2016年12月18日日曜日

2016年12月18日「来たるべき方の正しさ」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書11章2~9節

 救い主の訪れに備える道備え。洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指し示す最後の預言者。物語としてのクリスマス物語のないマルコ福音書でさえ、洗礼者ヨハネを決して忘れない。ルカ福音書ではイエスに先立ちザカリアとエリザベトから産まれるみどり子として、そしてヨハネ福音書では、光について証しするため神から遣わされた一人の人としての立場が明記される。
 しかし本日の聖書箇所で洗礼者ヨハネは獄中であらためて自らの働きを振り返る。生きながらえることはないだろうとの不安の中で一人の預言者として苦悶する。そもそも預言者とは「予め言う」予言ではなく言葉を預かると記す。神の言葉を預かる者が預言者。預言者は旧約聖書ではアブラハムの神を見失い、イスラエルの民が己の欲得の中で人を虐げることも厭わず、権力者として己の力を過信し神から託された役割を忘れたとき、自らのいのちを顧みず諫めるとともに、同時に虐げられた人々を癒す働きかけを伴う言葉を神の言葉として証しした。その人は恐れつつ託されたわざを全うしなければならない。
 囚われの洗礼者ヨハネも人づてに問う。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネの迷いがそこにはある。苦悶のヨハネに主イエスは語る。「人々の目は開かれ、うずくまる他に何もできなかった人々が立ちあがった。人々から排除されていた病人たちは交わりを回復し、聞く耳を持たなかった人々は、耳の聞こえなかった人々とともに神の言葉に耳を傾けることとなり、死はいのちに呑み込まれ、日々食うや食わずの他に道のなかった人々には喜びが告げ知らされている。なぜならそのような人はわたしに躓かなかったからだ」。ヨハネは働きが無駄ではないとの満足の中で神から託された役目を果たした。
 教会の中でさえ聖書の語る事柄に目を閉じ、耳を塞ぐものがある場合、必ずその言い訳を求めようとして「噂」が生まれる。無責任な噂は人の心を歪ませる。しかしヨハネが伝え、キリストに成就を見た神の知恵の正しさはその働きにより明らかとなる。何も語らずに黙々と仕える人。己のためでなく隣人を満足させるために献身的に働く人。野心家ではないそんな人々が、飼い葉桶のみどり児の周りに集まるのである。人から何と言われようとも主イエスに仕える意志をもつ方々は幸い。その意志は己の意志ではなく、マリアの身体に救い主を宿らせた御霊の力による。その働きの豊かさは神の国の正しさを指し示す。