2020年5月21日木曜日

2020年5月24日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用:礼拝堂での礼拝は休止します)

「川のせせらぎの音につつまれて」
『ヨハネによる福音書』7章32~39節
メッセージ:稲山聖修牧師
学生時代の最も楽しく、そして生々しい記憶のひとつに北アルプス縦走があります。友人からの突然の電話を断り切れずも胸躍らせ、上高地から西岳に向かいそこから槍ヶ岳を目指すルートを選びました。本来ならばどうということのないコースなのですが登山道に迷い、本来二時間で済む経路から外れて五時間を要することとなりました。正規のルートから外れ岩場を滑落しては傷だらけになって登り、ようやく西岳頂上に到着。山頂で水筒を空にしたわたしたちは山小屋で、決して安価ではない飲料水を飲みました。持参したレモンもかじりましたが水はおろか普段は酸っぱくて顔をしかめるような果物でさえ甘く感じたのを覚えています。
 本日の聖書の箇所で『ヨハネによる福音書』の書き手がスポットライトをあてるのは、イエスと対峙して論戦を挑むファリサイ派の律法学者ではなく、また政治力を握っていた祭司長でもありません。その命令に従って動く下役という名の下級兵士であります。いうまでもなくこの兵士はイエスを身柄拘束をその目的にしていますが、自分の意志で自分たちの行動を決定する立場にはありません。その点では数が多かろうと少なかろうと、横のつながりと申しますのは実に希薄で、あくまで上からの命令なしには動けない人々です。
 本来ならば場合によればいのちすら奪いかねないようなこの人々に、イエス・キリストは呼びかけます。「今しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。実はこの言葉、最後の晩餐の席でイスカリオテのユダが退席した後、弟子にも語りかけたものとほぼ同じ言葉でもあります。けれども問われるべきはこの言葉が書き記されている物語の状況であり、弟子たちへの言葉が下級の兵士への呼びかけであるとともに、イエス・キリストが祭司長たちの命令によって遣わされている下役の姿に、自らが神から世に遣わされているさまを重ねているというところです。この福音書が訴えているのは、イエス・キリストは下役たちと同じように命令を受けているけれども、それは自分の身柄を捕らえにきた人々にさえ「わたしはあなたたがたと共にいる」と語りかけている態度であり、そして下役たちはあまりにも唐突に思えるその言葉を前にして狼狽えるほかはなすすべを知らなかった、という点です。あたかもそれは、取り替えの効く組織の中の一部品として乾ききっていた心に、神に活かされる人としての潤いが戻るという出来事が今まさに起ころうとしているのを前にしてさえ、その出来事を受け入れることが難しいという物語でもあり、また同時にイエス・キリストの働きかけが、たとえ祭司長らの下役、すなわち一切の自由を放棄して、愛や良心という言葉すら彼方の話でしかないような人々にも向けられていたというメッセージでもあります。この物語に、神の愛がわたしたちにどのように関わり続けているのかを垣間見ることができるというものです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のから生きた水が川となって流れ出るようになる」。この「だれでも」という言葉は、イエス・キリスト自らに剣を向ける人々をもつつみこんでいました。イエス・キリストと関わりをもつのならば、それが何をきっかけにしたとしても必ず神の愛に触れていくということ。つまり自分自身が主体的に人生の歩みを進めていくばかりでなく、さまざまなしがらみの中で身動きがとれなくなっていたとしても、必ず神の力を授かって、その人本来の生き方を、新しい仕方で備えられるのです。アンチ・エイジングという言葉が示すところの、齢を重ねることが潤いをなくすなどという話は聖書にはどこにも記してはいません。むしろ総じて若々しいと言われている年齢であったとしても、そのありかたが頑なであれば、その潤い豊かな泉を見出すことは難しいと記しているようでもあります。涼やかな川のせせらぎにその手を浸すことができるのは、キリストの弟子であろうと祭司の下役でも変わりません。今朝の箇所ではそのような社会的な分断が克服されているのだ、とも言えます。新型コロナウイルスの流行は様々な社会の分断を露わにしています。教会はそのような分断を乗りこえていく交わりを生み出し育むというわざを可能にする場でもあります。少しずつ着実に、新しい体制を整えてまいりましょう。