聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~14節
古代の人々には特別の力が宿るとされた言葉の力は今も変わらない。人を傷つける言葉もあれば癒したり、支えたりする力。公言された文書で国々が仲良くもなれば争うこともある。言葉をめぐるドラマに旧約聖書のバベルの塔の物語がある。天まで届く塔のある町を建て有名になろうとする態度。その昂ぶりを神は赦さず言葉を混乱(バラル)させ、バベルとの町の名の語源となったとの話。多くの言葉の由来を示すのではなく、実は高い技術力をもった人々が、その昂ぶりによって意思疎通が不可能になるとの話。救い主を待ち望む民はこれが現実だと辛酸の中で受けとめた。
その厳しく透徹した現実認識は、世界が神の言葉によって創造されたとの確信に立つ。「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」。創世記の言葉はヨハネ福音書では次のように理解される。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。風が吹こうが雨が降ろうが消えない命の光。その光は闇が深まるほどにその輝きを増す。人のもたらした嵐吹く世に灯された命の光が神の言葉のうちにあったと福音書は語る。
ローマ帝国に征服された民には世は混沌としたままであった。一つの民を分断し、いがみ合わせ、力づくで平和を維持しつつ統治するのが「ローマの平和」。行き詰まりと諦めと絶望が覆う世。しかし神の言葉は一切ぶれない。14節にある通り「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」からだ。言葉は肉となって私たちの間に宿られた。それは神の御子が、時に砂漠をさすらうような不安に支配される肉の欲の中で、他者との交わりを支配しようとする人の欲の中で翻弄されるわたしたちの痛みをともにしてくださったことにほかならない。主イエスが生まれた場所は塹壕と同じように不衛生な飼い葉桶だった。その救い主が、自ら考えることを諦めて噂に翻弄される人々に、神の子となる資格を与えるために、世の常識を突き抜けた神の真理を語り、世を新たにする突破口を開き、神の国への展望を開き、その代償としての苦難を担われた。本日は2016年最後の礼拝でもある。様々な思いと気持ちが去来する。しかしすべてを包むのはイエス・キリストに示された神の愛の光なのだ。メリー・クリスマス!
2016年12月25日日曜日
2016年12月24日土曜日
2016年12月24日燭火礼拝「飼い葉桶をつつむ光」稲山聖修牧師
聖書箇所:ルカによる福音書2章8~20節
クリスマス物語で描かれる羊飼いは法律の保護外に生きるアウトロー。この底辺に暮らす人々に現れたのは、主の天使である。しばしば天使は翼をもつ姿で描かれる。超越的な神の力がそこには示される。上からの光が羊飼いを照らす。神の希望と栄光の光、祝福の光。この光に包まれて恐れる他ない羊飼いに語りかける言葉は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。それは「民全体に与えられる大きな喜び」として遍く告げ知らされる。格差の問題はクリスマス物語の中では現代以上に深刻であった。この格差を突き崩す大きな喜びが告げられる。天の大軍が示す人には及ばぬ神の力とともに。
神の力は決して空想的な仕方で世に臨まない。人があらゆる鎧で身を固めていることを知っている。この武装を解除する神の力は、飼い葉桶に眠るメシアに相応しい姿に人を変える。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」との平和の宣言が響くのはそのためだ。
天使たちが見えなくなった後、羊飼いにはそれまでには考えられもしなかった力を授かった。地主の柵の中で羊を飼うあり方から、誰にも赦しを乞うことなしに「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という固い意志であり、決断だ。この力は御使ガブリエルがマリアに身籠りを伝えたその力と同一であるとも読み取れる。その力を伝えようとルカによる福音書は何の案内もなしに、文字の読み書きも出来ないはずの羊飼いたちが迅速にマリアとヨセフ、また飼葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたと記す。底辺にいたからこそ、辛酸をなめたからこそ「民全体に与えられる大きな喜び」に実に正直に応えていく姿が描かれる。
