い改めよ、天の国は近づいた」。それは「悲しむ人々が慰められ」「柔和な人々が地を受け継ぎ」「義に飢え乾く者が満たされ」「憐み深い人々が憐みを受け」「心の清い人々が神を仰ぎ」「平和を実現する人々が神の子と呼ばれ」「義のために迫害される人々が天の国を授かる」だけでなく、これら全ての人々がイエス・キリストから「幸い」であると呼ばれ、祝福に満ちた交わりと不可分にされる出来事を示します。そして、わたしたちが常日頃口ずさむ主の祈りが聞き届けられ、その約束が完成する時でもあります。洗礼者ヨハネは捕えられた獄中から弟子を遣わし「来るべき方はあなたですか」とイエス・キリストに尋ねました。それはまことに切実な問いではありましたが、ヨハネをも主の平安に導く答えがすでに備えていました。洗礼者ヨハネに託されたいのちの光の束は、今ようやく救い主へと渡されたのであります。混乱を極める今の時代、暮らしは勿論のこと、教会も新たにされていきます。そのただ中で、次の世代へといのちの光の束は、ときに悔い改めを促す諸刃の剣として問いを発しながら、わたしたちの楽しみとなるのです。
2021年1月13日水曜日
2020年1月17日(日) 説教 (在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝は行いません。)
降誕節第4主日礼拝
-緊急事態宣言発出中のため在宅礼拝となります-
説教=「キリストにしたがう」
稲山聖修 牧師
聖書=マタイによる福音書 4章18~22
(新約聖書(新共同訳)5ページ)
讃美=243, 308, 540.
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沖に漕ぎ出して漁をする。文章にすれば造作もなく思えるこのわざ、本来はかなりの熟練さを求められる仕事です。うまく水面に広がるように網を打つ。網にかかるのは魚ばかりではありません。湖底に沈んだ木の枝をはじめ、様々な余計なものが引っかかってまいります。場合によれば、網がほつれてしまうということもあったでしょう。また福音書の物語の中では、弟子と主イエスを載せた舟がガリラヤ湖で突風に見舞われるという話が描かれます。秋から冬にかけて最も頻繁に吹くと呼ばれるこの風は、小舟を転覆させるにあたり充分すぎるほどの威力をもちます。長年の経験と勘を頼りに舵の操り方や潮の流れ、風の読み方を知り、親子何代にもわたって続けてきた稼業でなければ、聖書の舞台の漁はつとまりませんでした。 しかしそのような経験と勘を頼りにし、場合に拠ればいのちがけの生業も、時を置くにつれて暮しを豊かにする稼業としては成り立たなくなってまいります。「すべての道はローマに通ず」とありますように、ローマ帝国の世界支配は地中海を囲む物流ルートが完成したことになります。つまり、湖は漁場というよりは水運に臨む水路としての役目を担うようになりました。
ところでローマ市民の食卓に並ぶ珍品に較べれば、漁師の収入は全くとるに足りない額だと思われます。僅かな種類の魚の干物が酒宴の珍味としてもてはやされはしたものの、殆どが現金化のためというより、物々交換に近いやりとりも含めた上での生計です。けれども漁師たちにはローマの数字を用いて計算するよりも、きっと命がけでの漁りそのものに生き甲斐を感じていたことでしょう。計算外の世界にぶつかっていくからこそ、想像を超えた喜びを得られます。古代の人々には湖にも海にもそれほどの区別は要りません。家中総出での仕事に労苦の差もありません。
だからこそ、それまでの生き甲斐となる生業を神に委ねてキリストにしたがうのには、今の仕事は割に遭わないからという否定の理屈では到底なしえない決断です。イエス・キリストの招き。それは唐突に訪れます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。前触れも打診もない、突然の出会い。それは再現不可能なただ一回の出来事です。いのちの出会いの中で生き、いのちをいただいて生きる漁師。いったいなぜキリストが招いたのか、その場では決してその秘密は明かされないはずでした。
