『マタイによる福音書』2章1~6節
稲山聖修牧師
その賢者たちが選んだ道。それは各々の国で授かっていたポストをキリストを世に遣わした神に委ねて、御子イエス生まれた場所を探す道であった。賢者たちはこの旅に全てを賭けている。この旅は、あらかじめ安全が確保された「旅行」ではなく、賢者たちの学識でさえ尊ばれることもない道を行かねばならないというリスクをはらんでいる。けれども賢者たちの関心は定常業務であるところの「観察」に留まるのではなく、「現地へ赴く」という「勇気」を伴っている。飼い葉桶の乳飲み子を通して働く、神の愛である「聖霊の招き」がこの場にも及ぶ。
聖霊の力は、御子の誕生に明らかにされた神の真理によって、世の様々な隠し事や偽りにも踏み込む勇気を人々に与える。ヘロデ王は賢者たちの問いを前にして自分の権威を脅かされる身の危険を感じている。またその時代にエルサレムに住んでいた、民衆の目の届かないところでローマ帝国の飼い犬となり地位を保っていた人々もまた不安を抱く。しかし「民の祭司長たちや律法学者たち」は、言葉の率直さを踏まえれば、全く違う表情をしていたことが分かる。例えばヘロデ王が問い質したのは「どこに生まれることになっているのか」という内容。だから答える側としては「ユダヤのベツレヘムです」とさえ応じればそれで済むはずだ。しかし『マタイによる福音書』の書き手は、旧約聖書の預言者の書『ミカ書』5章に手を加えて「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいもの・ではない」と記す。ヘロデ王と、集められた祭司長たちや律法学者たちが、各々異なる方角を向いていた。単なる祭司長たちや律法学者たちではなく、「民の」という修飾語がつき、さらに「皆集めて」とあることから、これもまたヘロデ王が力づくでかき集めた人々であることが分かる。律法学者は聖書の記事に手を加えることで自らの喜びを率直に述べ、ヘロデ王に一矢報いる。預言者の言葉は、神の御旨から離れた権力や人々に対する批判にもなり得るからだ。神の真理を前にしてヘロデはますます追いつめられていく。
しかしわたしたちは東方の訪問者の物語に疑問を抱く。なぜなら『マタイによる福音書』2章16節以下に「さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とあるからだ。東方の賢者たちの訪問がなければ、この子たちは殺されずに済んだのではないかと問う人もいるかもしれない。しかしながら世の権力だけを頼みとする者は、おのれの依って立つところが覆されようとするときには、時に想像もできない残酷さを露わにするものだ。権力が弱者に牙をむく残酷さを『マタイによる福音書』は隠さず書き記す。公文書には決して書き記されない権力者の振る舞いにスポットライトが当たる。かような所行に及んだヘロデ王には、もはや王たる資格はない。だからもはやこの物語で律法学者の発言の後、福音書の書き手はヘロデ王とは記さず、単に「ヘロデ」と語るだけだ。神の御旨を顧みない王から、神はその力を剥奪され、飼い葉桶に眠る乳飲み子にその力を委ねられる。そしてその乳飲み子は、やがてベツレヘムで何の過ちも犯さずに殺害されていったこどもたちの苦しみ、そして親たちの悲しみを背負って、救い主としての道を歩み、そして十字架の上でその悲しみと苦しみを告発する。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。神に見捨てられたと涙するほかない人々を、救い主は放置しない。救い主は文字通りそのような悲しみの中に佇むほかない人々とともに歩まれる。その歩みはやがて復活の光、いのちの光をもって世の民をつつみこむ。神が世に遣われた真理とは、そのように全てのいのちを抑圧から解放し、悲しみを喜びに変える真理だ。主なる神は御子イエス・キリストの真理によってすべてのいのちに新たな息吹をそそがれる。世の課題が白日の下にさらされようとしている今年もやがて終わる。新しい年も神の真理に背を押されて進みたい。