幼子はやがて成長して語る。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」。平和や温かさや癒しを求めていた人々は、自ら平和を築き、人々を暖め、癒す力を備えられる。羊飼いは今や幼子の誕生を照らす光を映し出す鏡として働くようになる。「羊飼い達は、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、讃美しながら帰っていった」。クリスマスイヴの夜、私たちも同じ道を辿りたい。
クリスマス物語で描かれる羊飼いは法律の保護外に生きるアウトロー。この底辺に暮らす人々に現れたのは、主の天使である。しばしば天使は翼をもつ姿で描かれる。超越的な神の力がそこには示される。上からの光が羊飼いを照らす。神の希望と栄光の光、祝福の光。この光に包まれて恐れる他ない羊飼いに語りかける言葉は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。それは「民全体に与えられる大きな喜び」として遍く告げ知らされる。格差の問題はクリスマス物語の中では現代以上に深刻であった。この格差を突き崩す大きな喜びが告げられる。天の大軍が示す人には及ばぬ神の力とともに。
神の力は決して空想的な仕方で世に臨まない。人があらゆる鎧で身を固めていることを知っている。この武装を解除する神の力は、飼い葉桶に眠るメシアに相応しい姿に人を変える。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」との平和の宣言が響くのはそのためだ。
天使たちが見えなくなった後、羊飼いにはそれまでには考えられもしなかった力を授かった。地主の柵の中で羊を飼うあり方から、誰にも赦しを乞うことなしに「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という固い意志であり、決断だ。この力は御使ガブリエルがマリアに身籠りを伝えたその力と同一であるとも読み取れる。その力を伝えようとルカによる福音書は何の案内もなしに、文字の読み書きも出来ないはずの羊飼いたちが迅速にマリアとヨセフ、また飼葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたと記す。底辺にいたからこそ、辛酸をなめたからこそ「民全体に与えられる大きな喜び」に実に正直に応えていく姿が描かれる。
幼子はやがて成長して語る。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」。平和や温かさや癒しを求めていた人々は、自ら平和を築き、人々を暖め、癒す力を備えられる。羊飼いは今や幼子の誕生を照らす光を映し出す鏡として働くようになる。「羊飼い達は、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、讃美しながら帰っていった」。クリスマスイヴの夜、私たちも同じ道を辿りたい。
2016年12月18日日曜日
2016年12月18日「来たるべき方の正しさ」稲山聖修牧師
聖書箇所:マタイによる福音書11章2~9節
救い主の訪れに備える道備え。洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指し示す最後の預言者。物語としてのクリスマス物語のないマルコ福音書でさえ、洗礼者ヨハネを決して忘れない。ルカ福音書ではイエスに先立ちザカリアとエリザベトから産まれるみどり子として、そしてヨハネ福音書では、光について証しするため神から遣わされた一人の人としての立場が明記される。
しかし本日の聖書箇所で洗礼者ヨハネは獄中であらためて自らの働きを振り返る。生きながらえることはないだろうとの不安の中で一人の預言者として苦悶する。そもそも預言者とは「予め言う」予言ではなく言葉を預かると記す。神の言葉を預かる者が預言者。預言者は旧約聖書ではアブラハムの神を見失い、イスラエルの民が己の欲得の中で人を虐げることも厭わず、権力者として己の力を過信し神から託された役割を忘れたとき、自らのいのちを顧みず諫めるとともに、同時に虐げられた人々を癒す働きかけを伴う言葉を神の言葉として証しした。その人は恐れつつ託されたわざを全うしなければならない。