しかし、その理由はその直後の言葉にすでに記されています。「二人はすぐに網を捨てて従った」。この「すぐに」という言葉には、何の打算も目論見も見出すことはできません。魚を見つけた漁師が戸惑うことなくその影を負うように、二人は生き方を大きく転換してしまうのです。軽率だとの誹りを免れないかもしれないその転換が、シモンとその兄弟アンデレを始めとし、次いでゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにまで及びます。「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしていた」。イエス・キリストが二人を招くと、この兄弟二人もすぐに「舟と父親を残してイエスに従った」と続きます。
わたしたちはこの箇所で励ましというよりは大きな躓きを覚えます。舟はどうなるのか、父親はどうなるのかという問いかけがその躓きです。キリストにしたがうとは、軽々しくも家族を捨ててその場から逃げ去ることなのか?世捨て人になることなのか?答えは否であります。『マルコによる福音書』1章29節では、熱を出して寝込んでいたシモンのしゅうとめを癒すために、キリストはそのそばへと歩みます。舟を置いて出かけた弟子もともにいます。世にいう出家がキリストにしたがうことなのであれば、このような物語は記されないはずです。人の設けた聖も俗も新約聖書の世界ではキリストの行く手を阻むことはできません。やがて弟子たちは、キリストにしたがう中で大きな挫折をし、十字架へと向かうキリストから離れるという目も当てられない醜態をさらすこととなります。その醜態の中から立ちあがり、人の子イエスにしたがう道から、復活のキリストにしたがう道へと繋がります。この反復がわたしたちには問われています。「すぐに網を捨てて従う」他になかった漁師たちに及んだ招きだからこそ、その問いかけは誰にも明らかです。
二度目の緊急事態宣言発出という時代の中で、わたしたちは混乱の中でイエス・キリストからの招きを受けているかもしれません。弟子たちにはその行く手は決して分かっていませんでした。培った経験値も棚上げしなくてはなりませんでした。しかしこの「したがった」という事実はいつまでも残ります。その経験をかけがえのない財産として積み重ねて新たな道を開き、発見を宝にいたしましょう。朝の来ない夜がないように、主のいない夜もないのです。
-緊急事態宣言発出中のため在宅礼拝となります-
説教=「キリストにしたがう」
稲山聖修 牧師
聖書=マタイによる福音書 4章18~22
(新約聖書(新共同訳)5ページ)
讃美=243, 308, 540.
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沖に漕ぎ出して漁をする。文章にすれば造作もなく思えるこのわざ、本来はかなりの熟練さを求められる仕事です。うまく水面に広がるように網を打つ。網にかかるのは魚ばかりではありません。湖底に沈んだ木の枝をはじめ、様々な余計なものが引っかかってまいります。場合によれば、網がほつれてしまうということもあったでしょう。また福音書の物語の中では、弟子と主イエスを載せた舟がガリラヤ湖で突風に見舞われるという話が描かれます。秋から冬にかけて最も頻繁に吹くと呼ばれるこの風は、小舟を転覆させるにあたり充分すぎるほどの威力をもちます。長年の経験と勘を頼りに舵の操り方や潮の流れ、風の読み方を知り、親子何代にもわたって続けてきた稼業でなければ、聖書の舞台の漁はつとまりませんでした。 しかしそのような経験と勘を頼りにし、場合に拠ればいのちがけの生業も、時を置くにつれて暮しを豊かにする稼業としては成り立たなくなってまいります。「すべての道はローマに通ず」とありますように、ローマ帝国の世界支配は地中海を囲む物流ルートが完成したことになります。つまり、湖は漁場というよりは水運に臨む水路としての役目を担うようになりました。
