2019年12月29日日曜日

2019年12月29日(日) 説教

「悲しみを喜びに変える真理」
『マタイによる福音書』2章1~6節
稲山聖修牧師

 救い主の誕生を告げ知らせる星を見つけ、ヘロデ王のもとに参じた賢者たち。王への謁見を許されるだけの学識を備えたこの人々。教会では東方の三博士と呼ぶ場合もあるが、その呼称は乳飲み子イエス・キリストへの献げものが黄金・乳香・没薬の三つに対応した読み込みの結果生じた理解に過ぎず、実際は何名だったのかは分からない。名詞が複数形であり、その性別すらも記されてはいない。
その賢者たちが選んだ道。それは各々の国で授かっていたポストをキリストを世に遣わした神に委ねて、御子イエス生まれた場所を探す道であった。賢者たちはこの旅に全てを賭けている。この旅は、あらかじめ安全が確保された「旅行」ではなく、賢者たちの学識でさえ尊ばれることもない道を行かねばならないというリスクをはらんでいる。けれども賢者たちの関心は定常業務であるところの「観察」に留まるのではなく、「現地へ赴く」という「勇気」を伴っている。飼い葉桶の乳飲み子を通して働く、神の愛である「聖霊の招き」がこの場にも及ぶ。

聖霊の力は、御子の誕生に明らかにされた神の真理によって、世の様々な隠し事や偽りにも踏み込む勇気を人々に与える。ヘロデ王は賢者たちの問いを前にして自分の権威を脅かされる身の危険を感じている。またその時代にエルサレムに住んでいた、民衆の目の届かないところでローマ帝国の飼い犬となり地位を保っていた人々もまた不安を抱く。しかし「民の祭司長たちや律法学者たち」は、言葉の率直さを踏まえれば、全く違う表情をしていたことが分かる。例えばヘロデ王が問い質したのは「どこに生まれることになっているのか」という内容。だから答える側としては「ユダヤのベツレヘムです」とさえ応じればそれで済むはずだ。しかし『マタイによる福音書』の書き手は、旧約聖書の預言者の書『ミカ書』5章に手を加えて「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいもの・ではない」と記す。ヘロデ王と、集められた祭司長たちや律法学者たちが、各々異なる方角を向いていた。単なる祭司長たちや律法学者たちではなく、「民の」という修飾語がつき、さらに「皆集めて」とあることから、これもまたヘロデ王が力づくでかき集めた人々であることが分かる。律法学者は聖書の記事に手を加えることで自らの喜びを率直に述べ、ヘロデ王に一矢報いる。預言者の言葉は、神の御旨から離れた権力や人々に対する批判にもなり得るからだ。神の真理を前にしてヘロデはますます追いつめられていく。

しかしわたしたちは東方の訪問者の物語に疑問を抱く。なぜなら『マタイによる福音書』2章16節以下に「さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とあるからだ。東方の賢者たちの訪問がなければ、この子たちは殺されずに済んだのではないかと問う人もいるかもしれない。しかしながら世の権力だけを頼みとする者は、おのれの依って立つところが覆されようとするときには、時に想像もできない残酷さを露わにするものだ。権力が弱者に牙をむく残酷さを『マタイによる福音書』は隠さず書き記す。公文書には決して書き記されない権力者の振る舞いにスポットライトが当たる。かような所行に及んだヘロデ王には、もはや王たる資格はない。だからもはやこの物語で律法学者の発言の後、福音書の書き手はヘロデ王とは記さず、単に「ヘロデ」と語るだけだ。神の御旨を顧みない王から、神はその力を剥奪され、飼い葉桶に眠る乳飲み子にその力を委ねられる。そしてその乳飲み子は、やがてベツレヘムで何の過ちも犯さずに殺害されていったこどもたちの苦しみ、そして親たちの悲しみを背負って、救い主としての道を歩み、そして十字架の上でその悲しみと苦しみを告発する。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。神に見捨てられたと涙するほかない人々を、救い主は放置しない。救い主は文字通りそのような悲しみの中に佇むほかない人々とともに歩まれる。その歩みはやがて復活の光、いのちの光をもって世の民をつつみこむ。神が世に遣われた真理とは、そのように全てのいのちを抑圧から解放し、悲しみを喜びに変える真理だ。主なる神は御子イエス・キリストの真理によってすべてのいのちに新たな息吹をそそがれる。世の課題が白日の下にさらされようとしている今年もやがて終わる。新しい年も神の真理に背を押されて進みたい。