囚われの洗礼者ヨハネも人づてに問う。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネの迷いがそこにはある。苦悶のヨハネに主イエスは語る。「人々の目は開かれ、うずくまる他に何もできなかった人々が立ちあがった。人々から排除されていた病人たちは交わりを回復し、聞く耳を持たなかった人々は、耳の聞こえなかった人々とともに神の言葉に耳を傾けることとなり、死はいのちに呑み込まれ、日々食うや食わずの他に道のなかった人々には喜びが告げ知らされている。なぜならそのような人はわたしに躓かなかったからだ」。ヨハネは働きが無駄ではないとの満足の中で神から託された役目を果たした。
教会の中でさえ聖書の語る事柄に目を閉じ、耳を塞ぐものがある場合、必ずその言い訳を求めようとして「噂」が生まれる。無責任な噂は人の心を歪ませる。しかしヨハネが伝え、キリストに成就を見た神の知恵の正しさはその働きにより明らかとなる。何も語らずに黙々と仕える人。己のためでなく隣人を満足させるために献身的に働く人。野心家ではないそんな人々が、飼い葉桶のみどり児の周りに集まるのである。人から何と言われようとも主イエスに仕える意志をもつ方々は幸い。その意志は己の意志ではなく、マリアの身体に救い主を宿らせた御霊の力による。その働きの豊かさは神の国の正しさを指し示す。
救い主の訪れに備える道備え。洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指し示す最後の預言者。物語としてのクリスマス物語のないマルコ福音書でさえ、洗礼者ヨハネを決して忘れない。ルカ福音書ではイエスに先立ちザカリアとエリザベトから産まれるみどり子として、そしてヨハネ福音書では、光について証しするため神から遣わされた一人の人としての立場が明記される。
しかし本日の聖書箇所で洗礼者ヨハネは獄中であらためて自らの働きを振り返る。生きながらえることはないだろうとの不安の中で一人の預言者として苦悶する。そもそも預言者とは「予め言う」予言ではなく言葉を預かると記す。神の言葉を預かる者が預言者。預言者は旧約聖書ではアブラハムの神を見失い、イスラエルの民が己の欲得の中で人を虐げることも厭わず、権力者として己の力を過信し神から託された役割を忘れたとき、自らのいのちを顧みず諫めるとともに、同時に虐げられた人々を癒す働きかけを伴う言葉を神の言葉として証しした。その人は恐れつつ託されたわざを全うしなければならない。
囚われの洗礼者ヨハネも人づてに問う。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネの迷いがそこにはある。苦悶のヨハネに主イエスは語る。「人々の目は開かれ、うずくまる他に何もできなかった人々が立ちあがった。人々から排除されていた病人たちは交わりを回復し、聞く耳を持たなかった人々は、耳の聞こえなかった人々とともに神の言葉に耳を傾けることとなり、死はいのちに呑み込まれ、日々食うや食わずの他に道のなかった人々には喜びが告げ知らされている。なぜならそのような人はわたしに躓かなかったからだ」。ヨハネは働きが無駄ではないとの満足の中で神から託された役目を果たした。
教会の中でさえ聖書の語る事柄に目を閉じ、耳を塞ぐものがある場合、必ずその言い訳を求めようとして「噂」が生まれる。無責任な噂は人の心を歪ませる。しかしヨハネが伝え、キリストに成就を見た神の知恵の正しさはその働きにより明らかとなる。何も語らずに黙々と仕える人。己のためでなく隣人を満足させるために献身的に働く人。野心家ではないそんな人々が、飼い葉桶のみどり児の周りに集まるのである。人から何と言われようとも主イエスに仕える意志をもつ方々は幸い。その意志は己の意志ではなく、マリアの身体に救い主を宿らせた御霊の力による。その働きの豊かさは神の国の正しさを指し示す。
2016年12月11日日曜日
2016年12月11日「夜明けは近い」稲山聖修牧師
聖書箇所:マタイによる福音書1章1~11節
ローマ帝国への抵抗戦争が失敗に終わり、エルサレムの神殿がローマ帝国の軍隊によって徹底的に破壊された結果、現代に通じるユダヤ教の形が整えられた。紀元90年頃。この年代は初代教会の時代と重なる。現代のユダヤ教とキリスト教は兄弟・あるいは姉妹のような間柄。異なるところはユダヤ教がメシアを待望する祈りに満ちているのに比べ、教会ではクリスマスの出来事がある点。
イスラエルの民の歩みが、教会に引き継がれるのかと問えば、マタイによる福音書の冒頭の系図を忘れるわけにはいかない。この系図は名誉や血統を証しはしない。系図に記されるタマルという名。創世記に登場するこの女性は、次々と亡くなるユダの息子たちの責を問われ、離縁に近い扱いを受ける。けれども彼女はあえて遊女に身をやつし、夫と関わりペレツとゼラを授かる。ルツという女性はヘブライ人ではない。彼女の祖とされるモアブ人の出自は父ロトと関わった二人の娘のこどもたち。このモアブの血を引くのがダビデ王である。
