「神の平和を実現する者」
説教:稲山聖修牧師
強い日射しに堪えて咲く花と同じく、福音書に登場する女性もまた、身分や経済の格差を横断する根でつながっていた。ファリサイ派の食卓に招かれ、その場で罪深いとされた女性を癒した後、キリストはただちに行動する。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」。キリストは至る所に出向いて、神の愛の支配を説く伝道のわざに励んでいた。注目すべきはキリストと12人の弟子に、「悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とある箇所。イエス・キリストと12人の弟子に限らず「多くの婦人たち」も、ともにこの旅に同行していた。どうも弟子よりも遙かに多くの女性たちがいたようだ。驚くのは名前を記された女性の多様性。「悪霊を追い出して病気を癒していただいた女性たち」には「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」がいる。「七つの悪霊」について聖書そのものは触れない。しかしこの箇所でキリストの復活の遭遇するマグダラのマリアと、キリストとの初めての出会いが明らかになる。そして続くのは「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」。「家令」とは「皇族や華族の家の事務・会計を管理し、使用人の監督に当たった人」とある。洗礼者ヨハネを殺害した領主ヘロデのもとで財務管理をしていたクザという人物の伴侶がイエス・キリストと弟子に物心両面にわたって奉仕していたこととなる。これは重大な証言だ。
群衆の中にいたこどもたちを追い払おうとしたり、キリストのもとでのポストを争うだけでなく、いよいよ十字架につけられるという場面では逃げるばかりの12弟子に較べて、女性たちは黙々とキリストと弟子の働きを支援する。『マルコによる福音書』ではサロメという女性が登場するが、斬首された洗礼者ヨハネの首を求めて舞を舞った女性としてではない。洗礼者ヨハネを首を盆にのせたサロメはオスカー・ワイルドの戯曲に描かれるだけで聖書とは関係がない。サロメとはもともとシャーローム「神の平和」に由来する。サロメにしても、マグダラのマリアにしても、そしてクザの伴侶ヨハンナにしても、キリストの地上の生涯の果てに復活の告知をその場で受ける役目を授かる。敵味方に分かれて争う男性の陰で、その線引きを超えた交わりが、キリストに仕える女性の交わりから広がっていく。そこには、争いに対する極めて醒めた視点があるとともに、キリストに向かう情熱的な眼差しがあった。
キリストへの奉仕というわざを、名誉や見返り、あるいは自らの承認願望と取り違えてしまいがちなわたしたちは、キリストへの、12弟子を凌ぐ強力なサポーターの姿をどのように受けとめるのだろうか。
今日は平和聖日。復活にいたるその時まで、キリストから決して離れようとしなかった交わりは、今も決してその力を失うどころか、時代の権力の手の届かないところにまで手を伸ばし、若葉を生い茂られようとしている。戦うことが求められ、生い茂った葉を無理やりむしり取ることが習い性になっている人々のありようよりも、いのちを育むことにじっくりと向き合い、そしてそのわざを誇らしげには語らない態度こそが、教会という畑が荒られて荒んだときに、諦めずにまた耕す働きの源となる。不条理に対して拳を振りあげるというより、涙を流しながら耕しに励む姿がある。
21世紀も五分の一を迎えようとしている今、世界や、わたしたちが暮らすこの社会のさまざまなところに、分断による悲劇があり、孤立による悲しみがあり、権力の暴走による破壊がある。そのような悲劇や悲しみ、破壊を、否定や批評にではなく、それに変わるものを育むわざは、ますます大切になり、重みを増す。どのような混乱の中でも、イエス・キリストを見つめていれば生きていけると、今朝の福音書に名を刻まれた人々は時を超えて証明してくれた。「平和を実現する者は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。『戦争は女の顔をしていない』という2015年ノーベル文学賞受賞作品もある。根を降ろすべきは時に移ろう世やわたしたちの思いにではなく、イエス・キリストその人であった。心して時代の風に向き合おう。