2016年1月3日日曜日

2016年1月3日「新たな出発の道筋」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録10章34~43節
  
本日の聖書の箇所は、使徒ペトロによる百人隊長コルネリウスの前での説教。ペトロの説教は使徒言行録では三度目。エルサレム市街や神殿で行われたかつてとは異なり、今回ペトロは前例を踏襲するわけにはいかない。なぜなら聴き手は異邦人だからだ。この出会いはコルネリウスだけでなく、ペトロにも初めての機会であった。
 ペトロははっきり「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は神に受け入れられる」と語る。内容はイエスが油注がれた王であり、生きる者と死ねる者とを裁く審判者との面が強調されるが、疑問に感じるのは41節。復活した主イエスを神が現わしたのは「民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたちに対してです」との順序の規定。ペトロは自分の立場から主イエスとの出会いの順序を語る。注意すべきは救いの優劣や救いの序列は意味されていない。
 宗教改革者カルヴァンの予定論では、救われる者と滅びるにいたる者が予め定められる。「信じるわざ」と「救われること」との関わりが因果関係になることを抑えもする教えのはずが、その時代の人々を恐怖のどん底に叩き落とした。それならば使徒ペトロの語る復活した主イエスとの出会いの順序、とりわけエルサレムの教会に優位があるとの誤解や、審判をめぐる理解を、私たちはいかに受けとめるべきなのか。
それは十字架につけられた主の僕が、葬られた者であると同時に、甦られた僕としての主キリストが、審判のもとで生ける者として選ばれたとの道筋が鍵になる。ペトロが万が一にも、歴史的順序としての「民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人」という言葉を救いの序列として誤解するならば、異邦人との出会いの中で使徒自らがまず砕かれなくてはならない。逆に、このかけ替えのない出来事の連なりを否定するならば、クリスマスに始まる救いの出来事の歴史性の否定につながる。
新年を迎え、私たちは双六を思い出す。必ず誰もが振り出しに戻る。教会の一週間も礼拝から遣わされ、礼拝という振り出しに戻る歩みを積み重ねる。そして貴重な証しという歴史的な実が結ばれる。世に溺れないよう、かつてペトロはイエス・キリストを見つめた。新しい出発の道筋を確かめて、この一年を始めたい。