聖書箇所:マルコによる福音書10章17~22節
「富める若者」として知られる物語。実のところ富んでいるか否かとの問題は相対的であり、キリストに従うか否かという絶対的な問いが重要。青年の抱えた課題は「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」という主イエスが証しした道に気づかなかった点。そして単なる律法学者の教師と見なし、イエスに「善い先生」と呼びかける他なかった点。優秀な律法学者になるには多くの資産が必要だった。主イエスに従えなかったのはその富が神とは無縁だったからかもしれない。弟子たちは全てを捨てて主に従った。貧しくなること自体に意味はない。キリストに従った結果がどうであれ、神の国の喜びの証人として従うことに尊さがある。この服従への勇気が青年にはなかった。
バルメン宣言第5項の冒頭には、ペトロの手紙Ⅰ.2章17節が記される。「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。皇帝という地上の富と権力を委ねられた者よりも、先に畏怖しなければならない方がいる。それは主なる神である。究極的にいのちの采配を握るお方は皇帝ではなく神。究極は神であり皇帝は究極以前の事柄。この前提に立ち、次の文章が記される。「国家は、教会もその中にある、未だ救われない世にあって、人間の洞察と能力の量りに従って暴力と威嚇の行使をなしつつ、法と平和のために配慮するとの課題を神の定めによって与えられていることを、聖書はわれわれに語る」。バルメン宣言は絶対平和主義には立たない。あくまで「暴力と威嚇」は、法を遵守し平和のために用いられるとの条件においてのみ赦される。続く文章は「教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する」。次には「教会は、神の国を、また神の戒めと義を思い出し、その結果、統治する者と、統治される者との責任を思い出す」。統治者を神格化するのではなく、神の国と戒めと義によって制約した上で、統治する者とされる者に責任を想起させるのが教会の役目。「教会は、一切のものを支える御言葉の力に信頼し、服従する」。教会が国家に従うのは、国家が神の国と戒めと義と関わる場合に限られる。
神に創造され、主イエスに導かれ、聖霊に活かされる私たちは、いのちが人の造り上げた政府より必ず上位に立つことを平和裏に承認する。「生きるに値しないいのち」を決める資格など誰にもないのだ。
2016年7月31日日曜日
2016年7月24日日曜日
2016年7月24日「奉仕は神を讃えるわざ」稲山聖修牧師
聖書箇所:マタイによる福音書20章20~28節
今朝の聖書の箇所はイエスの弟子たちの上昇志向を描く。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください」とのゼベダイの母。主イエスの答えは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。このやり取りによって弟子の間に軋みと不協和音が響く。為政者はこの情念を用いて組織を造りあげる。強引さのない者や遠回りの道や険しい道を選ぶ者は嘲笑される。しかし主イエスは語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。「仕える者」とはδιακονος、奉仕を意味するディアコニアとの関わりで理解される言葉であり、「僕」とはδουλος、奴隷という意味。支配と権力からは対極にある在り方。それがキリストに従う道。
バルメン宣言第四条項には「教会にさまざまな職位があるということは、ある人々が他の人々を支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行うための根拠である。教会が、この奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者をもったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかというような誤った教えをわれわれは退ける」とある。教会は支配の道具にはならない。あくまでも教会は他者に仕え、世を立ち返らせるために世に仕える。
神への奉仕は神礼拝であり神讃美のわざである。私たちには各々世に活かされた者としての賜物がある。その賜物を用いて主を証しすることが、その場その場におけるところの奉仕であり、讃美であり、喜びである。老若性別・生まれながらの特性は問われない。奉仕は神を讃えるわざ。仕えること、僕となること。キリストに従う道がここに開かれている。
今朝の聖書の箇所はイエスの弟子たちの上昇志向を描く。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください」とのゼベダイの母。主イエスの答えは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。このやり取りによって弟子の間に軋みと不協和音が響く。為政者はこの情念を用いて組織を造りあげる。強引さのない者や遠回りの道や険しい道を選ぶ者は嘲笑される。しかし主イエスは語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。「仕える者」とはδιακονος、奉仕を意味するディアコニアとの関わりで理解される言葉であり、「僕」とはδουλος、奴隷という意味。支配と権力からは対極にある在り方。それがキリストに従う道。
