2019年3月31日日曜日

2019年 3月31日(日) 説教

「キリストの顔が変わるとき」
ルカによる福音書9章28~32節
説教:稲山聖修牧師


人の子イエスの姿が山の上で変わるという「山上の変容」の箇所。この箇所の理解は、イエス・キリストが自ら定めた苦難の道を語るという先週の箇所との関わりなしには難しい。救い主が世の権力者から苦しみを受けた果てに十字架刑によって生涯を終える。そしてその三日後に復活することになっている、との告白。この歩みは古代ユダヤ教のメシアのあり方としてはあってはならない。だから実際にはその時代のユダヤ教徒であった弟子たちは動揺を隠せない。しかしそのおののきが十字架でのイエス・キリストの死、そして復活のイエス・キリストのいのちが示す事柄を明らかにする。全ての人が受けるべき神の裁きをわが身にひき受けた姿が十字架に、世の混乱や分断、憎悪や殺意に対する勝利者としての姿が復活に示される。その道筋には神の愛による支配が直接人間に臨み、世の仕組みを覆していくという出来事が圧縮して語られているという。いわば聖書の全て、福音の総内容が弟子に迫っていく。
すなわち「この話をしてから八日ほど経ったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた」。つまり初めてイエス・キリストに従った、弟子たちがイエス・キリストに従って山、すなわち高みへと登っていく。旧約聖書で神ご自身のメッセージが語られた場所が「山」である。

弟子が見た出来事とは何か。それはすなわち「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。「山上の変容」の箇所では、モーセは旧約聖書では「モーセ五書」とも呼ばれる律法『トーラー』、エリヤは多くの「預言者の書」『ネビイーム』を代表する人物だ。モーセもエリヤも、イスラエルの民の迷いや躓き、憎悪や反乱に苦しみながら、神の救いの約束の確かさを説いて導く役目を担った。同時に二人はイスラエルの民の泥を被り、泥まみれの杯をあおぐ役目を担いもした。そのような人々が告知した、神の救いの歴史、すなわち「救済史」の頂点にイエス・キリストは立つ。キリストは、聖書に記された「アブラハム・イサク・ヤコブの神」、虐げられた民を解放する、「父なる神」を仰いでいるのだ。弟子たちには、そしてわたしたちにも神の支配はおぼろにではあるが、深く関わっているのは間違いない。わたしたちはその救済史を土台とするところの教会の交わりに連なっているからである。
そして神の栄光に包まれたイエス・キリストに、弟子たちはわけの分からない言葉がけをする。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。「ペトロは何を言っているのか、分からなかった」。身体中の痛みと疲労困憊の中で睡魔に襲われながら眺め観たイエス・キリストが、聖書の言葉の完成体であったと、誰が分かるというのだろうか。ペトロと仲間が聞き及んだのは、山に漂う霧と雲に包まれて視界が遮られていく中で響く神ご自身の声だけだった。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声。しかし、預言者でも指導者でも何でもない「凡庸な人」であるはずのペトロにすら「これに聞け」との声は、確かに届いたのだ。
 イエス・キリストの顔の様子が変わるとき、弟子たちもまた、その姿に応えようと新しい歩みを起こそうする。神を見つめたその顔は栄光に輝いている。そして、たとえ的外れであったとしても、栄光のキリストを仰いだところから始まる弟子の歩みは前向きである。試行錯誤の連続がそこにある。恐れない挑戦こそが、その時代に弄ばれず、うろたえもせず、しかし真摯に隣人に向き合っていく道が拓ける。聖書と祈りの言葉なくしては、教会は立つことはできない。関連する事業もまた同じである。時代の転換期にあってわたしたちが動揺せずにすむのだとしたら、実のところはもっと大きな、較べようもないいのちの転換のわざを基にした時の流れ、つまり、生から死へと進む時間ではなく、死にうち勝った復活から始まる歴史のただ中に置かれているからである。排除や否定という道筋ではなく、養い育むという視点に立ち、イエス・キリストを軸にして新年度の歩みを始めよう。