2019年12月22日日曜日

2019年12月22日(日) クリスマス礼拝説教

「世に勝利するいのちの力」
『ルカによる福音書』2章8~21節
説教:稲山聖修牧師

『ルカによる福音書』ならではの特性。それは序文で福音書が成立するまでの経緯、そしてテオフィロという人物に献げられている事実が率直に記されているところにもある。
テオフィロは皇帝に謁見が許されるような立場のローマ帝国の官僚だったと言われる。『ルカによる福音書』の書き手はローマ帝国の支配を否定しない。けれどもその筆が世の力に媚売ることはない。母マリアが救い主を身に宿したその喜びを歌う「マリアの賛歌」では「主はその腕で力を振い、思い上がる者をその座から打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とある。ローマ帝国から人間扱いされなかった人々には喜びの知らせ。
しかし政治権力の中枢におりながら保身に流れがちな人々には身震いせずにはおれない言葉である。『ルカによる福音書』では、イエス・キリストが、その誕生のときからローマ帝国に対する勝利をすでに手に納めているかのような文体で記すところが、同じクリスマス物語でも『マタイによる福音書』とは異なる。『ルカによる福音書』が描き出すのは、世の力であれば、それがローマであろうとエジプトであろうと到底果たすことのできない神の支配が御自身の全き愛に根ざすこと、そしてその神の支配の完成のために、ローマ帝国でさえも「ただの器」として用いることも捨てることもできるという「神の全能」である。

その働きを端的に示すのが本日の箇所。羊飼いたちがそこにいる。救い主のもとに携えてくる贈り物は、その手にはない。それどころか、羊飼いたちは住民登録すら行なわない。ヨセフやマリア、ザカリアやエリザベトには名前があるが、羊飼いたちには名前がないのだ。ローマ帝国という巨大な国家組織においては、人と人とがその名によって呼び合う関わりは稀であった。羊飼いたちは人としてまともに扱われてはいない。しかし、そのような事情の中にあるからこそ、主の天使が真っ先に神の栄光の輝きの中につつみこむのだ。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。「あなたがた」と呼ばれるのは無名の羊飼い。この羊飼いたちが、ローマ帝国の民全体を代表している。天使に語りかけられているのはローマ皇帝でも、ポンテオ・ピラトでも官僚のテオフィロでもない。貴族に天使が現れたところで、いったい誰が受け入れるというのだろうか。

それでは羊飼いたちが出会う救い主はどこにいるのか。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。飼い葉桶の乳飲み子。家畜の餌桶に眠る乳飲み子がメシアであるという。その姿こそが世にお生まれになった救い主の姿である。ローマ皇帝を頂点とし、家畜小屋の餌桶をどん底とする世の力が、今や神への讃美によって一刀両断される。神の愛の圧倒的な力により、羊飼いたちは鎖から解放される。夜通し羊の番をするという過酷で強いられたありようから解き放たれ、喜びあふれ自ら歩みだす羊飼いたち。どのような術をとったのかは一切関心が払われず、羊飼いたちはマリアとヨセフ、そして飼い葉桶の乳飲み子を探しあてる。そして「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。我知らずして羊飼いたちは、救い主の誕生を告げ知らせる宣教のわざを担うにいたった。羊飼いたちは宣教のわざを、乳飲み子に献げている。世の役目を留保してでも、羊飼いは救い主の誕生を証しする。飼い葉桶の乳飲み子を軸にして開かれた垂直線が、人々とのつながりの中で地平線へと延びていく。垂直線と水平線が飼い葉桶の乳飲み子において交わり、それはいつしか十字架のかたちとなる。

