「起きなさい、目覚めの時だ」
説教:稲山聖修牧師
本日の聖書の箇所で問われるのは「注意深さ」という態度。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、自分の家に押し入りはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。この箇所は人々に実に緊張に満ちた注意深さを呼びかける。『ルカによる福音書』の成立までには、すでにキリストの十字架の出来事から50年の歳月が流れていたという。その中で、神の愛の支配が訪れるという終末の意識が次第に希薄になっていく。十字架につけられたイエス・キリストの姿は、全ての人々の破れを一身に負った救い主の姿ではあった。その姿が希薄になる。そして種々の新たな課題が生まれる。今日でいう『新約聖書』をもたない初代教会は、その課題の中で押し潰されそうだったことだろう。自己救済に関心を寄せるあまり、隣人を支えたり、キリストを軸とした交わりを持続させていくのに関心すら寄せなかった集団もあった。このような群れはイエス・キリストに対しては居眠り、またはまどろんでいたと言うほかはない。
もしわたしたちが目を覚ましているのであれば、自分の情念や存念の中でまどろみさえしなければ、神の国の主人は自ら帯を締めて、僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれるのだ。わたしたちが腰に締めた帯を、自分の存念とは異なるところに導き、未来を切り拓いてくださるのは他ならぬイエス・キリストである。「腰に帯を締め、ともし灯をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、開けようと待っている人のようにしていなさい」。神に対する絶対依存の態度がそこには描かれる。イエス・キリストに示された神の愛の支配の完成は、すぐそこまで来ているのだ。