2019年11月24日日曜日

2019年11月24日(日) 説教

「神の平和の実りを告げる」
『ヨハネによる福音書』18章37~38節
説教:稲山聖修牧師

 イエス様がお働きになった場所では、稲の代わりに麦を育てて人々は暮らしていました。お米は炊いてご飯にしたり、お餅にしたりしていただきますが、麦は石臼で引いて粉にし、パンにして食べます。上等の小麦を食べられるのは少しの数の偉い人ばかり。それでもみんながお腹を空かせることなく暮らせるのはとても大切なことでした。けれどもそのような暮らしでさえ続けるのは難しいものでした。戦争が起きれば兵隊さんの食べ物として持っていかれてしまいます。日本ではあまり見かけませんが、バッタの群れに襲われて麦が全て食べられてしまうこともあります。草がとれない寒い季節には麦わらは家畜の餌にもしますが、やはりこれも軍隊がとっていってしまうことも多かったと聞いています。お金持ちは汗水垂らして集めた麦を僅かばかりのお金で買い取って高く売ろうとします。農家の人は本当に苦労ばかりしていました。

 そのような農家の人々を始めとした有名ではない人々とイエス様はお話をしたり、外には出られないような病気に罹った人、目の見えない人、耳の聞こえない人の苦しみを癒して回りました。あるときには、生まれつき目の見えない人に出会われたこともあります。畑仕事もできない人でした。お弟子さんはイエス様に尋ねます。「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。イエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現われるためである」。イエス様はそうやって多くの人を支えたり、励ましたり、病気を治したりしていかれました。けれどもこれが、イエス様の時代の偉い人やお金持ちの人々には気に入らなかったのです。気に入らなかったというより、怖かったといったほうがよいでしょう。なぜならば、イエス様はどんなに立派なお屋敷に暮らしていても、お金をどれほどたくさんもっていても、できないような神様のお仕事を次から次へと行っていきますし、イエス様と出会った人々は、お金持ちの誰よりも幸せそうな顔をしているからです。人々のお腹を空かせたまま、病気のままでほったらかしにする王様よりも、本当の王様はイエス様なのでないかという人も出てきました。偉い人やお金持ちはイエス様がだんだん邪魔になってきました。辛い思いをしている人を励ます言葉でさえ、うるさい言葉としか聞こえなくなってきました。そしてとうとう、やってもいない疑いをかけられて、イエス様は逮捕されてしまったのです。「この人は自分を王様にしたい悪人だ」。多くの人を助けたイエス・キリストは、今度はご自分が助けた人の味わった苦しみをともにすることとなりました。



 今日の箇所はイエス様が裁判を受けている場面です。ピラトという人は、ローマの身分の高い、裁判官よりも身分の高いところでイエス様が助けたような貧しい人を王様よりも強い力で支配している人でした。ピラトは尋ねます。「お前はやはり王なのか」。イエス様が答えるには「王様だと言っているのはあなたの方です。わたしは何が正しいのか分かるようになるために生まれました」。ピラトは尋ねるには「正しい事とは何のことだね」。イエス・キリストは黙っていました。なぜかと言えば、ピラトは自分の聞きたいことしか聞こうとしないことはイエス様には分かっていたし、苦労しながら麦を育てたり、あまりにも貧しくて麦を育てることもできない人の話など、お屋敷に住んでいるピラトが聞くはずもないと分かっていたのかもしれません。ピラトはとうとう「この男には何の罪も見いだせない」と言う始末でした。ピラトはイエス様が悪いことを何もしていないと認めてしまったのです。それではなぜイエス様は十字架にかけられてしまったのでしょうか。わたしたちが長い時間をかけて祈り考えなくてはならないことです。

 イエス様は苦しんでいる人々の苦しみや悲しみを背負うためにこの世にお生まれになったと聖書には書いています。みなさんは一日何度食事をしますか。それも食べられないおともだちがわたしたちのすぐ隣に暮らしています。今朝の礼拝で献げてくださった食べ物はそのおともだちと分けあいます。どうかそのおともだちを心から尊敬してください。そのようなイエス様のお仕事が、わたしたちにも任されているのだと思い起こしましょう。

