聖書箇所:使徒言行録16章1~10節
教会としての条件として定められたエルサレムの使徒教令。割礼の条項が外されたことは画期的ではあるものの、敷居そのものがあるのは変わりない。敷居そのものを認めないパウロは孤高の道を選ぶ。しかし予期せぬことにパウロは新たな同志を授かる。一人はシラス。もう一人はテモテ。この三人連れの宣教グループが生まれる。このテモテを念頭に置いて記されたと言われるのがテモテへの手紙である。
使徒言行録は初代教会の一致を意識して記された物語であるため、つじつまの合わない箇所もある。例えばテモテに割礼を授けたという箇所、あるいはエルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと伝えた箇所。これは「イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切だ」とするガラテヤ書の立場とずれる。ただしパウロの道中については信憑性を認めざるを得ない。8節に「ミシア地方を遠ってトロアスに下った」とわずか18文字で記される距離は広大である。直線距離で400キロの旅。素朴な教会員を躓かせないためにも、パウロ自ら何度も物理的に躓き傷つきながら、山伏のように時には岩肌に這いつくばりトロアスを目指した。
テモテへの手紙Ⅱはテモテと離れ離れにならなければならず、パウロが囚われの身になっていることが想定できる。パウロはその中でなおも語る。3~4節には「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています」とある。この「純真な」と訳される言葉、英語ではsincere、「誠実な・まじめな・混ぜ物のない」という意味。誠実で、まじめで、真面目な信仰が、世の様々な現実と関わるならば、涙や悲しみが生まれる。涙に裏打ちされた純真な信仰が、囚われの身にあるパウロを励ます。純真な信仰の涙が、テモテとパウロを結びつける。この交わりを通して、キリストに連なる群れは我知らずして世の力に打ち勝つ。キリストの痛みに比べれば、私たちの痛みなど取るに足らない。パウロはその確信をテモテと分かち合った。その希望を抱いて受難節を過ごしたい。