2019年3月24日日曜日

2019年3月24日(日) 説教

「全世界より大切なものとは」
ルカによる福音書9章21~27節
説教:稲山聖修牧師
イエス・キリストが御自身の苦難の道と世の力によって殺害され、そして葬られて三日の後に復活すると、初めて弟子に語る場面。一般論としては受け入れていた「遠い世界の話」が、目の前にいる人の子イエスを通して起きるなどとは、誰も考えてはおらず、思いも寄らなかっただろう。イエス・キリストが語るのは実に具体的だ。それは単に多くの苦しみを受けて殺害されるだけでなく「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と十字架刑での殺害が暗示されるのである。この箇所で十字架という言葉がはっきり記されることで、キリストに従う道が、弟子の予想を超えるだけでなく日常を覆しかねない恐ろしい出来事だと告げられる。『ルカによる福音書』の場合、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」の示すところがより簡潔に記される。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。「わたしのために」とキリストは語る。それは一体どういうことなのか。それは絶対服従の宣誓ではない。イエス・キリストの教えと歩み、そして証しとに従う。これは招きへの応えであり、宣誓とは異なる。名もなき人々との出会いを福音書が実に細やかに描いていくのもそのためだろう。実はそこに、イエス・キリストが自らのいのちを献げられた現場があった。その中で教会が絶えず問われることといえば「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。今朝、要としたいのは「全世界」という言葉。「荒野の誘惑」の箇所では、イエス・キリストを試みようと、その耳元で「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と誘惑者がささやく。イエス・キリストは、いのちの事柄という重大事を世の諸々の力の中では語らない。むしろ十字架という滅びと審判、そして自らの復活という出来事を経て示される神の支配という救済史のただ中に、弟子を立たせようとし、教会を立たせようと呼びかける。救いの歴史のただ中に置かれるわたしたちのいのちのありよう。それはあらゆる特性を持っていたとしても、どのような排除も差別も憎しみの対象にも対象にもならない。今朝の箇所は実に短いながら、キリストの苦難と十字架での死、そして復活と昇天、そして再臨と終末という福音書ならではの歴史の意味づけがなされている。「神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とは誰かといえば、それは教会の歴史の中で福音書の物語を、その場に居合わせた者として味わい、聴き、涙した人々であり、それはわたしたちも含んでいる。
十字架刑とは本来ならば遺体の弔いすら許されず、人を初めからなかったものにする処刑法。しかし福音書では、イエス・キリストの亡骸を受けとめた人、墓に葬った人、その死を嘆き悲しんだ人々がいた。その悲しみは復活の光の中でやがて癒されていく。救いの歴史のただ中に置かれているわたしたちの歩み。わたしたちのいのち。何の変哲もないように思える日常の中にあって、実はわたしたちのいのちはどのような悲しみの中にあったとしても、いのちの光のただ中に置かれているのだということを、受難節の礼拝で確かめたい。

2019年3月17日日曜日

2019年3月17日(日) 説教

「手を固く握るイエス・キリスト」
ルカによる福音書11章14~23節
説教:稲山聖修牧師

東アジアに今なお強く影響を及ぼす儒教道徳。その教えでは家制度を源とした血筋や係累を重んじる。近ごろ悪用される公私混同の利権のやりとりや忖度には、その習慣の陰の面だけでなく、聖書の教えを受け入れる上でのハードルも潜んでいるようにも思う。ところでイエス・キリストはそのような家制度に基づいた道徳観とはどのように関わっていたのか。クリスマス物語から、イエス・キリストは血筋としてのイスラエルからは周辺に置かれていた。また、そのつながりから排除されたり、闇で苦しんだりする人々の苦しみや悲しみを癒して歩いた。
今朝の聖書では、そのような状況の下、呻く気力すらない人の癒しから物語が始まるとの見方もできるだろう。先天的な特性として「口の利けない」ならば、イエス・キリストは口よりも先にまずその人の耳を開くはずだ。しかし今朝の箇所は違う。主イエスは悪霊を追い出して癒しを行なう。福音書の書き手が関心を寄せるのは、その後の顛末だ。驚嘆する群衆の一方で「悪霊の頭ベルゼブル」とイエス・キリストをなじる声が響く。イエス・キリストはそんな「彼らの心を見抜いて」言われる。単に言い返すのではなく、反論の余地なしに、である。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくのか」。ベルゼブルが意味するものは何か。イエス・キリストは「ベルゼブル論争」の暗示するものとして、世にある国々を引き合いに出す。国で内部抗争が起きようものならば人は住めなくなる。いのちの居場所はどこにもない。この争いが教会に生じるならば、人は静かにその場から去っていくだけだ。
続いて「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁くものとなる」。神の審判が及ぶまでもなく、その人自らの語ったキリストへの冒涜の言葉が、語る者自身に突き刺さる。その限りでは因果応報の論理があるようにも思える。しかし、この論理の破られる瞬間が訪れる。主イエスの次の言葉がそれだ。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエス・キリストの癒しのわざは、わたしたちにとって、今は隠されている神の支配の先取りである。もちろん神の国では、手練手管を弄する人の力は埒外に置かれる。だからこそイエス・キリストは次の言葉を語る。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉と並んで、武力や権力に基づく、神を見失った争いの空虚さをイエス・キリストは看破した。盛者必衰の理でもある下剋上の考え方と、主イエスの教えは異質であり、この世界観を無力化するのが、神の支配という着想に示される出来事だ。「悪霊の頭ベルゼブルの力によるもの」だとか「天からのしるしを示してみよ」と罵る者にまで神の支配は及び、神の愛の勝利が実現する。そして恫喝や萎縮の中で押し黙る他ない人々は自由にされ、高らかに讃美の声をあげる。
イエス・キリストは、沈黙する人の手を決して固くとって離さない。様々な危機が叫ばれ、問題提起がされる世にあって、教会にはまだまだ働きの伸び代があるように思えてならない。なぜならばイエス・キリストを仰ぐというわざは、常に実験的性格を伴うからである。信仰とは実験であると内村鑑三は言った。科学技術の実験の世界にあって失敗は発明の母である。その点では信仰の実験も何ら変わらない。「悪霊が出ていくと、口の利けない人がものを言い始めた」。沈黙するほかなかった人の手を、イエス・キリストは自ら握ってあらゆる萎縮から解き放つ。そしてそのときに応じた多彩な交わりのかたちが創造され、育まれていく。幼子の手を母親が握りしめるように、イエス・キリストは固く手を握り、わたしたちをふさわしい道へと導いてくださる。だからこそわたしたちは恐れることなく人生を舞台とした信仰の実験を続けることができる。家制度を体よく用いて利権を貪り、意に反すれば報復さえ待ち受けるベルゼブルの集いを意に介さない、全く異なる世界へと通じる道がそこにある。