「テオフィロさん、あなたはこの喜びを味わったことがありますか。もし知らないのであるならば、わたしたちの交わりに是が非でも加わってください」と語りかける不可能な事柄を可能にする、覚悟と勇気に根ざした喜び。その喜びは今、時を超えてわたしたちにも届いている。イエス・キリストの誕生を心から祝おう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。クリスマスの希望と喜びをひしひしと感じる。

2019年12月15日日曜日

2019年12月15日(日) 説教

「想定外の恵みに救われて」
『ヨハネによる福音書』1章19~24節
説教:稲山聖修牧師


 『ヨハネによる福音書』では、イエス・キリストは神の御子であり、神の言葉であるとの理解に立つ。言葉は全く異なる他者相互の交わりを可能にする、今のところは人間のみに見られる特質だ。互いにへりくだって相手の言葉に耳を澄ますのであれば、言語が異なっていても次第に相手の事情が分かるが、反対に自己主張の衝動に捕われると、同じ言語を用いていても話が噛み合わなくなる。旧約聖書の『創世記』に記された「バベルの街」がよい例である。住民は日干し煉瓦を焼き、新たな煉瓦を発明する。技術革新に伴う人々とは「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」。根拠も必然性もない、右肩上がりの妄想に突如憑りつかれた人々がそこにいる。ともすれば天を超えていこうと勢いづく人々には謙遜さがない。その結果人々は街を造りの最中に互いの言葉に耳を傾けなくなる。主なる神が人のもとに降りてきて呟くには「我々はくだって行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしよう」。その結果、言葉が混乱して意思疎通が不可能になるという物語。そのような人の破れの只中に飛び込んできたのが神の言葉イエス・キリストだ。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。あたかも荒れ野に神を讃美する幕屋が張られるように、人の荒んだありようの中に宿り、修復しがたい神と人との交わりを新たにする。


「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」との箇所が今朝の聖書。『マタイによる福音書』によれば洗礼者ヨハネは「さし迫った神の怒り」を、清めの洗礼を受けに来たファリサイ派やサドカイ派の人々に告げ知らせる。厳密には、イスラエルの民の拠り所を探求したファリサイ派と、エルサレムの神殿を軸として政治的に活動したサドカイ派は、その時代の「ユダヤ教」という大まかな括りには納まらない。ファリサイ派の場合はモーセ五書と、預言者の書物を重んじ復活信仰に立つが、他方でサドカイ派が基とするのはモーセ五書のみ。彼らは復活信仰には立たたない。人々を巻き込むその分裂の責任を逃れたまま、のこのこ清めの洗礼を受けるとは論外だと洗礼者ヨハネは檄を飛ばす。それが今日の箇所では、祭司や神殿に仕えるレビ人も含めてファリサイ派であるとして設定し直されている。救い主を待ち望む態度とこの世を生きる態度との間で彼らにも混乱が生じる。「あなたはあの預言者なのですか」。あの預言者とは、福音書の舞台となる時代に待ち望まれていた預言者エリヤ。洗礼者ヨハネは「そうではない」と返す。使者となった祭司やレビ人は困り果て、「それでは一体、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと思うのですか」。返す言葉は『イザヤ書』40章の「主の道をまっすぐにせよ」との言葉。バビロン捕囚期のただ中で、抑留の身の中で解放の知らせを語った人々の言葉が記されている。これは権威や政治的な力にのみ依り頼む勢力を、神が必ず打ち倒すという高らかな宣言でもある。



さて『イザヤ書』と同じく待降節に味わわれる預言者の書に『ミカ書』5章1節がある。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中からわたしのために、イスラエルを治める者が出る」との言葉。この言葉が『マタイによる福音書』では次のように書き換えられる。「お前はユダの指導者の中で決して一番小さい者ではない」。福音書の書き手はなぜこのように語り得たのか。それは洗礼者ヨハネからいのちのともしびを手渡されたイエス・キリストこそが救い主だとの深い確信を得ていたからであろう。想定外の、圧倒的な神の恵みを前に、わたしたちは直ちに喜びに包まれるのではなくて、正直なところ、戸惑いや混乱からは逃れられない。その状況は今まさにわたしたちの歴史のただ中で多くの混乱として生じている。しかしその混乱は、ひょっとしたら新たな時代をもたらす地殻変動でもあるかもしれない。その中でまことの力をもつのは、「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神がわれわれと共におられる』という意味である」と記されるイエス・キリストのいのちの輝きだ。わたしたちの混乱に先行して、混沌とした世に道を備える神の愛。飼い葉桶に眠るインマヌエルの神から発するいのちの輝きに全てを委ねて歩みたい。

