「あなたはわたしの愛する子」
ルカによる福音書3章15節~22節
説教:稲山聖修牧師
イエス・キリストを指す一本の指としての役割を全うした洗礼者ヨハネ。『ルカによる福音書』ではマリアとの親戚との間柄、すなわちイエス・キリストとの親類として描かれる。『ルカによる福音書』では、洗礼者ヨハネの働きを、ローマ皇帝の支配の及ぶ全ての世界に向けて発信される神のメッセージだとして描く。だから3章15節の「民衆」とは、さまざまな仕方で、その時代に救い主を待ち望まずにはおれなかった人々全てを指している。だからこの箇所での「メシア」とは旧約聖書の文脈に立つのかどうかは曖昧なところがあるだろう。けれども確かなのは、この箇所でいうメシアとは、ローマ帝国の支配を否定したり、覆したりするという破壊行為に及ぶメシアではない。なぜならば他の福音書と異なる『ルカによる福音書』の特徴とは、物語の節目に盛んにローマ皇帝の名前を用いるからだ。その上で、異邦人とイスラエルの民との交わりを、マイナス要因にではなくてむしろ積極的に意味づけていこうとする面が強い。歪んだ、かつ偏狭な選民思想や民族思想はかけらもない。
「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」。洗礼者ヨハネはユダヤ教徒と異邦人の混在する「民衆」の心の声を聞き届ける。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」。洗礼者ヨハネが授けている洗礼とは、清めを意味する水の洗礼であり、教会の聖礼典としての洗礼ではない。だからヨハネは語る。「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。書き手はヨハネのメッセージを記した後、領主ヘロデによって身柄を拘束されるところで、一旦筆を置く。
とはいえ洗礼者ヨハネがこの物語で、主イエスをメシアとして確信していたかについては甚だ疑問だ。なぜなら、後に彼は囚われの身にある中で、二人の弟子を遣わして主イエスに問うからだ。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。つまり、『ルカによる福音書』で洗礼者ヨハネは「我知らずして」メシアであるイエス・キリストに洗礼を授けているということになる。確かに洗礼者ヨハネは目の前のイエスには気づかなかった。しかしイエス・キリストはメシアとして洗礼者ヨハネの希望になっていた。
さて、ローマ皇帝の支配を時に肯定的にさえ描くその陰で、物語の書き手は、民衆のone of themとして清めの洗礼を授かった主イエスの祈りの中での出来事を記す。その中で響く言葉はこれだ。「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という言葉が天から聞こえた。「あなたはわたしの愛する子」。実はこの言葉は、キリストが自らの死と復活を予告した後、弟子たちを連れて山に登り、その姿を変えて、モーセとエリヤ、つまり、律法と預言者という、旧約聖書を代表する人々と語り合う場面で戸惑うペトロとヨハネ、ヤコブに響く「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」との言葉と見事に重なる。旧約聖書の歴史の道筋をたどりながら、イエス・キリストは、救い主として全ての民を包み込むわざを貫徹する。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、人を死の闇の中からいのちの光の中へとひっぱりあげる。新たな年を明けて、兄弟姉妹を天に見送ったわたしたちではあるが、「わたしの愛する子」と呼ばれるキリストと主なる神との絆の中で、わたしたちもまた常に、神の支配への中へと、ひっぱりあげられている。その先には、決してこの世とは分断されない天の国があり、「主の祈り」には「御国を来たらせ給え」と刻まれる、神の国が整えられている。教会は烏合の衆ではない。井戸端会議の場所でもない。まさに神の国のモデルとして整えられなければならない。そのときに初めて、天に召された仲間との再会の希望を、主にある生き方の軸に据えられるのだ。