バルメン宣言第四条項には「教会にさまざまな職位があるということは、ある人々が他の人々を支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行うための根拠である。教会が、この奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者をもったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかというような誤った教えをわれわれは退ける」とある。教会は支配の道具にはならない。あくまでも教会は他者に仕え、世を立ち返らせるために世に仕える。
神への奉仕は神礼拝であり神讃美のわざである。私たちには各々世に活かされた者としての賜物がある。その賜物を用いて主を証しすることが、その場その場におけるところの奉仕であり、讃美であり、喜びである。老若性別・生まれながらの特性は問われない。奉仕は神を讃えるわざ。仕えること、僕となること。キリストに従う道がここに開かれている。
2016年7月17日日曜日
2016年7月17日「愛に根ざした真理は揺るがず」稲山聖修牧師
聖書箇所:エフェソの信徒への手紙 4章7~16節
バルメン宣言第三項は次のように語る。「キリスト教会は、イエス・キリストが、御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今も働いておられる兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、その信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただその慰めと導きとによってだけ、その再臨を待ち望みつつ、生きていること、生きたいと願っていることを証ししなければならない」。
私たちが一歩この世に踏み出せば、排除の論理がまかり通る。その論理の背景には、人を人物ではなく人材としてのみ見なす理解がある。他方で聖書の世界では、排除の論理とは真逆の尺度を突きつける箇所にぶつかる。マタイによる福音書20章のぶどう園の労働者のたとえがそうだ。雇用時間に拘わらず手当は1デナリオン。ぶどう園の主人の力は絶対だが、主人は雇用した労働者を友と呼ぶ。このような就労環境は実際にはあるはずもなく、礼拝に集う私たちでさえおとぎ話のように聞こえる。それは私たちもまた排除を前提にしなければ物事を整理できない罪人だからだ。
このぶどう園の労働者のたとえを重んじた教会が執り行うサクラメントは決して能力や実績に応じて意味づけられはしない。究極のサクラメントである主イエス・キリストは、罪人の私たちをひとつの食卓に招く。そこには命令ではなく奉仕と喜びがある。いかなる世にあっても神の愛に根ざした真理は揺らぐことはない。
だからこそ、教会がそのメッセージやその秩序の形を、キリストと切り離されたところで、人の群れしか見えない眼差しで、その好むところに任せて良いとか、その時々に支配的な世の見方を巡る確信は誤った教えであるから退けられなければならない。教会が払うべき配慮は、傷みや悲しみを分かち合う祈りであり、時流に阿ねることではない。エフェソの信徒への手紙は記す。「キリストにより、身体全体は、あらゆる節々が補う合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に応じて働いて身体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです」。神の愛によって教会は育まれる。その確信に立てば、世の何者も恐れる必要はないのだ。
バルメン宣言第三項は次のように語る。「キリスト教会は、イエス・キリストが、御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今も働いておられる兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、その信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただその慰めと導きとによってだけ、その再臨を待ち望みつつ、生きていること、生きたいと願っていることを証ししなければならない」。
私たちが一歩この世に踏み出せば、排除の論理がまかり通る。その論理の背景には、人を人物ではなく人材としてのみ見なす理解がある。他方で聖書の世界では、排除の論理とは真逆の尺度を突きつける箇所にぶつかる。マタイによる福音書20章のぶどう園の労働者のたとえがそうだ。雇用時間に拘わらず手当は1デナリオン。ぶどう園の主人の力は絶対だが、主人は雇用した労働者を友と呼ぶ。このような就労環境は実際にはあるはずもなく、礼拝に集う私たちでさえおとぎ話のように聞こえる。それは私たちもまた排除を前提にしなければ物事を整理できない罪人だからだ。
