聖書箇所:マルコによる福音書11章1~3節・使徒言行録16章25~40節
不正な権力を倒そうとするレジスタンスに分派が生まれ、血なまぐさい権力闘争とともに起こる潰し合いはいつの世にも起こる。この流血の事態とは裏腹に、救い主はロバに乗ってやってくる。非力で小さなロバ。神なき繁栄と権力とをわがものにする人々への物言わない抵抗であり、その力に脅かされ、恐怖に圧迫されて暮らしている人々と痛みを分かち合う救い主の姿がある。このロバはイエスを黙々と苦難の道へと連れていく。十字架への道行きは、人の心に救う闇を暴き出す。弟子は離れ、裏切りに遭い、身柄を不当に拘束され、かたちばかりの裁判を通して、死刑の判決を受ける。その歩みがあればこそ、囚われの身の人々、社会から疎外された人々の只中に、不滅の光が灯された。愛敵の教えの全うを通じて復讐の連鎖に「待った」がかかる。世は一転して、いのちの力に満ち溢れる道が開かれる。
パウロとシラスは獄屋に閉じ込められた。主イエスが乗った小さいロバの後を追ったがゆえの結果。しかし二人は牢の中で讃美をし、祈る。苦役に用いられるロバのように枷をはめられたパウロとシラスは、神の言葉に全てを委ねる。その力は世の力が画策し、打ち立てた枷を粉々にする。そして世の力への依存と絶望から、いのちの希望へ人を連れ出す。使徒言行録16章29節で自害を取りやめた看守の呻く、「救われるためにはどうすべきでしょうか」との求めは、心の安らぎや自分探しには留まらない、命の問題としての信仰を問う。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。主イエスを信じるわざは、看守一人に及ぶ力ではなく、波紋のように家族全体に広がっていくとの確信が看て取れる。小さなロバに乗った救い主の歩みが、個人の内面を超えて進んでいくさまが活きいきと描かれる。救いとは交わりであり、同時に世代へと異なる形をとりながらも、確実に広がっていく力を帯びる。主イエスの歩んだ受難の道に、パウロとシラスも足を重ねていく。けれどもそこにはいのちの希望が秘められている。今は苦しみの中に隠されてはいるけれども、数多の人々が分かち合ういのちの希望の光がすぐ近くに来ている。それが受難週の歩み。棕櫚の主日。「憎しみと破壊」に勝利する救い主の復活を待ち望む時代を私たちは迎えた。