2018年8月12日日曜日

2018年8月12日(日) 説教「沈黙しない者の声に宿る神の力」稲山聖修牧師

2018年8月12日
ローマの信徒への手紙10章1~4節
マルコによる福音書10章46節~52節
「沈黙しない者の声に宿る神の力」 

説教:稲山聖修牧師

 身悶えするような苦しみからの叫びに蓋をする。その残酷な振る舞いは、まずは創世記のカインとアベルの物語に示される。アベルは遊牧・牧畜という、家畜の食糧を求めて絶えず移動生活を強いられる人々を象徴すると言われる。それに較べると、カインは地を耕す文明を代表しているとも考えられる。地を耕す文明は収穫物を蓄え富と繁栄を築ける。しかしアベルの場合にはそうはいかない。創世記が伝えようとする神は、虐げられた、弱い者とともにいる神である。そして自覚のない高慢な者をお喜びにはならない方でもある。だからこそ神はアベルの献げものに目を留めるものの、カインの献げものを顧みない。カインは自覚なき高慢な者ゆえにその理由が分からず激しく怒った挙げ句、アベルを殺害するにいたる。アベルの殺害後、神の問いかけにカインは答える。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。問いかけた神に対して「知るか」と口答えをしているカインは、神の言葉に耳を傾けようとはしない人のありかたを示すようだ。神はこの口答えを受けて答える。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。どれほど隠蔽しようとしたところで、土の中から叫ぶ声があるのだと創世記の物語は迫る。
 今朝の福音書の箇所では、バルティマイという盲人の物乞いが描かれる。バルティマイの説明としては、ティマイの息子とあるだけだ。この説明が示すのは『マルコによる福音書』の書き手は、物語の聴き手や読み手を異邦人に絞り込んでいることが考えられる。盲人の物乞いに誰が目をかけ、注意を払うというのか。しかしバルティマイは、イエス・キリストが近づくと知るや、突如物乞いとしての希望を失ったあり方から一転して叫び始める。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。「憐れむ」という言葉は、わたしたちが普段口にする相手への同情という意味合いを超えている。それは苦しみを分かち合う姿勢を求める叫びであった。一体誰がこの叫びに耳を傾けたというのか。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」。時に暴力をも辞さず、口を塞ごうとした可能性すら考えられるだろう。けれどもバルティマイは黙らない。あらゆる妨げにも屈することなくキリストとの関わりを求める。主はこの叫びを聞き給うた。「あの男性を呼んできなさい」。喜びに満たされた物乞いは主イエスと語り合う。「何をしてほしいのか」。バルティマイは答える。「先生、目が見えるようになりたいのです」。物乞いは見えるようになり道を進まれるイエスに従った。
 それではバルティマイは何を見るというのか。その目に映るのは、イエス・キリストの受難の歩みだ。バルティマイが求めた憐れみとは、十字架の苦しみにまでいたるキリストの共苦にある。しかしキリストの苦しみは十字架での死によって終わるのではない。復活といういのちの勝利がバルティマイに迫る。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。パウロは自らのためには祈ろうとはしない。自分の義しさを求め、支配欲や権力欲の虜となった人々の救いのために神に叫ぶことを躊躇しない。御子を世に遣わした主なる神は、悲しみの中で沈黙できない声を軽んじることはない。主イエスが身代わりになって語ってくださるその声には、神自らの力が宿る。それは聖霊の力である。神の前に祈りを断念する態度は、聖書には記されてはいない。わたしたちは、神の愛の力によって背中を押されている。土の中からの叫びが、神の言葉として響くとき、神なき権力と繁栄を求める者はその力を失う。主の平和をともにしよう。