2020年9月24日木曜日

2020年9月27日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「追いかけてくるイエスの愛」
『ヨハネによる福音書』10章22~30節
説教:稲山聖修牧師

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「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。『ヨハネによる福音書』10章7節は聖書の言葉の中でもよく知られています。ところで羊飼いと申しますと、羊の群れを導くために羊飼いは常にその先頭に立つ構図で描かれている絵画が少なくないのですが、羊飼いの働きとは実際のところどのようなものなのでしょうか。

 羊飼いを英語で綴ればShepherdとなります。特定の犬種に限らず牧羊犬の場合でもこの名が用いられます。牧羊犬を用いて羊飼いが羊の群れを導く場合にどのような動きをするかと申しますと、絶えず群れの回りを走り回り、時には群れの行く手を遮りながら、羊飼いの目指すところへと導こうとするのです。

 『ヨハネによる福音書』10章ではイエス・キリストは自らを羊飼いに重ねて論じるところが多いからこそ、実際の羊飼いの動きに思いを馳せてみたいのですが、時に羊飼いは、羊の群れが自ずから進もうとする行く手を阻むこともあるところには目を注がなくてはならないでしょう。羊飼いが羊の群れを阻むとき、また牧羊犬を用いて遮ろうとするとき、羊の群れと羊飼いは決して同じ方向を見てはおりません。牧羊犬は嗅覚と聴覚、羊飼いは研ぎ澄まされた視力で、羊の群れのかたちを整えてまいります。そこには絶えず群れの行く手に目を注ぎ続ける「牧歌的」という言葉からはほど遠い働きがあります。言わんや、イエス・キリストは自らを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と仰せなのですから、イエス・キリスト御自身にしか見えない視野をわたしたちは歩むほかないわけであります。これはイエス・キリストに絶大な信頼を置くと同時に、大きな戸惑いをももたらします。イエス・キリストの導く先が分からない場合、わたしたちはおいしそうに見える足下の草に気をとられてしまうからです。

 本日の聖書の箇所では、足下の草地に気をとられ、導かれる行く手を見失ってしまった人々の声がまず記されます。季節は冬。冬のエルサレムには雪も降ることもありますが、それは春が近づけばの話。からからに乾燥する中で迎える冬の寒さは身に堪えるところです。身体を刺すような空っ風の中で、描かれる人々は答えが欲しいのです。今すぐ分かる答えが欲しいのです。「良い羊飼い」に開かれている展望を尋ねようとする余り、いつのまにかそれが苛立ちと憎しみになってしまうのです。「いつまで、わたしたちに気を揉ませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。もし羊飼いに従う羊であるならば、このような激情に駆られて羊飼いに迫るとは考えられません。人々がイエスに望むメシアとは単に願いを叶えてくれるだけの「自分に都合のよいメシア」に他なりません。人々は足下に生える草を食べさせてくれればよく、遠方を見渡しながら道を拓く必要などありません。けれども羊飼いに従わない羊たちがその所行を続けるのであれば危険を察知することも、牧草地が荒れ果ててしまうことも知らないままに捨て置かれる結果に繋がりかねないのです。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なうわざが、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う・・・」。この言葉に激昂したユダヤ人たちはあろうことか神殿の境内でイエスの殺害を試みます。しかしイエス・キリストは彼らの手を逃れて、去って行かれたと、後の箇所には記されます。

 本日わたしたちは、この箇所で捨ておかれてしまったかのように思える羊の群れに重ねられた人々の姿を思い起します。なぜイエス・キリストを殺害しようとしたのか。救い主に向けられた苛立ちと憎しみに、頑なな羊の姿が見え隠れします。しかしこの群れもまた「羊のためにいのちを捨てる良い羊飼い」の姿を十字架に仰ぐこととなります。そして復活したイエス・キリストに示された神の愛に追われて、それこそ牧羊犬に追われるかのように、足下の草むらよりももっと大切ないのちの源へと導いてくださります。よい羊飼いは羊たちの頭を強引に押さえつけ、下げさせるのではなくて、その場で羊の軛を外して顔を上げさせるのではないでしょうか。そのためにはたとえ人の設けた行く手を遮ってでも、イエス・キリストはわたしたちに道を示してくださるに違いありません。コロナ禍の中、存立の危機に直面している教会は少なくありません。だからこそわたしたちは教会のありようを公正に問うことができるのであり、それはわたしたち各々が暮らしの根をどこに降ろしているのかを確かめるわざに繋がります。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びない」。イエスの愛に追いかけられる。それは同時に、恐怖や不安、憎しみから解放されることをも意味します。聖書の言葉に尋ねながら「良い羊飼い」に従ってまいりましょう。


