「喜びも悲しみも分けあう生き方」
稲山聖修牧師
72人の弟子が、神の愛の力であるところの聖霊によって癒しのわざを行い戻ってきた。その働きぶりに触れてキリストも喜びに溢れた。その喜びに満ちた交わりに水を差す声がある。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。キリストを試す律法学者だ。キリストは問答の中で『申命記』6章4〜5節の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」に始まる『律法(トーラー)』の教えを彼から引出そうとする。その結果、律法学者は「隣人を自分のように愛しなさい」との誡めを思い出す。キリストの答えは実に簡潔だ。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。実のところ、律法学者の問いは認識や理解に関するものだ。他方、キリストはその認識に根ざしながらの実践を強調する。神の愛とは常に具体的でありダイナミックである。けれどもこのダイナミックさが分からないところに律法学者の哀しみがある。「わたしの隣人とは誰ですか」。彼は立場に固執するあまり、出会いのもたらすダイナミックな神の愛の中におかれていることに気づけない。キリストはそんな彼に実に具体的な話をする。有名な「善いサマリア人の譬え」。エルサレムの神殿を目指していたであろう祭司やレビ人は「屍体に触れてはならない」とする穢れの規定には忠実だった。しかし譬えに登場する行き倒れは同胞であり、かつまだ息絶えてはいない。人間社会の規定に過ぎない「立場」というものが、神の愛のダイナミズムを冷酷に拒絶する姿がよく描かれている。他方で道行く途上のサマリア人は、ユダヤ人との間に横たわる積年の分け隔てを顧みず旅人を憐れんで介抱をする。この介抱はその日だけでなく翌日にまで及ぶ。介抱の翌日、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで願う。サマリア人自らの旅の段取りは、棚上げされてしまっている。
祭司・レビ人・サマリア人。「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか」、とキリストは律法学者に問いかける。注意したいのは、祭司は本来、イスラエルの民の罪の破れを全体として神の前に悔いながら告白し、和解を乞い願うという役目を託されている点、レビ人は受け継ぐ地としての財産を持たず、古くは神を礼拝する幕屋、後には神殿と寡婦や孤児、寄留者との関わりを保持する者としての役割をも託されていたという点だ。しかしキリストの譬え話では、祭司もレビ人も「立場」のもつ軛を絶つことはできていない。それは律法学者も同様である。キリストへの答えとして「サマリア人です」とは答えられず「その人を助けた人です」としか言えないのはその証しであろう。けれども「隣人とは誰か」という問いから「その人を助ける」という答えそのものによって、律法学者は自らの立場のもつ制約を絶対視しない道筋を備えられる。「行って、あなたも同じようにしなさい」。この短い一文には、譬え話の中で、祭司やレビ人が拒絶した神の愛の渦巻きに、律法学者を投げ込もうとするイエス・キリストの態度が示される。これもまた聖霊の働きとして、わたしたちは看て取ることができる。
年齢や性差、家族の内外を超えて、喜びだけでなく悲しみをも分けあう生き方がある。それは神の愛のダイナミズムあればこそ。教会もまた、キリストが示した聖霊の力がなければ時代の波の中に消えていくに違いない。組織は経年劣化を起こし、人は齢を重ねる。経験は時に人から柔軟さを奪い、頑なさをもたらす場合もある。頑なさの原因となるのは若さだけでない。老いも同様である。実際問題としてわたしも様々な現場で自分の頑なさに辟易する。若さとしての未熟さを言い訳にできなくなったときに、今度は立場という言い訳を作ろうとする。何と愚かなことだろう!
けれどもキリストに連なる出会いには、そんな意固地なありようを砕く聖霊の力が隠されている。神の恵みを徹底的に信頼して人生の旅路を進みたい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなときにも感謝しなさい」と生き方を変えられたかつての律法学者パウロは記す。主にある喜びと祈りと感謝は、垣根や立場を超えたダイナミックさを伴う。そしてその力は、わたしたちをも絶えず新たにする。その力は老若や立場を問わないのだ。