2018年8月26日日曜日

2018年8月26日(日) 説教「和解の道にいのちの光あふれて」 稲山聖修牧師

2018年8月26日
「和解の道にいのちの光あふれて」
ローマの信徒への手紙10章10~13節
マルコによる福音書12章28節~34節

稲山聖修牧師
エルサレム入城後の、とある律法学者とイエス・キリストとの対話。そこには論争や主イエスの揚げ足取りの雰囲気を微塵も感じない。サドカイ派との論争を聞いた律法学者がイエスの前に立つ。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』」。「立派にお答えになったのを見て」。これは充分かつ明瞭な答えを聞いたということだ。サドカイ派に反しファリサイ派の律法学者は死人の復活の教えを尊んだ。律法学者の問いかけにイエス・キリストは答える。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である』」。「イスラエルよ、聞け」。ヘブライ語では「シェマー・イスラエル!」。イスラエルの預言者、そしてアブラハムの神の呼びかけが響く。この言葉は、ユダヤ教の民が現在にいたるまで、時と場所を問わず用いてきた言葉だ。そして主イエスが用いるのは『申命記』6章4〜5節。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。続いて「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』」。これは『レビ記』19章17‐18節。万一わたしたちがこの言葉を軽んじるなら教会はどうなるというのか。おそらく世と時代状況におもねるばかりのあり方しか残らないだろう。要は人を相対化できないあり方しか、教会には残されてはいないこととなる。
 それでは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を真摯に受けとめるならば、教会はどうなるのか。隣人を自分のように愛するわざとは、交わりにおける他者への奉仕という具体的なわざも含む。しかし一歩踏み込むと、どのような出来事があったとしてもお互いに相手への恨みつらみを遺さないという態度も伴うのである。仮にどれほど激しい言葉が交わされたとしても、その日が終われば「ノーサイド」。試合を終えたラグビーの選手がそうするように、激しさを翌日には持ち込まない。そのような態度もまた、隣人を愛するわざに入るだろう。それはやがて和解の道へとつながり、わが身を顧みての悔い改めの展望として広がっていく。
「あなたの神である主を愛しなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」。この教えを前にして、律法学者はどのように応えたのか。「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃる通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くして、知恵を尽くして、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げものやいけにえよりも優れています』」。律法学者はなぜこのように応えることができたのか。『詩編』51編には「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とある。ユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグで用いられる交読文としても詩編は用いられていた。律法学者はこのように主イエスを讃えたのだった。
この祝福に満ちた関わりをもたらすため、イエス・キリストは和解の主として数多の対立の只中に立ち、わたしたちの交わりに連なるそれぞれの暮らしの中にも立つ。それはキリストの受難と復活、そして続くパウロのわざを包む神の愛の力である聖霊の力により明らかとなる。パウロの語る「すべての人」にはユダヤ人、ギリシア人に留まることのない、底知れない福音のスケールがある。その大きさと深さは、暮らしをキリストに根を下ろすことによってのみ知らされる。わたしたちも、そのようないのちの光にのみこまれているのだ。この確信を大切にし、日毎に養っていきたい。