ところでローマ市民の食卓に並ぶ珍品に較べれば、漁師の収入は全くとるに足りない額だと思われます。僅かな種類の魚の干物が酒宴の珍味としてもてはやされはしたものの、殆どが現金化のためというより、物々交換に近いやりとりも含めた上での生計です。けれども漁師たちにはローマの数字を用いて計算するよりも、きっと命がけでの漁りそのものに生き甲斐を感じていたことでしょう。計算外の世界にぶつかっていくからこそ、想像を超えた喜びを得られます。古代の人々には湖にも海にもそれほどの区別は要りません。家中総出での仕事に労苦の差もありません。
だからこそ、それまでの生き甲斐となる生業を神に委ねてキリストにしたがうのには、今の仕事は割に遭わないからという否定の理屈では到底なしえない決断です。イエス・キリストの招き。それは唐突に訪れます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。前触れも打診もない、突然の出会い。それは再現不可能なただ一回の出来事です。いのちの出会いの中で生き、いのちをいただいて生きる漁師。いったいなぜキリストが招いたのか、その場では決してその秘密は明かされないはずでした。
しかし、その理由はその直後の言葉にすでに記されています。「二人はすぐに網を捨てて従った」。この「すぐに」という言葉には、何の打算も目論見も見出すことはできません。魚を見つけた漁師が戸惑うことなくその影を負うように、二人は生き方を大きく転換してしまうのです。軽率だとの誹りを免れないかもしれないその転換が、シモンとその兄弟アンデレを始めとし、次いでゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにまで及びます。「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしていた」。イエス・キリストが二人を招くと、この兄弟二人もすぐに「舟と父親を残してイエスに従った」と続きます。
わたしたちはこの箇所で励ましというよりは大きな躓きを覚えます。舟はどうなるのか、父親はどうなるのかという問いかけがその躓きです。キリストにしたがうとは、軽々しくも家族を捨ててその場から逃げ去ることなのか?世捨て人になることなのか?答えは否であります。『マルコによる福音書』1章29節では、熱を出して寝込んでいたシモンのしゅうとめを癒すために、キリストはそのそばへと歩みます。舟を置いて出かけた弟子もともにいます。世にいう出家がキリストにしたがうことなのであれば、このような物語は記されないはずです。人の設けた聖も俗も新約聖書の世界ではキリストの行く手を阻むことはできません。やがて弟子たちは、キリストにしたがう中で大きな挫折をし、十字架へと向かうキリストから離れるという目も当てられない醜態をさらすこととなります。その醜態の中から立ちあがり、人の子イエスにしたがう道から、復活のキリストにしたがう道へと繋がります。この反復がわたしたちには問われています。「すぐに網を捨てて従う」他になかった漁師たちに及んだ招きだからこそ、その問いかけは誰にも明らかです。
二度目の緊急事態宣言発出という時代の中で、わたしたちは混乱の中でイエス・キリストからの招きを受けているかもしれません。弟子たちにはその行く手は決して分かっていませんでした。培った経験値も棚上げしなくてはなりませんでした。しかしこの「したがった」という事実はいつまでも残ります。その経験をかけがえのない財産として積み重ねて新たな道を開き、発見を宝にいたしましょう。朝の来ない夜がないように、主のいない夜もないのです。
2021年1月7日木曜日
2021年1月10日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)
「世の穢れを身にまとうキリスト」
説教=稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書3章13~17節
(新約聖書4ページ)
讃美=121(1), 461(1), 270(1), 540.
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聖書=マタイによる福音書3章13~17節
(新約聖書4ページ)
讃美=121(1), 461(1), 270(1), 540.
