ルカによる福音書9章28~32節
説教:稲山聖修牧師
人の子イエスの姿が山の上で変わるという「山上の変容」の箇所。この箇所の理解は、イエス・キリストが自ら定めた苦難の道を語るという先週の箇所との関わりなしには難しい。救い主が世の権力者から苦しみを受けた果てに十字架刑によって生涯を終える。そしてその三日後に復活することになっている、との告白。この歩みは古代ユダヤ教のメシアのあり方としてはあってはならない。だから実際にはその時代のユダヤ教徒であった弟子たちは動揺を隠せない。しかしそのおののきが十字架でのイエス・キリストの死、そして復活のイエス・キリストのいのちが示す事柄を明らかにする。全ての人が受けるべき神の裁きをわが身にひき受けた姿が十字架に、世の混乱や分断、憎悪や殺意に対する勝利者としての姿が復活に示される。その道筋には神の愛による支配が直接人間に臨み、世の仕組みを覆していくという出来事が圧縮して語られているという。いわば聖書の全て、福音の総内容が弟子に迫っていく。
すなわち「この話をしてから八日ほど経ったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた」。つまり初めてイエス・キリストに従った、弟子たちがイエス・キリストに従って山、すなわち高みへと登っていく。旧約聖書で神ご自身のメッセージが語られた場所が「山」である。
弟子が見た出来事とは何か。それはすなわち「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。「山上の変容」の箇所では、モーセは旧約聖書では「モーセ五書」とも呼ばれる律法『トーラー』、エリヤは多くの「預言者の書」『ネビイーム』を代表する人物だ。モーセもエリヤも、イスラエルの民の迷いや躓き、憎悪や反乱に苦しみながら、神の救いの約束の確かさを説いて導く役目を担った。同時に二人はイスラエルの民の泥を被り、泥まみれの杯をあおぐ役目を担いもした。そのような人々が告知した、神の救いの歴史、すなわち「救済史」の頂点にイエス・キリストは立つ。キリストは、聖書に記された「アブラハム・イサク・ヤコブの神」、虐げられた民を解放する、「父なる神」を仰いでいるのだ。弟子たちには、そしてわたしたちにも神の支配はおぼろにではあるが、深く関わっているのは間違いない。わたしたちはその救済史を土台とするところの教会の交わりに連なっているからである。
そして神の栄光に包まれたイエス・キリストに、弟子たちはわけの分からない言葉がけをする。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。「ペトロは何を言っているのか、分からなかった」。身体中の痛みと疲労困憊の中で睡魔に襲われながら眺め観たイエス・キリストが、聖書の言葉の完成体であったと、誰が分かるというのだろうか。ペトロと仲間が聞き及んだのは、山に漂う霧と雲に包まれて視界が遮られていく中で響く神ご自身の声だけだった。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声。しかし、預言者でも指導者でも何でもない「凡庸な人」であるはずのペトロにすら「これに聞け」との声は、確かに届いたのだ。
イエス・キリストの顔の様子が変わるとき、弟子たちもまた、その姿に応えようと新しい歩みを起こそうする。神を見つめたその顔は栄光に輝いている。そして、たとえ的外れであったとしても、栄光のキリストを仰いだところから始まる弟子の歩みは前向きである。試行錯誤の連続がそこにある。恐れない挑戦こそが、その時代に弄ばれず、うろたえもせず、しかし真摯に隣人に向き合っていく道が拓ける。聖書と祈りの言葉なくしては、教会は立つことはできない。関連する事業もまた同じである。時代の転換期にあってわたしたちが動揺せずにすむのだとしたら、実のところはもっと大きな、較べようもないいのちの転換のわざを基にした時の流れ、つまり、生から死へと進む時間ではなく、死にうち勝った復活から始まる歴史のただ中に置かれているからである。排除や否定という道筋ではなく、養い育むという視点に立ち、イエス・キリストを軸にして新年度の歩みを始めよう。