2020年9月17日木曜日

2020年9月20日(日) 長寿感謝の日礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「羊飼いイエスの声を聴き続けて」
『ヨハネによる福音書』10章1~6節 
説教:稲山聖修牧師

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 わたくしどもの教会では敬老の日のある週の始まりとなる聖日礼拝に「長寿感謝の日礼拝」を献げております。この「長寿感謝」という言葉には何重もの意味が重ねられております。いわゆる「敬老の日」に含まれる、健康が守られてご長寿をお祝いするという意味に加えて、人生の経験を土台としながらも単なる人生経験とは似て非なる、いや全く異質であるイエス・キリストとの出会いを重ねてこられたことへの感謝、そしてこの世の波風、歴史の激流の中でイエス・キリストを見つめて歩んでこられたことにより、スローガンとしてではなく物静かでありながらも堅実な証しとして後に続く者のキリストに従う道を開拓してくださった働きへの感謝の思いであります。「御礼を言われることなどしてません」と呟く方ほど実りは豊かであって、数多の困難をキリストを羅針盤にして乗り越えてこられた歩みに触れて、わたしたちは己のいたらなさと未熟さを静かに感じ入ります。
 
 本日の聖書の箇所、『ヨハネによる福音書』10章1節〜6節までには次のような記事が記されます。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。わたしたちは概して羊は導き手がいなければ群れをまとめることができずまとまりを欠き、狼などの餌食になってしまう家畜であるとその愚かさを強調して聖書を読み込みがちなのですが、本日の箇所では決してそのようには描かれてはおりません。羊は羊飼いの声を聞き分けるとあり、さらに羊飼いは羊一匹一匹を名前で呼ぶというのです。耳たぶにタグ付されたコード番号でもなく「あの羊、この羊」という曖昧な表現でもなく、名をつけてその名を呼ぶとは、一匹一匹にその羊ならではの関係性が成り立っているのだと言えましょう。極限まで効率化された酪農の場合、例えばヨーロッパの場合、牛は鉄パイプに縛りつけられ胃瘻で餌を流し込まれ機械のように扱われる場合もあります。そのようなあり方とは正反対の姿がこの羊には重なります。羊たちが羊飼いを信頼するからこそ羊飼いはその役目を全うできることとなります。それでは強盗や盗人が羊の囲いに入った来た場合にはどうなるというのでしょうか。羊は盗人や強盗に連れ去られるのでしょうか。決してそうではありません。「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者の声を知らないからである」。つまり「逃げ去る」という仕方で抵抗の余地が残されているのです。
 牧師もまたイエス・キリストを前にしては数多の羊の一匹であると同時に羊飼いとしての役割を授かっております。ただし羊飼いにも種々様々な者がおります。旧約聖書、とくに『ゼカリヤ書』では「よい羊飼い」と「悪い羊飼い」という区分けをします。とくに預言者の書で「悪い羊飼い」として扱われるのは『エゼキエル書』34章ではこう記されます。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は羊を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりとなった」。羊は盗人の声を聞き分けることができました。強盗の声も聞き分けることもできました。しかし力尽くで支配しようとする「悪い羊飼い」のもとでは仮に逃げ果せられたとしても、その後にたどった道は過酷でした。だからこそ『エゼキエル書』ではその過酷な道のりの果てに神自らが羊飼いとなって養うと語り、『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリスト自らが「わたしは羊の門」「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」とあるのです。主なる神はわたしたちを決してうち捨てられたままにはされません。
 2020年度には5名の兄弟姉妹が長寿感謝式にあって主なる神より祝福を授かり、18名の方々がその列に加わります。本物の羊飼いの声を聴き続けてきた腹を括った方々の証しがあります。この間、戦争があり、引揚があり、廃墟からの復興があり、数多の出会いと別れがあり、経済成長を支えながらも、それに伴う世の常識の流転がありました。そして東日本大震災と新型コロナウィルス感染症の影響によって大きく変わる今の世があります。その中でご自身やご家族にもその波を受けながら羊飼いの声の真贋を聞き分け、進む道筋を違わなかった方々の歩みがあります。組織としての教会への帰属意識や時の長さだけではこの歩みは不可能です。イエス・キリストとの出会い、祈る中での神の愛への全幅の信頼。今日の祝福を目の前にしたわたしたちは、その歩みに続こうと思いを新たにするのです。