2019年12月8日日曜日

2019年12月8日(日) 説教

「主に近づきいのちを授かる」
『ヨハネによる福音書』5章34~40節
説教:稲山聖修牧師
「主は国々の争いを裁き、多くの民を誡められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち砕いて鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。アドベントによく味わわれる『イザヤ書』。この言葉を始め、『イザヤ書』は福音書の形成に大きく影響を与えている。思えばイエス・キリストの誕生は、旧約聖書とは不可分であることに、日本人の誰が気づいているというのだろう。
 『ヨハネによる福音書』の中で記される、イエス・キリスト自らの証しが今朝の箇所だ。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。この福音書の中でキリストを示す一本の指としての存在感を示すのが洗礼者ヨハネだ。勿論福音書の著者の名前とは別の人物であるが。それにしてもなぜ繰り返し洗礼者ヨハネが際立たされるのか。直接の読み手として想定されたギリシアの世界観の影響を色濃く受けた人々が、神という言葉を恣意的に用いて救いに関する考えを妄想するのを止めさせ、旧約聖書とのつながりを強調するためではないだろうか。出エジプトの出来事はおろか『イザヤ書』すら知らない人々のために「最後の預言者」として初代教会が周知していた洗礼者ヨハネを際立たせ、人間の想念の産物としての神ではなく、歴史に具体的に働きかけ、一人ひとりと出会われるアブラハムの神が遣わした救い主として、世の全てのいのちが愛されていることを徹底的に強調するためだと思われる。
『ヨハネによる福音書』の背後には、神の名を用いて世のありかたを否定したり、身体が諸悪の根源だからといって蔑む考え方が無数にあった。そのような考え方に影響された場合、世の終末に教会組織に属する人々は救われ、それ以外の人々は滅びるというような歪んだ選民思想が生まれることもある。『ヨハネによる福音書』は、人が勝手にその名を用いることのできる「想念としての神」を論じるのではない。歴史に働きかけ、具体的な出会いをもたらすハプニングを創造するところの、イエス・キリストを通して働きかける神である。そしてその神は世がどれほど過ちや破れに満ちていたとしても、しっかりと抱きしめてくださる神でもある。その神の現臨がイエス・キリストにすべてを託された。だから次の言葉が記されるとも言える。「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。「燃えて輝くともし火」に表されるのは、自らを燃やしてあかあかと燃えて世を照らす、かがり火のようなものであったろう。人々はその明かりに向けて集まり、船はその光を見て陸に近づいたことを知る。それは世を否定するための炎ではなくて、人々に安らぎを与えるための炎であった。洗礼者ヨハネはこの炎。もちろんこの炎とて放置しておけば弱まり、消えてしまう。だからこそ「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と語る。そこでは神は「神(God)」としてではなく、「父(Father)」として語られる。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになったわざ、つまり、わたしが行っているわざそのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。父なる神は、自らを知らない諸国の人々にさえ、温かな関わりを求めておられる。
 聖書を知りながらもイエス・キリストの姿を歪曲したり否定しながら読み込む人々が『ヨハネによる福音書』の成立した時代にもいた。むべなるかな。自分に迫るいのちの輝きには、時に人は堪えられない。アフガニスタンの復興に献身された中村哲医師が生涯を全うされた知らせを聞く。かの国では大統領も棺を担いだが、日本でその生き方に正面から向き合おうとする政治家は何人いるのだろう。また教会の群れの中にも、この世の否定のため、この世の何か好ましくないものを否定するために、神という言葉を濫用する姿もある。社会との関わりはその姿にはない。しかし、旧約聖書に記された神は人間にどのように向き合ったか。自らとの約束を破り、楽園を追放されるアダムとその伴侶にさえ「死んではいけない」と皮の衣を着せられる愛をお持ちの方なのだ。その愛がイエス・キリストの降誕によって鮮やかに示され、「わたしのところへ来なさい!」と今なお招く神の姿が浮かびあがる。洗礼者ヨハネが示したイエス・キリストの誕生の出来事を感謝したい。いのちをともに授かろう。