2019年11月17日日曜日

2019年11月17日(日) 説教

「渇きをうるおすキリストの滴」
『ヨハネによる福音書』6章28~35節
説教:稲山聖修牧師



 本日の聖書は『ヨハネによる福音書』の物語。『ヨハネによる福音書』は他の福音書に比較すると、歴史的なイエス・キリストの歩みをたどるというよりは、他の福音書を下敷きにして救い主の姿をあらためて思いめぐらし、その時代のものの考え方の限界に対して、旧約聖書のアブラハムの神、出会いの中でハプニングを起こされる神、そして復活という道筋の中でわたしたちの世界と死後の世界の垣根を吹き飛ばす神を問いかけ、そしていかなる世にあっても、いのちの光を絶やすことのないイエス・キリストのメッセージを衝突させて、キリストの勝利を讃えようとする色彩に溢れているように思われる。
 今朝の箇所は、湖の畔でイエス・キリストが五千人に五つのパンと二匹の魚を分かち、人々を満たした出来事の翌日という設定だ。イエス・キリストがパンを分かち合う恵みというハプニング、すなわち奇跡を行なった箇所から物語は始まる。キリストと弟子を求める群衆は、懸命に追い続け、ついには前日の場所からは向こう側の岸辺にいたことを突きとめる。そして語るには「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」。


 キリストが答えるには「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。キリストを探し求めてきた群衆はその多くが無名であり、従って概ね貧しい人ばかりだ。だからパンを食べて満腹したからキリストを求めたからとしても何ら咎め立てを受ける筋合いはない。けれどもキリストは語る。救い主の訪れであるときのしるしを見なさい!と。そして「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子をお認めになり、証しされたからである」。
 イエス・キリストは群衆にさらなるステップアップを求める。それは修行や訓練を前提ではなく、すでにキリスト自らを探し求める道のりに明らかだ。濃密な対話のもと、群衆は問いかける。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。イエス・キリストが答えるには「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。群衆が問うには「それではあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒野でマナを食べました」。群衆は旧約聖書『出エジプト記』にある、エジプト脱出のただ中で、飢えに苦しむ難民同然の人々に神が食べさせた食糧を想起する。イエス・キリストは答える「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」。イエス・キリストは、食糧を備えたのはモーセでなく、あなたがたの先祖を奴隷の住いから解放したアブラハムの神であると断言する。人々の眼差しをモーセその人から、その人物が生涯を賭けて示そうとした出会いの神、奴隷解放の神へと誘おうとする。群衆は熱心に問いかける。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。キリストが答えるには「わたしはいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない」。
 『ヨハネによる福音書』19章28節では、この福音書ならではの祈りが込められた、イエス・キリストの言葉が記されている。磔刑にされて絶命する際にキリストが語った言葉は「渇く」であった。イエス・キリストは救い主としての働き全てを通して、出会う人々の渇きを満たし、自ら「渇く者」となった。救い主はそのような苦しみをもって、わたしたちに復活のいのちを備えてくださった。
 
 わたしたちは本日教会のバザーを行なう。確かにバザーの収益は大切だが、それ以上に大切なものがある。それはイエス・キリストに根を降ろす教会の交わりを通して育まれる潤いだ。効率とひき換えに交わりを失った現代の「渇いた時代」に教会はあらゆる仕方で神の潤いを分かち合おうとする。わたしたちは喜びに満ちたハプニングとしての出会いを求めていきたい。今日一日を神さまの愛の力に満たされた素晴らしい日にしたいと思う。