2020年9月11日金曜日

2020年9月13日(日) 説教メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「真理はあなたたちを自由にする」
『ヨハネによる福音書』8章31~36節
説教:稲山聖修牧師

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台風が過ぎ、風もそれほど強くは吹かないだろうとの見立ての中、敢えて雨戸を閉めずに布団に横たわります。朝日が差し込むか、それとも目覚ましのアラームが鳴るかして目覚めます。朝の光を浴びれば目覚めずにはおれません。そんな当たり前のように思える朝ですが、考えてみれば何億年もの昔から繰り返されてきたリズムでもあります。冬になれば日の出前に目覚めますが、冬は冬で明けの明星が泉北ニュータウンではひときわ明るく輝きます。これもまたわたしたちのいのちのリズムでもあります。

いのちに基づかない真理は、聖書の中では描かれません。いのちと関わりのない真理と申しますのは、わたしたちとは無縁であります。神ご自身が真理であるといったとき、わたしたちにどのように向き合っておられるのか、それがわたしたちにとって大切な真理となります。それでは「真理はあなたたちを自由にする」と言ったとき、それはわたしたちとどのように関わっているというのでしょうか。ときに真理という言葉は、わたしたちの日常では荒唐無稽であるだけでなく、暮らしの安寧を脅かしかねないものとして遠ざけられもします。旧約聖書では神の顔を直接仰いだ者や十戒を刻んだ箱に触れた者は死んでしまいます。嘘をつけない人が馬鹿をみる、まっすぐに生きようとすれば出る杭となる、あるいは相手に失礼を働いたということで絶縁されてしまう。銀行員が組織の不正を暴くドラマが盛り上がってはいるけれど、もし同じことをしてみたらその人は失職するに違いありません。お役所でも正しさを大切にする思いを重んじていれば、やがて心が蝕まれ自死に追いつめられいく。真理がそのようなものであるならば、わたしたちはむしろ嘘の世界に身を委ねていたいと思うのです。安寧を貪りたいと思うのです。その時の状況次第で勝ち馬に乗ってゆけば幸せになれるだろう、その嘘を敢えて呑み込みながら生きていくことが大人のあり方だと思っています。それが現実だと思っているのです。

けれども聖書のメッセージはそのようなありかたに「本当にそれでよいのか」と問いかけます。『マタイによる福音書』10章では「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。神の前には真理との関わりで公正さが求められます。それは杓子定規なものではなくて、互いが尊敬し合える関わりをもたらす公正さです。『ルカによる福音書』では「不正な管理人の譬え」の小見出しのもと、財産を無駄遣いしているとの告げ口を聞いて会計の報告の提出を迫る主人を前にして管理人はいつ解雇されても構わないように主人に借りのある者を一人ひとり呼んで借入の証文に手を加えます。万一失業しても自分を家に迎え入れる友人をつくるためです。「油百パトス」を「五十パトス」に、「小麦百コロス」を「八十コロス」に、という具合です。管理人の行いは杓子定規に見れば明らかに不正なのですが、借入として計上されているのが現金ではなく油であったり小麦であったりするのがポイントです。いずれも経年劣化するものであり、結果として管理人が手を入れた数値は劣化した品目として相応であるという可能性も出てまいります。減価償却という考え方はわたしたちには身近です。むしろ管理人の知恵は、主人の振る舞いとして公けにされその信頼度を高めていくところにつながります。神の真理は交わりをもたらします。恐怖や不安の軛から解放します。しかしこの発想は杓子定規な考え方にはまり込んでいる人々に理解されたでしょうか。おそらくそうではなかったからこそこのイエス・キリストによる譬えが福音書に記された可能性もあります。

「真理はあなたがたがを自由にする」。『ヨハネによる福音書』のこの言葉は「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」との『マタイによる福音書』の言葉と不可分です。わたしたちが恐れているのは何事でありましょうか。新型コロナウイルスによる感染症でしょうか。それともその感染が発症した場合に被るところの様々な中傷でしょうか。「幻なき民は滅ぶ」と旧約聖書『箴言』29章にあります。さまざまな恐れは現実としてそこかしこにあるのは周知のとおりですが、わたしたちが囚われるべきは恐れではなく、喜びと自由をもたらす神の真理です。神の真理に根ざした現実こそが、わたしたちの現実であり、移ろいゆくこの世の、一人ひとり異なる現実を教会に滑り込ませてはわたしたちは身動きがとれなくなります。それは天空のリズム、いのちのリズムから離れた枷と軛以外の何物でもないからです。泉北ニュータウン教会は何よりも神の現実に立つのであり、人の思いに囚われた虚構に立ってきたのではありません。神の公平さに堅く立って、然りには然り、否には否として向き合い、いのちを活かす道を開拓する時が、今まさに来ています。