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かつて目にしたホームレスの人々の姿が次第に消える一方、逆に「ネットカフェ難民」と呼ばれる若者が増え、閉店が続けば若年層の方々が寝泊まりの場所を求め行政や民間の相談口へ向かいます。この三十年、大阪市のあいりん地区、通称「釜ヶ崎」の様子も変わりつつあるのが分かります。ドヤ街が撤去された跡にホテルが建てられたり、露天では敢えて横になれないように手摺のあるベンチが作られたりする中で、自分が泊まる場所を失うとはと、この数ヶ月で思い詰めた方々は多いことでしょう。同年代や歳下の方々が路上で寝泊まりする話も聞くだけで胸が痛みます。
かつては目に見えた貧困や格差の問題が、今となっては実に見えづらくなっています。単なる経済的な貧しさだけでなしに、行政の支援をどのように受けたらよいのかという知識のありやなしや、または生育歴による深い心の傷のありやなしや。お話を聞くと決して一筋縄ではなく、決して上から目線で論じ扱うことはできません。ただ少なくともこのコロナ禍の中で、例年であれば届けられていた支援物資も、普段にも増して行き届いていないのが実情です。生活苦や貧困の課題は、ある都市の一区画という特定の場から、わたしたちの身近なところへと拡散しています。
もし洗礼者ヨハネがその場に居合わせたのであれば、いったいどのような眼差しをわたしたちに向けるというのでしょうか。本日の聖書の箇所に先んじて、洗礼者ヨハネはエルサレムとユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯から来て罪を告白した人々に洗礼を受けていた、と『マタイによる福音書』にはあります。新約聖書の物語の舞台では、今のわたしたち以上に人々の暮らしには霧が重苦しく立ち込めていました。その最中で人々は、日々の糧に留まらず、人としてのありようを確かめようともがいていました。世にあって生きる。これだけでもわたしたちには決してきれいごとではすまない重大事です。だからこそ人々は、洗礼者ヨハネを訪ねてはさまざまな過ちだけでなく、生きづらさを吐露しては赦しを乞い、不透明ではありながらも生きていかなくてはならない各々の場所へと戻っていったのではないでしょうか。
大人になるということ。それはどういうことでしょうか。身なりや立ち振る舞いを折り目正しくするということでしょうか。それとも暮らしを経済的に自立させて、自己責任の名の下にあゆみ始めるということでしょうか。確かにそうしたことも侮れませんが、実のところ、わたしたちは必ず誰かとの関わりと支えなしに生きてはいけません。助けを求めなくてはならない場面も出てきます。何でもできるという幼い万能感を脱ぎ捨てて、これしかできないという呟きと祈りの中で少しでも何かの役に立つならばと願うのです。そのただ中にイエス・キリストも立っていました。洗礼者ヨハネは驚愕します。この群れの中には名もなき人々だけでなく、人々を上から目線で裁いていた律法学者や祭司長たちもいました。なぜイエス・キリストがその群れの中にい給うのか。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。洗礼者ヨハネが授ける洗礼とは清めの洗礼です。ヨハネのもとに集まった人々は、病であれ過去の負い目であれ、どうしようもなく自らに重くのしかかる課題を、時として「穢れ」として受けとめていました。その群れのただ中に、イエス・キリストも立ち、連帯されていました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」。
キリストのこの言葉を聴きながら、わたしたちはクリスマス物語に立ち返ります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は『インマヌエル』と呼ばれる。この名は「神が我々とともにおられる」という意味である、との一節です。「神が我々とともにおられる」とは何とも心強く響きます。けれどもその一方で、「我々とともにおられる神」と呼ばれる救い主は、洗礼者ヨハネのもとに集まり、清めの洗礼を待ち続ける群れなす人々に象徴される世のただ中におられます。教会の内側も外側も、目にする限りでは人の集まりであり、時に見る限りではどこにイエス・キリストがい給うのか見極めがたいところがあります。洗礼者ヨハネは救い主に出会って初めてその人に気がつきます。イエス・キリストは、ヨハネのもとに集った人々と寸分違わない仕方で水による洗礼を授かりました。その時に初めて洗礼者ヨハネにも、そしてこの物語に触れるわたしたちにも「神の霊が鳩のように」、則ち主の平安をもたらす神の愛が救い主にまことに力強く注がれているのに気づかされます。それはわたしたちにも及ぶ神の愛の力です。