このような話は人を不安にさせるが、この系図では、イスラエルの民の栄光ではなく、破れに満ちた罪深い歩みを率直に述べているのは確か。神の愛の光が増し加われば、人の愚かな振る舞いもより鮮明になる。福音書の書き手は、苦しみ悶えの歴史あればこそ、人々は代々救い主を待ち望んでいたと語る。もし今朝の聖書の系図を血縁に則して読むならば、イエス・キリストの系図は崩れる。血縁で辿ればマリアの夫ヨセフで完成してしまうのだ。マリアが身籠ったみどり子イエスが父親との血のつながりがなかったことは、処女懐胎という福音書に記された秘義によって明らかだ。けれどもヨセフは、血のつながりがなかろうと、マリアとイエスのために生涯を献げる。イエスの育ったナザレでその名は忘れ去られるが、身籠ったマリアのために宿を探し尋ね求め、ヘロデ王の剣から幼子を、身を挺して守り、ナザレへと住まわせたその後で、父親は福音書の物語から静かに姿を消していく。
家族の在り方が多様化した現在、おそらく多くのヨセフが今なお身を粉にして働いている。冷たい風に吹かれる子育て世代の姿は、宿屋から締め出されたマリアとヨセフに重なる。だからこそ私たちは、破れに満ちた闇の果てに、救い主イエス・キリストがおられると力強く語りたい。夜明けは近い。
ローマ帝国への抵抗戦争が失敗に終わり、エルサレムの神殿がローマ帝国の軍隊によって徹底的に破壊された結果、現代に通じるユダヤ教の形が整えられた。紀元90年頃。この年代は初代教会の時代と重なる。現代のユダヤ教とキリスト教は兄弟・あるいは姉妹のような間柄。異なるところはユダヤ教がメシアを待望する祈りに満ちているのに比べ、教会ではクリスマスの出来事がある点。
イスラエルの民の歩みが、教会に引き継がれるのかと問えば、マタイによる福音書の冒頭の系図を忘れるわけにはいかない。この系図は名誉や血統を証しはしない。系図に記されるタマルという名。創世記に登場するこの女性は、次々と亡くなるユダの息子たちの責を問われ、離縁に近い扱いを受ける。けれども彼女はあえて遊女に身をやつし、夫と関わりペレツとゼラを授かる。ルツという女性はヘブライ人ではない。彼女の祖とされるモアブ人の出自は父ロトと関わった二人の娘のこどもたち。このモアブの血を引くのがダビデ王である。
このような話は人を不安にさせるが、この系図では、イスラエルの民の栄光ではなく、破れに満ちた罪深い歩みを率直に述べているのは確か。神の愛の光が増し加われば、人の愚かな振る舞いもより鮮明になる。福音書の書き手は、苦しみ悶えの歴史あればこそ、人々は代々救い主を待ち望んでいたと語る。もし今朝の聖書の系図を血縁に則して読むならば、イエス・キリストの系図は崩れる。血縁で辿ればマリアの夫ヨセフで完成してしまうのだ。マリアが身籠ったみどり子イエスが父親との血のつながりがなかったことは、処女懐胎という福音書に記された秘義によって明らかだ。けれどもヨセフは、血のつながりがなかろうと、マリアとイエスのために生涯を献げる。イエスの育ったナザレでその名は忘れ去られるが、身籠ったマリアのために宿を探し尋ね求め、ヘロデ王の剣から幼子を、身を挺して守り、ナザレへと住まわせたその後で、父親は福音書の物語から静かに姿を消していく。
家族の在り方が多様化した現在、おそらく多くのヨセフが今なお身を粉にして働いている。冷たい風に吹かれる子育て世代の姿は、宿屋から締め出されたマリアとヨセフに重なる。だからこそ私たちは、破れに満ちた闇の果てに、救い主イエス・キリストがおられると力強く語りたい。夜明けは近い。
2016年12月4日日曜日
2016年12月4日「神の義を待ち望む」稲山聖修牧師
聖書箇所:マタイによる福音書13章53~58節
新共同訳のヨハネ福音書1章5節では暗闇が光を「理解しなかった」と訳される。光を理解しない闇とは何か。マタイ福音書13章53節に記された故郷の主イエスの物語に、その謎を理解する鍵がある。この箇所では「故郷」とは帰郷した人々を出迎えるのではなく、イエスがキリストであり、神の言葉であり、世の光であるとの理解からは最も遠い場として描かれる。故郷の人々は、主イエスが会堂で語った事柄には関心を寄せない。むしろ詮索を始める。「この人は大工の息子ではないか」。「母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」。この箇所では父ヨセフの姿はない。マタイによる福音書の中で主イエスの父であるはずのヨセフは身籠ったマリアを受け入れ、ベツレヘムで宿屋を探しては締め出しを受け、それでも飼い葉桶のある場所を見つけ伴侶を守った。そしてヘロデ王から幼子と母親を守るためにエジプトへと逃れ、そしてヘロデの時代の終焉を知ると、ガリラヤのナザレに戻り二人を住まわせた。その後父ヨセフは福音書には描かれない。
