「何が最も大事なのか」
ルカによる福音書6章6節~11節
稲山聖修牧師
けれども、キリストに挑みかかる律法学者やファリサイ派の人々は、この「できる」ということを見落としている。会堂にいたところの、手を動かせない人への癒しを陥れの口実としてあげつらう。律法学者は安息日が身体に痛みや破れ、また生きづらさを抱え続けている人々にとっては癒しの日でもあるということに実に無頓着だ。この無頓着さの源は何か。思うにキリストの論争相手には、律法が神の祝福の言葉としてではなく、他人に自分のありかたが正しいと認めさせるための、承認欲求を満たす手段以上のものではなかったことを示しているのではないだろうか。ファリサイ派や律法学者は律法の遵守に関しては確かに一所懸命だった。けれどもその一所懸命は、人を活かす神の祝福の言葉としての方向では理解されなかった。
単に一生懸命であることと誠実であることとは似て非なるものだ。誠実さとは誰かとの関わりを示しており、ことわたしたちにとっては神との関わりに根ざしている。したがってそこには神による抑制と冷静さが常に伴うものだ。しかし、空回りする一所懸命さは、自分はおろか他人でさえも深く傷つけるという取り返しのつかない事態を招く。「あなたがたに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。
わたしたちの交わりにとって大切なのは、礼拝が「手の萎えた人」とともに立つイエス・キリストを中心にしたものであるかどうかによって、立ちもし倒れもすることだ。厳粛であれ賑やかであれ、礼拝がいのちを活かす場ともなっているかどうか、よろこびのわざとなっているかどうかが肝心だ。家族のありかたや、人のありかたが多様化した時代、厳格さや厳粛さを堅く守り、若いころ薫陶を受けた倣いに基づく礼拝だけが全てではない。スイスの教会でさえ礼拝出席者の少なさと壮麗な教会の維持費のバランスをとるために、教区持ち回りで礼拝を行なっている。多くの名著を世に送り出した由緒あるキリスト教の出版社も倒産する。その一方で、アブラハムの神に立つ民として見た場合、イスラームの人々は一日5回の祈りを欠かさない。
わたしたちはどこにいてもイエス・キリストに根を降ろしている。これを確かめるわざこそ教会にはもっとも大事である。変わらない聖書の言葉、またその言葉を証しするわざによって、礼拝出席が講義への出席であるかのような誤解から解放される。「あなたがたに尋ねたい」と主イエスは今なおわたしたちに問いかけている。