『ヨハネによる福音書』15章18~27節
メッセージ:稲山聖修牧師
「言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。『ヨハネによる福音書』1章ではこのように記されます。今朝の箇所とともに『ヨハネによる福音書』では、「世」と神の言(ことば)であるイエス・キリストとの緊張関係と、世の態度に勝る神の愛が記されておりますが、事はそう簡単ではない模様です。
「世」と訳されるギリシア語は「コスモス」です。お花の名前のようですが、ギリシア語では「混沌」(カオス)とは対極にあるところの秩序ある世を意味します。今朝の箇所ではわたしたちの属する「世の倣い」と考えてみてもよいでしょう。もしわたしたちがキリストとの出会いを尊ぶのであれば「コスモスがあなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」とあります。「混沌ではなく、秩序ある世がキリストを憎んでいた」と語るのです。これはどうしたことでしょうか。
なにがしかの仕方で、わたしたちはそれぞれ世に遣わされて持ち場での働きに勤しみますが、聖書ではキリストなしでの「秩序ある世」をもほのめかします。そのような意味での秩序ある世とはどのような社会なのかを考えてみましょう。確かに整然とした秩序でその社会は緻密な時計のように動くことでしょう。その動きを少しでも妨げる存在は許容せず排除します。つまり人間にとって様々な問題が潜むのは、混沌(カオス)だけでなく人の目には正しく秩序づけられたかのように見える秩序ある世(コスモス)もさして変わらないというのです。
難しそうに思える聖書の言葉ですが、身近なところに重ねれば、なるほどと得心せずにはおれない事例があります。新型コロナウィルス感染症に対する対応をめぐって様々な対応が自治体や国から要請が出されました。その中には要請に従わない遊興施設としてパチンコ店がクローズアップされました。放送される編集動画では身勝手なコメントを続ける利用者の姿が映し出されていましたが、他方そのようなパチンコ店でアルバイトをしながら非正規公務員を続ける女性がいます。その人は週5日30時間、DV専門の相談員として勤務します。117,023円が公務員としての月収。娘さんとの二人の暮らしを続けておられます。また公立学校でも任期あり非正規公務員ながらクラス担任を任される教員、10年のキャリアがありながら手取16万円の月収で児童相談所に勤務する臨床心理士がいます。どの働きも尊くかつ人命への責任を伴うものですが権力者は格差により分断をもたらして、わたしたちが見ている秩序(コスモス)に亀裂を生じさせます。わたしたちの理解するコスモスは、いつのまにかどこか歪んだり偏りのある秩序となり、それは得てして自分の感情や不安によっていびつさを帯びていることに気づきません。新型コロナウィルスの感染は確かに避けなくてはなりませんが、同時に新型コロナウイルスの流行があばいた社会や人間の闇もまた劣らず根深いものがあります。その闇の中で損なわれるいのちもあります。秩序ある世(コスモス)と思い込んでいた世界は実はコスモスではなかったのです。
そのような中で荒ぶる人々の誤解や暴力をわたしたちはどのように解きほぐしていけばよいのでしょうか。イエス・キリストは人心の荒廃した世にあって、決して超人的な力を発揮して諸問題を解決した英雄ではありませんでした。むしろ別の人々が浴びるはずの罵声を一身に浴びながら苦難の歩みを辿り、十字架で処刑され、そして復活した救い主でした。キリストは十字架に架けられてそのいのちを折りとられましたが、その傷口からはいのちの光があふれ出て「神の愛に満ちた世(コスモス)」を全身でお示しになりました。
キリストに従うことは「世に憎まれることだ」とイエス・キリストは自ら語ります。だからこそわたしたちは敢えて「折れること」を恐れてはなりません。唯々諾々と不正に従うのではなく、イエス・キリストにあって「折れながら」、苦しむ人々との交わりを深めるのです。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことはない」。『イザヤ書』42章に記されたメシアの働きに耳を傾ける時を、わたしたちは与えられています。大切な人々を思い起しながら一週間を歩み始めたいと願います。