マルコ福音書6章3節での表現はもっと生々しい。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」。最マルコ福音書では、大工という職業は父親のそれではなく、イエス・キリスト自らが人として歩まれたその生業を語る。マタイでは「母親はマリアといい」とあるがマルコでは「マリアの息子」と呼ばれる。この時代の倣いでは、長男は一般に父親の名前とともに呼ばれた。故郷の人々はイエスの父親を知らない。今日でいうところの母子家庭の子として主イエスは見なされる。人々は呟く。あのような複雑な家庭環境に育ったイエスがこのような教えを語るなどとは夢にも思わなかった、と。その妬みの中でイエスがメシアであるという事実は隠される。
待降節の第2主日。光を前にして私たちは各々あり方を深く吟味すべきである。教会の集まりが主イエスから目を背けるならば醜悪な集まりに堕落する。人々は破れから目を背けようとするかのように、不平不満を暴力として家族にぶつけたり、隣国の民に罵声を浴びせたり、過剰な求めを職場の同僚に求め追い詰めたりする。けれども幸いにも私たちはアドベントを知っている。光が灯されつつあるのだ。人々をひもじさや渇きから守る天幕が張られるように「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。神の義は飼い葉桶に眠るみどり児が明らかにするのだ。
新共同訳のヨハネ福音書1章5節では暗闇が光を「理解しなかった」と訳される。光を理解しない闇とは何か。マタイ福音書13章53節に記された故郷の主イエスの物語に、その謎を理解する鍵がある。この箇所では「故郷」とは帰郷した人々を出迎えるのではなく、イエスがキリストであり、神の言葉であり、世の光であるとの理解からは最も遠い場として描かれる。故郷の人々は、主イエスが会堂で語った事柄には関心を寄せない。むしろ詮索を始める。「この人は大工の息子ではないか」。「母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」。この箇所では父ヨセフの姿はない。マタイによる福音書の中で主イエスの父であるはずのヨセフは身籠ったマリアを受け入れ、ベツレヘムで宿屋を探しては締め出しを受け、それでも飼い葉桶のある場所を見つけ伴侶を守った。そしてヘロデ王から幼子と母親を守るためにエジプトへと逃れ、そしてヘロデの時代の終焉を知ると、ガリラヤのナザレに戻り二人を住まわせた。その後父ヨセフは福音書には描かれない。
マルコ福音書6章3節での表現はもっと生々しい。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」。最マルコ福音書では、大工という職業は父親のそれではなく、イエス・キリスト自らが人として歩まれたその生業を語る。マタイでは「母親はマリアといい」とあるがマルコでは「マリアの息子」と呼ばれる。この時代の倣いでは、長男は一般に父親の名前とともに呼ばれた。故郷の人々はイエスの父親を知らない。今日でいうところの母子家庭の子として主イエスは見なされる。人々は呟く。あのような複雑な家庭環境に育ったイエスがこのような教えを語るなどとは夢にも思わなかった、と。その妬みの中でイエスがメシアであるという事実は隠される。
待降節の第2主日。光を前にして私たちは各々あり方を深く吟味すべきである。教会の集まりが主イエスから目を背けるならば醜悪な集まりに堕落する。人々は破れから目を背けようとするかのように、不平不満を暴力として家族にぶつけたり、隣国の民に罵声を浴びせたり、過剰な求めを職場の同僚に求め追い詰めたりする。けれども幸いにも私たちはアドベントを知っている。光が灯されつつあるのだ。人々をひもじさや渇きから守る天幕が張られるように「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。神の義は飼い葉桶に眠るみどり児が明らかにするのだ。
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