「崖っぷちに連れて行かれても」
聖書:ルカによる福音書4章20〜30節
稲山聖修牧師
続く「預言者は自分の故郷では歓迎されない」という言葉の事例として旧約聖書の物語が引用される。イエス・キリストは、異邦の民にあらわになるアブラハムの神の救いを指摘するだけに留まらず、絶えずわたしたちの外部から救いの出来事は及ぶのであって、あなたがたの望む通りの業績という仕方では必ずしも訪れないと村人を突き放す。
村人の讃美の声は一転して罵声に変わり、イエス・キリストを追い出すどころか、街の外の山の崖っぷちまで連れて行き、突き落とそうとするような殺意に沸き立つ。しかしこの結果、明らかになったことがある。それは、神の救いの出来事は、わたしたちの思い通りにはならないということ、けれどもそれは神がわたしたちとの関わりを否定しているということではない、ということだ。救いの出来事は、時にわたしたちにとっては実に心外な、憤りの念すら起こさせることすらあり得る。イエス・キリスト自らもまた、自分の家族や村社会とのトラブルから無縁ではなかった。『ヨハネによる福音書』には「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」との言葉がある。まことの友はおべんちゃらばかりを言うわけではない。逆に言えば、イエス・キリストの仲立ちのもと、あえて諫めの言葉を伝えなければならない場面に出くわすこともある。けれどもそれは、相手を否定したり、追い出したりしようとするのではなく、相手を深く愛すればこそ、注意深く、時と言葉を選んで語りかけられる言葉である。そして聖書の言葉に基づくのであるならば、それはまさしく語る側も、聴く側も、連帯して責任を担うべき交わりを育む言葉となる。わたしたちはついつい、自分の現状をただちに肯定していくれる、お手軽で甘い言葉ばかりを聖書のなかに求めがちではある。しかし、果たしてそれはいかがなものだろうか。むしろ深く静かに、本当にそれでよいのかと問いかけ、わたしたちに気づきを促してくださるのが聖書を通して響く神の言葉なのではないか。祈りの中で聖書の言葉を味わうとき、わたしたちはいつのまにかイエス・キリストが露わにされた世界の中に立っている。
イエス・キリストは、崖っぷちに立たされて、なおも次のステージを切り拓く道を、わたしたちのために整えてくださった。イエス・キリストが拓く道とは、崖っぷちでも恐れずに済むような道だ。教会以外には救いはないと言ったとき、救いのわざは教会の交わりの内側に留まるが、イエス・キリスト以外に救いはないと堂々と告白するとき、限界だと思い込んでいる壁を、イエス・キリスト自ら、外側からこじ開けてくださるのである。教会が閉塞感に喘いでいるとするならば、それは誰の責任でもない。わたしたちのありかたが招いている課題である。世の倣いでなしに、神の真理に基づいて扉をノックしているのは他ならないイエス・キリストだ。扉を開き、神の真理に基づいて言葉に耳を傾け、殻を破っていく勇気にあふれて歩みたい。