2019年12月1日日曜日

2019年12月1日(日) 説教

「救い主は必ず来る」
『イザヤ書』52章7~10節
説教:稲山聖修牧師


66章からなる『イザヤ書』。この書物は概ね三部に分かれる。1章から39章まではエルサレムが滅亡にいたるまでの40年間のイザヤと呼ばれる預言者の言葉、40章から55章まではバビロン捕囚期に活動した第一イザヤに連なる預言者の言葉、そして56章から終章まではバビロン捕囚の後にエルサレムへと帰還し、その地で直面した新しい課題に向き合いながら、イスラエルの民を超えて異邦人へと広がりゆく神の国の訪れを決定的な希望として語った言葉が記されるという。今朝味わうのは抑留されていた時代を背景とした文章である。
 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられたと、シオンに向かって呼ばわる」。抑留の地において、この預言者は喜びの訪れを語る。「良い知らせを伝える者の足」。遣わされた使者のメッセージは「よい知らせ」。「福音」という言葉元来の意味はイザヤ書にあるとおり「よい知らせ」だ。その知らせは何に繋がるのか。それは「平和」であり「救い」。そしてその平和と救いは「あなたの神は王となられた」という堅く結びつく。そして「あなたの神は王となられた」。「王が神となった」のではなく「神が王となった」。この言葉にはこれまで犯し続けてきたイスラエルの民の過ちの歴史が暗示される。

出エジプトの旅が終わり約束の地に入り長い月日が経ち、サムエルという人物が人々を導いていたそのとき、イスラエルの部族には異邦の民の干渉を招く内紛が数多くあった。その中ではサムエルの息子もまた「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」。現状打開のために長老たちは中央集権的な政治体制の象徴でもある王を求めるが、サムエルにはその言い分は悪と映った。祈りの中でサムエルは聴く。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」。『サムエル記上』8章では、このありようが同書に描かれるイスラエルの民の過ちの端緒として記される。この過ちを踏まえてこその「あなたの神は王となられた」との言葉。それはイスラエルの民の態度の転換だけには留まらない。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。抑留の地から遠く、廃墟となったエルサレムに希望が語られる。うち捨てられたその街には絶望や嘆きではなく、喜びが戻るのだ。
旧約聖書の物語には、過ちを犯した民を救おうとするとき、神は天使を派遣して人々を精査するというパターンがある。しかしもはやそのような精査は不要である。バビロン捕囚そのものが民の過ちを示しているからだ。人々は粉々に砕かれている。この絶望のただ中で、神の遣わす唯一無二の救い主の訪れが待望される。

バビロン捕囚という、言葉にできない悲しみと囚われの中で、イスラエルの民は自らは鎖に繋がれたまま、なおも神が備えたもういのちの希望のメッセージに耳を傾けた。「平和と恵みの良い知らせ」に包まれ希望を備えられた。現代のわたしたちはバビロン捕囚ならぬ、利己主義と虚構に溢れたエゴイズム捕囚の中にある。見えない鎖で自分自分をがんじがらめにしては責任転嫁を平然と行なう。その頑なな心を、飼い葉桶に安らう乳飲み子イエス・キリストは「弱さ」という力でもって見事に打ち砕く。そして廃墟に重なる荒んだ心に「ともに喜び歌え」とのメッセージを届け、隣人との交わりの扉を開く。この喜びに包まれて礼拝は献げられる。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と『詩編』で詩人が語るように。神の前に崩れ落ちて胸を打ち叩いて悲しむ人々の祈りが、喜びに変わる。その出来事が救い主との出会いの中で起きる。今、この時代。待降節の中、キリストとの出会いを待ち望み、祈らずにはおれない。