2019年3月10日日曜日

2019年3月10日(日) 説教

「キリストの足跡をたどる」
ルカによる福音書4章1~3節
説教:稲山聖修牧師
 オリンピックを前に国がらみの情報操作が露骨になってきた。今朝の箇所はイエス・キリストが荒野で試みに遭う場面。試みる者は「悪魔」とされるが、今朝は紋切り型のイメージは置いて「神ではない者」として理解する。これにより、イエス・キリストが味わった誘惑が決して他人事ではないと感じられるようになる。今朝の箇所の始まりとして、イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を授かった後、聖霊に満ちてヨルダン川からナザレに戻り、なぜか荒野の中を「霊」によって引き回され、四十日間誘惑を受けたという物語全体の枠組みが記される。この文言からは、イエス・キリストは心備えや準備のないまま荒野に放り込まれたのが分かる。そして四十日という期間の間際になって、誘惑の「真打ち」が現れる。「神ではない者」からの誘惑だ。誘惑の根本となる第一の言葉は「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」。イエス・キリストは空腹の中でこの誘惑に襲われている。このような空腹の中になくても、わたしたちも暮らしの困窮について実に敏感だ。しかし、この誘惑に屈するならば、イエス・キリストは神でない者の言われるままとなる。この危機に対して主イエスは、旧約聖書の『申命記』8章3節「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」を用いる。「『人はパンだけで生きるものでない』と書いてある」。

次の誘惑は「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。イエスを高く引揚げるのは、かつてモーセの時代にエジプトの奴隷を解放した神だけができるわざであり、神ではない者には不可能だ。もしそれをしようものなら、排除を伴う強引さを伴わずにはおれない。しかしわたしたちの世にあっては却ってこの強引さが「やり手」「豪腕」として高く評価さえされる。暴力と隣り合わせの権力を持つ者があらゆる力と繁栄とを見せて、イエス・キリストに屈服せよと迫るのだが、キリストはそれすらも拒む。この誘惑にキリストは『申命記』4章13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」を返す。神との関わりを絶ったこの一切の権力と繁栄よりも、キリストは奴隷解放の神との関わりを上位に置く。神なき権力と繁栄とが覆っている世にあって、わたしたちは別の仕方で暮らしを顧み、暮らしに向き合う道を知っている。
そして最後の誘惑。この箇所の恐ろしさは、誘惑の言葉として聖書が用いられているところだ。「悪魔はイエスををエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』。」これは『詩編』91編11~12節の完全コピー、いわば完コピだ。聖書の言葉による誘惑。もし困窮の極致に棄ておかれ、この誘惑に遭うならば、わたしたちはいとも簡単になびいてしまうのではないか。耳障りのよい話や、感情を高揚させるメッセージ、さらには聖書を用いて戦争を正当化する演説。これこそが神の言葉への冒涜であり、神を道具とすること、すなわち試すことに他ならない。この誘惑に、キリストは『申命記』6章16節「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない」を返す。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とある。一時的な撤収の後、悪魔は再びやってくると『ルカによる福音書』は記す。それはイエス・キリストの生涯では十字架への道行きとその苦しみにおいて、そして神の前での教会の態度表明の不徹底さや、わたしたち各々の暮らしの判断の甘さの中に潜む。このような甘い言葉にどのように向き合えばよいのか。それは、イエス・キリストの歩みをたどりつつ聖書を味わうことだ。そして日々の暮しの中でイエス・キリストに深く根を降ろすことだ。イエス・キリストの足跡をたどり、その智恵を授かりながら、暮らしや教会の閉塞感の源である、錆びたドアノブに手入れをしつつ扉を開くわざこそ、受難節の始まりにふさわしい。

