聖書箇所:マタイによる福音書1章1~11節
ローマ帝国への抵抗戦争が失敗に終わり、エルサレムの神殿がローマ帝国の軍隊によって徹底的に破壊された結果、現代に通じるユダヤ教の形が整えられた。紀元90年頃。この年代は初代教会の時代と重なる。現代のユダヤ教とキリスト教は兄弟・あるいは姉妹のような間柄。異なるところはユダヤ教がメシアを待望する祈りに満ちているのに比べ、教会ではクリスマスの出来事がある点。
イスラエルの民の歩みが、教会に引き継がれるのかと問えば、マタイによる福音書の冒頭の系図を忘れるわけにはいかない。この系図は名誉や血統を証しはしない。系図に記されるタマルという名。創世記に登場するこの女性は、次々と亡くなるユダの息子たちの責を問われ、離縁に近い扱いを受ける。けれども彼女はあえて遊女に身をやつし、夫と関わりペレツとゼラを授かる。ルツという女性はヘブライ人ではない。彼女の祖とされるモアブ人の出自は父ロトと関わった二人の娘のこどもたち。このモアブの血を引くのがダビデ王である。
このような話は人を不安にさせるが、この系図では、イスラエルの民の栄光ではなく、破れに満ちた罪深い歩みを率直に述べているのは確か。神の愛の光が増し加われば、人の愚かな振る舞いもより鮮明になる。福音書の書き手は、苦しみ悶えの歴史あればこそ、人々は代々救い主を待ち望んでいたと語る。もし今朝の聖書の系図を血縁に則して読むならば、イエス・キリストの系図は崩れる。血縁で辿ればマリアの夫ヨセフで完成してしまうのだ。マリアが身籠ったみどり子イエスが父親との血のつながりがなかったことは、処女懐胎という福音書に記された秘義によって明らかだ。けれどもヨセフは、血のつながりがなかろうと、マリアとイエスのために生涯を献げる。イエスの育ったナザレでその名は忘れ去られるが、身籠ったマリアのために宿を探し尋ね求め、ヘロデ王の剣から幼子を、身を挺して守り、ナザレへと住まわせたその後で、父親は福音書の物語から静かに姿を消していく。
家族の在り方が多様化した現在、おそらく多くのヨセフが今なお身を粉にして働いている。冷たい風に吹かれる子育て世代の姿は、宿屋から締め出されたマリアとヨセフに重なる。だからこそ私たちは、破れに満ちた闇の果てに、救い主イエス・キリストがおられると力強く語りたい。夜明けは近い。