このぶどう園の労働者のたとえを重んじた教会が執り行うサクラメントは決して能力や実績に応じて意味づけられはしない。究極のサクラメントである主イエス・キリストは、罪人の私たちをひとつの食卓に招く。そこには命令ではなく奉仕と喜びがある。いかなる世にあっても神の愛に根ざした真理は揺らぐことはない。
だからこそ、教会がそのメッセージやその秩序の形を、キリストと切り離されたところで、人の群れしか見えない眼差しで、その好むところに任せて良いとか、その時々に支配的な世の見方を巡る確信は誤った教えであるから退けられなければならない。教会が払うべき配慮は、傷みや悲しみを分かち合う祈りであり、時流に阿ねることではない。エフェソの信徒への手紙は記す。「キリストにより、身体全体は、あらゆる節々が補う合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に応じて働いて身体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです」。神の愛によって教会は育まれる。その確信に立てば、世の何者も恐れる必要はないのだ。
2016年7月10日日曜日
2016年7月10日「神なき束縛からの解放」稲山聖修牧師
聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ.1章30~31節
近代国家では、神の支配より人の支配。奉仕より義務と命令。弱さを受け入れず徹底的に排除する容赦のないあり方が主流となってしまった。折り重なった歪みに蝕まれるのは教会とて例外ではない。神を仰げなくなったとき、人は必ず無神論に陥る。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。パウロの言葉が手紙に刻まれた背後には、この厳粛かつ重大な事柄が蔑ろにされた深い影が射す。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであり、同じ厳粛さをもって、われわれの暮しの全てに対する神の力溢れる要求でもある。イエス・キリストによってわれわれは、この世の神無き束縛から脱して、神の被造物に向けた自由であり感謝に満ちた奉仕にたどり着く喜ばしい解放を与えられている」。バルメン宣言第2条項。世の恐怖は深くとも、キリストの愛には勝らない。これは初代教会の時代から変わらない教会の一貫した告白でもあった。全てを失った人々を慰め、癒し、励ますという主イエスのわざが何度も確かめられ、神の言葉は暮しの全てに対する神の力による要求でもある。
近代国家の急激な経済発展は社会のひずみを伴う。そのひずみは、障碍者、心に病を抱えた人々、心と身体の性別が異なる人々、国に住まう外国人らを徹底的に排除する。
これは神ならぬ者によるいのちへの冒涜に留まらず、被造物への重大な挑戦としてバルメン宣言の起草者には映った。果たしてそれでよいのかと神の問いかけ。神の要請は、恐れることはないとの聖書の響きに身を委ねよと語る。その言葉は世の神なき束縛から私たちが脱して、被造物への自由かつ感謝に満ちた奉仕へと誘い、向きを変えさせる。それゆえ、イエス・キリストのものではなく、他の者に属する、私たちの暮らしがあるとか、イエス・キリストによる義認と聖化を必要としない領域があるというような誤った教えを私たちは退ける。日本のキリスト者は少数。数としては1パーセントに満たないからこそ、私たちは、人の孤独や悲しみが必ず神に愛されると確信する。時代に危機が迫るほど、教会は世の光としての役目をダイナミックに託される。主に従う道を各々整えていきたい。
近代国家では、神の支配より人の支配。奉仕より義務と命令。弱さを受け入れず徹底的に排除する容赦のないあり方が主流となってしまった。折り重なった歪みに蝕まれるのは教会とて例外ではない。神を仰げなくなったとき、人は必ず無神論に陥る。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。パウロの言葉が手紙に刻まれた背後には、この厳粛かつ重大な事柄が蔑ろにされた深い影が射す。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであり、同じ厳粛さをもって、われわれの暮しの全てに対する神の力溢れる要求でもある。イエス・キリストによってわれわれは、この世の神無き束縛から脱して、神の被造物に向けた自由であり感謝に満ちた奉仕にたどり着く喜ばしい解放を与えられている」。バルメン宣言第2条項。世の恐怖は深くとも、キリストの愛には勝らない。これは初代教会の時代から変わらない教会の一貫した告白でもあった。全てを失った人々を慰め、癒し、励ますという主イエスのわざが何度も確かめられ、神の言葉は暮しの全てに対する神の力による要求でもある。
近代国家の急激な経済発展は社会のひずみを伴う。そのひずみは、障碍者、心に病を抱えた人々、心と身体の性別が異なる人々、国に住まう外国人らを徹底的に排除する。