2019年3月3日日曜日

2019年3月3日(日) 説教

聖書:『ルカによる福音書』9章12~17節
タイトル:「開かずの扉が開くとき」
稲山聖修牧師

一日が終わる。イエス・キリストを追って集まった群衆は帰らない。弟子には不安と恐れが生じる。そして耳元でささやく。「群衆を解散させてください」。人数が増えれば不安が生れ、少なければまた呟きが生まれるというその人間くささが露わな箇所。けれどもイエス・キリストの態度は変わらない。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子の狼狽えに対する洞察にもまた鋭い目を向ける物語の書き手は、その狼狽えの理由を記す。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かない限り」。五つのパンと二匹の魚が可能性として描かれる『マルコによる福音書』と『ヨハネによる福音書』とは異なり『ルカによる福音書』の場合は狼狽えの理由、消極的な態度表明となる。要するに言い訳だ。けれどもキリストは、この僅かな食糧を、開かずの扉を開ける鍵として用いる。イエス・キリストは「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と命じる。そして粗末な糧に、天への讃美の祈りを注いで、割いて弟子たちに渡す。五つのパンと二匹の魚が増えたとはどこにも書いてはいない。しかしそこで奇跡が起こる。五十人ずつ座っていた、貧しいはずの人々の中で、後生大事にとっておかれた僅かばかりの食糧が、献げられた祈りに応える仕方で分かち合われる。僅かばかりの糧を分かち合う人々の群れには交わりが生まれている。今朝は「全ての人が食べて満腹した」、すなわち満たされたところに関心を向けてみる。「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる」。『ルカによる福音書』に記された、山上の垂訓には、神の支配の訪れが大いなる希望として記される。もたらされた交わりは、イエス・キリストを通して、今日でいうセーフティーネットワークを作りあげている。群衆はもはや他人同士ではない。再起する力と希望を、心身ともにイエス・キリストから託された「民」となった。「できない」という開かずの扉が開かれた。キリストによって集められた民となったその輪から、弟子たちに実りが新たに授けられる。「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」。弟子たちにはパンと魚は不安をかき立てるマイナス要因でしかなかった。しかしこのつましい糧がイエス・キリストの祈りの中に置かれたとき、飢えた人々を満たすだけでなく、その交わりを通してもたらされたパン屑が不安に苛まれた弟子たち、言い換えれば教会をも満たした。イエス・キリストの時代にはもはや政治的な拠点となり果ててしまった、歴史的な意味でのエルサレムの街とは異なる場所で、飢えた人を見たし、夢破れた人々を立たせる交わりの徴が、他ならない教会であった。
キリスト教会では用いられない和暦「平成」も三十年を数えて終わろうとしている。世界的には冷戦構造が崩壊し、どの国にも排他的な国家主義が大手を振って歩いている。そしてわたしたちの暮らす場。「一億層中流」、そしてバブル期に湧いた時代から一転して、規制緩和に伴う格差がいたるところで蔓延している。誰もが他人を顧みず、飢えた時代にはなった。そこに希望はあるのだろうか。バブル崩壊後に就職活動に励み、ようやく就労できたのも束の間、法律が次々と改められては、被雇用者にしわ寄せがいくしくみが作られた。税金も福祉や教育には容易には還元されない。生活保護を申請するよりは貧困の道を選び、あるいは社会保障制度を知らないことから起きる暴力と涙と憎悪が世を覆っている。その中に立つのだからこそ、教会に託された責任は大きい。わたしたちはイエス・キリストの開いた可能性に賭ける民である。