混迷の時、わたしたちの眼差しはどこに向かうのでしょうか。自分だけの視界で見える世界に囚われますと、世の動きの見極めすら覚束なくなります。神の愛の力が注がれた天をともに仰ぎましょう。天はどこまでも広がり繋がっています。そしてわたしたちと同じ衣をまとったキリストを通して、ますます成熟した判断力を祈り求めましょう。
かつては目に見えた貧困や格差の問題が、今となっては実に見えづらくなっています。単なる経済的な貧しさだけでなしに、行政の支援をどのように受けたらよいのかという知識のありやなしや、または生育歴による深い心の傷のありやなしや。お話を聞くと決して一筋縄ではなく、決して上から目線で論じ扱うことはできません。ただ少なくともこのコロナ禍の中で、例年であれば届けられていた支援物資も、普段にも増して行き届いていないのが実情です。生活苦や貧困の課題は、ある都市の一区画という特定の場から、わたしたちの身近なところへと拡散しています。
もし洗礼者ヨハネがその場に居合わせたのであれば、いったいどのような眼差しをわたしたちに向けるというのでしょうか。本日の聖書の箇所に先んじて、洗礼者ヨハネはエルサレムとユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯から来て罪を告白した人々に洗礼を受けていた、と『マタイによる福音書』にはあります。新約聖書の物語の舞台では、今のわたしたち以上に人々の暮らしには霧が重苦しく立ち込めていました。その最中で人々は、日々の糧に留まらず、人としてのありようを確かめようともがいていました。世にあって生きる。これだけでもわたしたちには決してきれいごとではすまない重大事です。だからこそ人々は、洗礼者ヨハネを訪ねてはさまざまな過ちだけでなく、生きづらさを吐露しては赦しを乞い、不透明ではありながらも生きていかなくてはならない各々の場所へと戻っていったのではないでしょうか。
大人になるということ。それはどういうことでしょうか。身なりや立ち振る舞いを折り目正しくするということでしょうか。それとも暮らしを経済的に自立させて、自己責任の名の下にあゆみ始めるということでしょうか。確かにそうしたことも侮れませんが、実のところ、わたしたちは必ず誰かとの関わりと支えなしに生きてはいけません。助けを求めなくてはならない場面も出てきます。何でもできるという幼い万能感を脱ぎ捨てて、これしかできないという呟きと祈りの中で少しでも何かの役に立つならばと願うのです。そのただ中にイエス・キリストも立っていました。洗礼者ヨハネは驚愕します。この群れの中には名もなき人々だけでなく、人々を上から目線で裁いていた律法学者や祭司長たちもいました。なぜイエス・キリストがその群れの中にい給うのか。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。洗礼者ヨハネが授ける洗礼とは清めの洗礼です。ヨハネのもとに集まった人々は、病であれ過去の負い目であれ、どうしようもなく自らに重くのしかかる課題を、時として「穢れ」として受けとめていました。その群れのただ中に、イエス・キリストも立ち、連帯されていました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」。
キリストのこの言葉を聴きながら、わたしたちはクリスマス物語に立ち返ります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は『インマヌエル』と呼ばれる。この名は「神が我々とともにおられる」という意味である、との一節です。「神が我々とともにおられる」とは何とも心強く響きます。けれどもその一方で、「我々とともにおられる神」と呼ばれる救い主は、洗礼者ヨハネのもとに集まり、清めの洗礼を待ち続ける群れなす人々に象徴される世のただ中におられます。教会の内側も外側も、目にする限りでは人の集まりであり、時に見る限りではどこにイエス・キリストがい給うのか見極めがたいところがあります。洗礼者ヨハネは救い主に出会って初めてその人に気がつきます。イエス・キリストは、ヨハネのもとに集った人々と寸分違わない仕方で水による洗礼を授かりました。その時に初めて洗礼者ヨハネにも、そしてこの物語に触れるわたしたちにも「神の霊が鳩のように」、則ち主の平安をもたらす神の愛が救い主にまことに力強く注がれているのに気づかされます。それはわたしたちにも及ぶ神の愛の力です。
混迷の時、わたしたちの眼差しはどこに向かうのでしょうか。自分だけの視界で見える世界に囚われますと、世の動きの見極めすら覚束なくなります。神の愛の力が注がれた天をともに仰ぎましょう。天はどこまでも広がり繋がっています。そしてわたしたちと同じ衣をまとったキリストを通して、ますます成熟した判断力を祈り求めましょう。
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