これは神ならぬ者によるいのちへの冒涜に留まらず、被造物への重大な挑戦としてバルメン宣言の起草者には映った。果たしてそれでよいのかと神の問いかけ。神の要請は、恐れることはないとの聖書の響きに身を委ねよと語る。その言葉は世の神なき束縛から私たちが脱して、被造物への自由かつ感謝に満ちた奉仕へと誘い、向きを変えさせる。それゆえ、イエス・キリストのものではなく、他の者に属する、私たちの暮らしがあるとか、イエス・キリストによる義認と聖化を必要としない領域があるというような誤った教えを私たちは退ける。日本のキリスト者は少数。数としては1パーセントに満たないからこそ、私たちは、人の孤独や悲しみが必ず神に愛されると確信する。時代に危機が迫るほど、教会は世の光としての役目をダイナミックに託される。主に従う道を各々整えていきたい。
2016年7月3日日曜日
2016年7月3日「よき羊飼いイエス・キリスト」稲山聖修牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書10章7~18節
ヨハネによる福音書10章で興味深いのは、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」と語る前、羊たちは盗人や強盗の言うことを聞かなかったと、羊の鋭敏かつ繊細な特性について言及してするところである。これは一般に聞く家畜としての羊の特性とは異なる。困難な世にあってキリストに従い続けた群れの姿があった。
今朝の聖書箇所はナチズムに抗する教会の結集軸となったバルメン宣言の第一条項「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき、神の唯一の御言葉である」の基となる聖句。この箇所で羊は神の言葉・主キリストを聞き分ける。今日でこそナチスとは悪の権化のように描かれるが「国家社会主義」との呼称を通すと、頼りがいある政党だと錯覚する。大不況の時代に当時は画期的であった公共事業を続々と興し、国の経済を立て直した業績が宣伝される。劣等感に苛まれる者ほど受容され・肯定された思いから国家のために励む。教会のこどもにもヒトラーユーゲントへの入団が要求される。マスメディアでは英雄のインタビューが花を添える。この「全てがうまく行っている」との陶酔感とは無縁のまま、冷静に行く末を見極めようとする羊がいた。
羊が眠らなかったのは、時代に抗う特別な能力のせいでない。それは「わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている」という一点につきる。羊には実に多彩な特性がある。「わたしは羊のために命を捨てる」。羊に自己責任を要求する盗人や強盗とは異なり、よい羊飼いは身を挺してこの羊を守る。
初代教会の人々が仰ぎ見たのはよき羊飼い主イエス・キリストの姿であり、神なき権力と繁栄を背景に立つローマ皇帝ではなかった。「だれも、わたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。地上の国家の法を超えた力をもつ、主イエスの掟は羊たちのいのちを育むための掟。教会がその宣教の源として、神の唯一の言葉の他に、他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として受け入れられるとか、認めなければならないというような教えを退ける態度を示したその宣言の響きは、今なお止むことを知らない。
ヨハネによる福音書10章で興味深いのは、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」と語る前、羊たちは盗人や強盗の言うことを聞かなかったと、羊の鋭敏かつ繊細な特性について言及してするところである。これは一般に聞く家畜としての羊の特性とは異なる。困難な世にあってキリストに従い続けた群れの姿があった。
今朝の聖書箇所はナチズムに抗する教会の結集軸となったバルメン宣言の第一条項「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき、神の唯一の御言葉である」の基となる聖句。この箇所で羊は神の言葉・主キリストを聞き分ける。今日でこそナチスとは悪の権化のように描かれるが「国家社会主義」との呼称を通すと、頼りがいある政党だと錯覚する。大不況の時代に当時は画期的であった公共事業を続々と興し、国の経済を立て直した業績が宣伝される。劣等感に苛まれる者ほど受容され・肯定された思いから国家のために励む。教会のこどもにもヒトラーユーゲントへの入団が要求される。マスメディアでは英雄のインタビューが花を添える。この「全てがうまく行っている」との陶酔感とは無縁のまま、冷静に行く末を見極めようとする羊がいた。
羊が眠らなかったのは、時代に抗う特別な能力のせいでない。それは「わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている」という一点につきる。羊には実に多彩な特性がある。「わたしは羊のために命を捨てる」。羊に自己責任を要求する盗人や強盗とは異なり、よい羊飼いは身を挺してこの羊を守る。
初代教会の人々が仰ぎ見たのはよき羊飼い主イエス・キリストの姿であり、神なき権力と繁栄を背景に立つローマ皇帝ではなかった。「だれも、わたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。地上の国家の法を超えた力をもつ、主イエスの掟は羊たちのいのちを育むための掟。教会がその宣教の源として、神の唯一の言葉の他に、他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として受け入れられるとか、認めなければならないというような教えを退ける態度を示したその宣言の響きは、今なお止むことを知らない。