2020年9月3日木曜日

2020年9月6日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「二人が行なう証しは真実」

『ヨハネによる福音書』8章12~20節

説教:稲山聖修牧師

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 大型旅客機のパイロットの場合、操縦士・副操縦士の二人が操縦桿を握ります。長時間のフライトの場合、食事はそれぞれ別メニュー。片方が万一食中毒になっても別のパイロットが健康体で適正な判断を下すためのしくみです。一国の指導者である大統領もフライトの場合は大統領・副大統領別々の飛行機に搭乗します。航空機事故やテロも想定しての配慮だと言います。

 キリスト教文化圏ではこのような発想の源を聖書に求めます。まずはイエス・キリストが宣教のために遣わす弟子が常に二名であること、その根拠は聖書を辿るならば旧約聖書『申命記』19章15節にある「いかなる犯罪者であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の立証によって、相手の不正を証言する時には、係争中である両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない」という条項です。人間は神の前には常に破れを抱えています。不完全であり、失敗を犯すリスクを抱えています。だからこそ、人生を遮る性格を伴う裁判を行なう場合には、複数の証人がいて初めて正当なものであると見なされるのです。

 新約聖書の場合、イエスが二人一組で弟子に宣教のわざを託して遣わすという場面になりますと、場面は裁判の舞台である法廷で真実を解明するというよりは、イエス・キリストに従い、その教えとわざを広め、交わりを育むために求められるパートナーシップに変容してまいります。それは福音書に記される数々の癒しの奇跡物語が明らかにしているところであり、パウロもまたバルナバという仲間とともに伝道のわざに励んだのでありました。パウロとバルナバは決して「つるんでいた」のではありません。神の証しのわざを立てる必要にして充分なパートナーシップを湛えていたといえるでしょう。神の正しさとは、イエス・キリストに遣わされた交わりとして波紋のように広がっていくのであり、決して独りよがりに、そして個人が振りかざす言葉ばかりの「唯一の正義」には決して留まりません。イエス・キリストが啓示した神は、旧約聖書に記されたところの「主なる神」であります。しかし主なる神の働きかけが愛のわざとして人々に働きかけるとき、人間の側からすれば必ず多様性、つまり多様なスタイルをとる「真実」となります。なぜならばわたしたちが見て取ることのできるのは「真理の断片」に過ぎないからです。神の側からすれば正義はひとつです。しかしわたしたち破れを抱えている人間からすれば、正解は決してひとつではなく多様な姿をとります。三位一体の神という時に分かりづらく響くキリスト教の神理解も、聖書の解き明かしとしては決して疎かにはできない考え方であり、何よりも正解はひとつではないことを証ししているのではないでしょうか。

 それではイエス・キリストのパートナーとは誰であったのでしょうか。これが本日の聖書箇所の肝となる問いかけです。律法学者が問うには「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」。つまりイエス・キリストは極めて独善的な人物として映っているからして、真実ではないとの指摘にいたるのですが、イエス・キリストは答えます。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしは一人ではなく、わたしをお遣わしになった父が共にいるからである」。福音書の物語をたどりますと、わたしたちからすればイエス・キリストは絶えず孤独の中で苦しみつつ祈りを献げていたようですが、今日の聖書の言葉では決してそうではないと語りかけています。イエス・キリストには、父なる神がともにおられる「インマヌエル」の神として描かれているのです。あくまで父なる神との関わりの中で、イエス・キリストはそのわざを成し遂げてゆかれるという救い主の歩みが記されるのです。だからこそ次の言葉が迫ってまいります。すなわち、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。なぜでしょうか。そこには必ず父なる神と御子イエス・キリストとの関わりを土台にした、隣人との交わりが備えられるからであります。その度台に根ざしてこそ、わたしたちの暮しのありよう、即ち、『ヨハネによる福音書』での「肉の欲(考え)」また「人の欲(考え)」と呼ばれる世界もまた祝福されるのです。また同時にその儚さをも神に祝福されたものとして受け入れることができるのです。人の姿しか目に入らない場合、わたしたちは隣人を傷つけ、その内面に土足で足を踏み入れていることに無自覚ですらあり得ます。しかし神と結ばれているキリストを軸とすることで、まことの善悪の分別を体得し他者を活かす知恵を備えられます。しっかりとした足取りで9月の歩みを始めましょう。