2019年2月3日日曜日

2019年2月3日(日) 説教「新しいぶどう酒、熟したぶどう酒」 稲山聖修牧師

2019年 2月3日
「新しいぶどう酒、熟したぶどう酒」
聖書:ルカによる福音書5章33〜39節
説教:稲山聖修牧師

シンガーソングライターの中島みゆきの『時代』が、もはや懐メロになってしまうほど、時の流れや人の思いの変化は早い。その意味で主イエスが葡萄の木やオリーブの木を教会の交わりに重ねたり、本日の箇所のようにぶどう酒とその容れ物である革袋の譬えは巧みだ。農場にある葡萄の木やオリーブの木は接木によって本数を増やしていく。新しい接木が用いられ、地に深く降ろされたオリーブや葡萄の根も、結びつけられた地上の枝も、お互いがお互いを活かすという間柄となる。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」。最近では値打ちあるジーンズは、新しいものよりも古着のほうだという。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」。この譬えでは、新しさと古さとは対照的な関係にありながら、優劣の問題はテーマにはされていない。むしろ古いぶどう酒、つまり熟成された、ビンテージワインだけがもつ香りと味わいを、人の子イエス・キリスト自らが堪能されたかのような表現すら見受けられる。「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない」。

ただし新しいぶどう酒の新鮮さを凌ぐ、熟成されたぶどう酒に誰もがなれるわけではない。多くのぶどう酒は、熟成の過程がうまく行かず「酸いぶどう酒」、つまりワインビネガーになってしまう。発酵が経験則のみに頼り、科学的には解明されなかった時代にはなおさらだ。新しい布地と古い布地、新しいぶどう酒と熟成したぶどう酒は各々尊い価値があるというのに、無分別につぎはぎしたり、混ぜ合わせたりすることで、それぞれの良さを失ってしまうところか、そのものとしては誰にも喜ばれない品物になってしまう。ある者は教会の伝統にこだわる、ある者は無分別に他教会の倣いを引き合いに出す、業績の欲しい研究者は最新の教会のモードはこうだからと、カタログを引き合いに出すように雑誌に文書を掲載する。試みとしては確かに大切なわざであっても、責任が伴わなければ、布地は汚れ役に徹してでも人をきれいにする台ふきにすらならず、料理に使えば喜ばれるビネガーにすらならない、どれもこれも廃棄処分にされるほかに道がないという残念な結果となる。果たして人間は、この顛末の責任をすべて担えるというのだろうか。

福音書ではイエス・キリストが受難の十字架において、酸いぶどう酒を突きつけられていた。『マルコによる福音書』では葦の棒につけた海綿に浸された酸いぶどう酒を飲まされようとする。その酸いぶどう酒は腐ったぶどう酒、要するに雑味ばかりの酢でしかない。十字架刑に処せられた者の苦しみをただただ長引かせるための工夫である。さらに『ルカによる福音書』では侮辱の意味も重ねられ、キリストは酢を飲まされようとするのだ。ついに『ヨハネによる福音書』では、この腐敗した酢を受けたとさえ記される。イエス・キリストの受難は、祈りのうちに行なわれた断食に伴う聖なる苦しみではない。救い主は侮辱を受けながら死にいたる。しかし同時にわたしたちは、イエス・キリストの葬りの後に起きる出来事もまた知っている。イエス・キリストは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びの中で、神に見捨てられたというわたしたちの絶望をさえ、分かち合ってくださった。だから、「神は死んだ」との言葉を、わたしたちは恐れることはない。その通り、イエス・キリストは十字架で死に給うたのだ。古い革袋が破れ、新しいぶどう酒があふれ出たとしても、そのぶどう酒は新しい流れとなって、神の支配の芳しい香りを運ぶ。不正な権力が栄えては滅び、常識すら流転するこの世にあって、イエス・キリストに示されたいのちのよろこびは、あまねく世に響く。世代を超え、世代をつなぐ自由でフレッシュなありかた。イエス・キリストに根を降ろした交わりが、変わらない居場所として、すべての世代に拓かれている。その居場所を、わたしたちはあなたとともにしたいのです。