2016年7月3日「よき羊飼いイエス・キリスト」稲山聖修牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書10章7~18節
ヨハネによる福音書10章で興味深いのは、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」と語る前、羊たちは盗人や強盗の言うことを聞かなかったと、羊の鋭敏かつ繊細な特性について言及してするところである。これは一般に聞く家畜としての羊の特性とは異なる。困難な世にあってキリストに従い続けた群れの姿があった。
今朝の聖書箇所はナチズムに抗する教会の結集軸となったバルメン宣言の第一条項「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき、神の唯一の御言葉である」の基となる聖句。この箇所で羊は神の言葉・主キリストを聞き分ける。今日でこそナチスとは悪の権化のように描かれるが「国家社会主義」との呼称を通すと、頼りがいある政党だと錯覚する。大不況の時代に当時は画期的であった公共事業を続々と興し、国の経済を立て直した業績が宣伝される。劣等感に苛まれる者ほど受容され・肯定された思いから国家のために励む。教会のこどもにもヒトラーユーゲントへの入団が要求される。マスメディアでは英雄のインタビューが花を添える。この「全てがうまく行っている」との陶酔感とは無縁のまま、冷静に行く末を見極めようとする羊がいた。
羊が眠らなかったのは、時代に抗う特別な能力のせいでない。それは「わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている」という一点につきる。羊には実に多彩な特性がある。「わたしは羊のために命を捨てる」。羊に自己責任を要求する盗人や強盗とは異なり、よい羊飼いは身を挺してこの羊を守る。
初代教会の人々が仰ぎ見たのはよき羊飼い主イエス・キリストの姿であり、神なき権力と繁栄を背景に立つローマ皇帝ではなかった。「だれも、わたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。地上の国家の法を超えた力をもつ、主イエスの掟は羊たちのいのちを育むための掟。教会がその宣教の源として、神の唯一の言葉の他に、他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として受け入れられるとか、認めなければならないというような教えを退ける態度を示したその宣言の響きは、今なお止むことを知らない。
ヨハネによる福音書10章で興味深いのは、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」と語る前、羊たちは盗人や強盗の言うことを聞かなかったと、羊の鋭敏かつ繊細な特性について言及してするところである。これは一般に聞く家畜としての羊の特性とは異なる。困難な世にあってキリストに従い続けた群れの姿があった。
今朝の聖書箇所はナチズムに抗する教会の結集軸となったバルメン宣言の第一条項「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき、神の唯一の御言葉である」の基となる聖句。この箇所で羊は神の言葉・主キリストを聞き分ける。今日でこそナチスとは悪の権化のように描かれるが「国家社会主義」との呼称を通すと、頼りがいある政党だと錯覚する。大不況の時代に当時は画期的であった公共事業を続々と興し、国の経済を立て直した業績が宣伝される。劣等感に苛まれる者ほど受容され・肯定された思いから国家のために励む。教会のこどもにもヒトラーユーゲントへの入団が要求される。マスメディアでは英雄のインタビューが花を添える。この「全てがうまく行っている」との陶酔感とは無縁のまま、冷静に行く末を見極めようとする羊がいた。
羊が眠らなかったのは、時代に抗う特別な能力のせいでない。それは「わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている」という一点につきる。羊には実に多彩な特性がある。「わたしは羊のために命を捨てる」。羊に自己責任を要求する盗人や強盗とは異なり、よい羊飼いは身を挺してこの羊を守る。
初代教会の人々が仰ぎ見たのはよき羊飼い主イエス・キリストの姿であり、神なき権力と繁栄を背景に立つローマ皇帝ではなかった。「だれも、わたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。地上の国家の法を超えた力をもつ、主イエスの掟は羊たちのいのちを育むための掟。教会がその宣教の源として、神の唯一の言葉の他に、他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として受け入れられるとか、認めなければならないというような教えを退ける態度を示したその宣言の響きは、今なお止むことを知らない。
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