2019年11月10日日曜日

2019年11月10日(日) 説教

「おさなごに証しする神の愛」
『ヨハネによる福音書』8章55~59節
説教:稲山聖修牧師


石川県の犀川沿いには口伝承の物語として次のような話があるという。暴れ川として知られるこの川にほど近い村に弥平という父親と、お千代という娘が暮らしていた。お千代は手まり遊びが大好きな娘だった。
お千代が熱を出してしまい生死の境を彷徨う。思い詰めた弥平はお千代がうなされながら呟く「小豆まんま食べたい」という願いを叶えるために一度だけ盗みを働く。庄屋の家に入り一握の米と小豆をぼろ布袋に入れて、お千代にその粥を食べさせた。そのお陰かお千代はみるみる健やかになって「小豆まんま食べた、うんめいまんま食べた」と歌いながら手まり遊びをした。
長雨が続く。川が溢れんばかりの勢いで流れていく。氾濫が迫るとき村では人柱を立てる倣いがあった。川の主(ぬし)によからぬことをしたとの疑いをもたれた者が人柱となる。お千代の手まり唄を聞いたという者が現れ、その年の人柱は弥平となった。お千代はそのわけを後日村人から聞き、幾日も泣き続けた後、言葉を失い、とうとう村から姿を消した。さて何年も経った後、村はずれに住う猟師が、久しぶりに獲物に恵まれたと喜んでいたとき、見覚えのある面影の娘が木陰に立っていた。ぽつりと言うには「雉も鳴かずば撃たれまい」。
この伝承の背後には、人柱という慣わしへのやり場のない憤りと悲しみがある。最も悲劇的なのは、お千代の手まり唄が川の氾濫に劣らない悲しみをもたらすところだ。おさなごの天真爛漫さが父の死の呼び水となってしまう。義憤と悲しみがなければ物語は決して語り伝えられなかったはずだ。
ところでこの伝承とは対照的に、おさなごの天真爛漫さが世の権力に打ち勝つ物語をわたしたちは知っている。「自分の地位にふさわしくない者には見えない布地」で作られた衣装でお披露目のパレードをして、大人たちがおべんちゃらの拍手をする中、あるこどもが「なんにも着てないよ!」と叫び、続いて群衆の中に「なんにも着ていらっしゃらないのか?」とざわめきが広がり、遂には「何も着ておられない!」という騒ぎの中、パレードは続くという社会風刺の物語。アンデルセンの童話「裸の王様」だ。おさなごの天真爛漫さという宝がどのような彩を放つのか。これがこどもたちの置かれた社会を映す鏡として、物語の書き手や言い伝えの担い手すら気づかないないままに描かれているようでもある。

イエス・キリストもある種の天真爛漫さを湛え、無邪気さに溢れているように思える。その天真爛漫さや無邪気さは、わたしたちのそれと深く共鳴するところだ。イエス・キリストは決して悟りを開いた人物ではなかった。エルサレムの都を眺めてそのさまを嘆いては涙し、徴税人と食卓を囲んでは笑顔とともに語らい、エルサレムの神殿の境内で両替商の机をひっくり返す気性の激しさももつ。その振る舞いの源は、父なる神と直接結びついたところの天真爛漫さだ。だからこそイエス・キリストは絶えず真理を示し、恐れ知らずである。
「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と迫る反対者を恐れずにイエス・キリストは語る。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである」。反対者たちが「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエス・キリストは答える。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる以前から、『わたしはある』」。「わたしはある」とは、『出エジプト記』でモーセがホレブ山に登った時に示されたアブラハムの神の名前。イエス・キリストはこの言葉を語ることによって、自らが神から遣わされた救い主であることを示す。究極の天真爛漫さとしての姿をも併せもつ、神の言葉という真理がそこにある。
今わたしたちがこどもたちに証しできるのは何か。手がかりはお千代のために泥を被りながら遂には生き埋めにされていった弥平の姿だ。しかしわたしたちが受けとめる弥平の姿は、口伝承の弥平とはその姿を変えている。「雉も鳴かずば撃たれまい」から「屋根の上で時の訪れを告げ知らせる雉の声」となっている。その声は村中に響き渡り、おさなごに「もう泣くことはない」「どんどんてまり遊びをしなさい」「安心してご飯を食べなさい」「喜びの歌を歌いなさい」と語りかけ、大空を駆けていく御使いとなった弥平の姿がある。人柱としていのちを奪われても、神の愛が世におよび完成するとき、キリストにあって復活する弥平の姿だ。「わたしはある」という名のアブラハムの神は語る。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。イエス・キリスト自らが、主の祈りの中で「父よ」と呼ばわったように、わたしたちも「天にましますわれらの父よ」と始まる「主の祈り」を献げることを赦されている。イエス・キリストに根を降ろす中で、齢を重ねながら、わたしたちもまた神の子の一人としての祝福に授かる。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。インマヌエルの神・イエス・キリストがおさなごたちを自らの愛でつつんで導き、おとなを正気に立ち返らせてくださるのだ。



2019年11月3日日曜日

2019年11月3日(日) 説教

『ヨハネによる福音書』3章16~21節
「真理の足跡をたどって」
説教:稲山聖修牧師

わたしたちの世のあり方は一人ひとりのかけがえのない歩みを、交換可能なデータという仕方で、また情報として扱うという一面をもつ。それは現代の情報化社会ではやむを得ないところではある。けれどもその「やむを得ない」ところに胡座をかくならば、わたしたちは神が授けたいのちの尊厳を見失うことにもなる。永眠者記念礼拝で覚えられる兄弟姉妹は一人ひとりがかけがえのない顔をもっており、その人ならではの歴史を世に刻んでこられた方々であるのにも拘らず、である。しかし旧約聖書を重んじ、アブラハムの神との関わりを何よりも大切にする人々は、いのちというものが、自らの思いも含めて決して意のままにはならないどころか、言語を絶する状況の中でもなお特別な役割を託されたと確信した上で、同胞の死にざまだけでなく生きざまをも証言する役目を深く自覚していく。かの人々は僅かな隙間であっても神の授けたもう可能性に賭ける。そして齢を問わずその責任を全うするというところに旧約聖書の民の希望がある。その希望に満ちた眼差しは、神の愛の支配へと向けられ、そして次の世代の人々との関わりをより堅くする、まだ見ぬ未来へと向かっている。

それでは福音書に記されているところの真理について、わたしたちはどのように語るべきであろうか。天に召された兄弟姉妹の歩みに示された道。それは朧であるにせよ、確たるものとして証しされたアブラハムの神の真理であり、イエス・キリストが示された真理であり、人々がそれによって自由にされるところの真理である。『ヨハネによる福音書』3章19節には次のようにある。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行なう者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである」。天に召された兄弟姉妹が歩まれた世がこの言葉に重なる。また同時に、この聖書の言葉はもう一つ大切な事柄をわたしたちに語る。それは「それが、もう裁きになっている」との一節である。わたしたちはもはや世を裁く必要はない。神の刻まれた歴史に手を加えようとする者を、さまざまな偽りを語る者を、誘惑する者を恐れたり、断罪する必要すらない。なぜならば、神が自らの手によってそのような世に介入され、苦しむ者を助けあげてくださるからである。そのような神の愛のわざが、イエス・キリストによって示されている。「しかし、真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。天に召された兄弟姉妹は、各々世にあってさまざまな葛藤や苦悩を抱えて歩まれていった。しかしそれらの葛藤や苦しみが、イエス・キリストにあっては和解と喜びに変えられるのである。




今わたしたちは、天に召された兄弟姉妹とともに礼拝を執り行っている。それは決して懐かしい時代への想起には留まらない。それどころか、イエス・キリストを通して、わたしたちには、天に召された兄弟姉妹と語り合うことまでも赦されており、ぜひともそうするべきである。それは単なる死者との対話ではない。イエス・キリスト自らも、山の上でモーセやエリヤと語り合われたと聖書には記されている。新約聖書の舞台では、モーセもエリヤもその人としては天に召されているが、イエス・キリストは神の栄光のもとで語り合う。それは活ける神の歴史との対話だからである。それはわたしたちもいのちの光の中で再会するであろうところの、復活を約束された、まことに大切な方々との対話である。「イエス・キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり」とわたしたちは使徒信条を告白する。イエス・キリストは古代にあって死者が赴くであろうとされた地の底にまで突き進まれた。生者と死者の深い一線を超えられた。そのわざを確かめながら、わたしたちは死後の世界という幻から、イエス・キリストに照らされたいのちの光のもと、世に遺された真理の足跡をたどる。そこには旧約の民からイエス・キリストを通してわたしたちに拓かれた、活ける真理としての神にいたる道がある。主にある再会を待ち望みながら、召された兄弟姉妹とともに礼拝を守る喜びに、心から感謝したいと願う。主なる神は全ての民を覚えてくださる。そして天に召された兄弟姉妹も、世にあるわたしたち一人ひとりをも覚えてくださる。御自身が愛する民を神が忘れるはずはがない。その記憶が、わたしたちのいのちの喜びを育むのだ。