聖書箇所:使徒言行録10章23節後半~33節
今年最後の日曜日を迎えても私たちはクリスマスの最中にある。クリスマスの出来事の喜びの響きの中で、あらためて使徒言行録に立ち返ると、イエス・キリストの恵みがローマ帝国の社会的立場や格差を包み込んでいることを改めて思い知る。今朝の箇所で「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに来て、足もとにひれ伏して拝んだ」とある。コルネリウスがローマ帝国の市民権を持つ将校であり、軍人であることを踏まえると、彼の行動は大胆である。ローマ帝国の市民権もなく、もとはといえばガリラヤの一漁師であった使徒を迎え入れ、伏し拝んでいるからだ。その姿は飼い葉桶に眠る幼子を伏し拝む東方の三博士と重なる。
教会には実に多彩な職業や立場にある兄弟姉妹が集うが、「わたしもただの人間です」とのペトロの言葉には当時には珍しい普遍的な人間像が見てとれる。ペトロの「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」との言葉に等しい重さは軍人コルネリウスの軍律にもあったに違いない。そのことを承知の上でペトロは「けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」と語る。これは単なる古代ユダヤ教における汚れと清めに関する規定を越えて、教会はどんな人でも排除してはならないのだとする解釈も可能だ。私たちの世にあって分け隔てとなる全ての垣根をクリスマスの出来事は取り払った。使徒言行録の物語には、その時代の人間世界の考えでは想像もつかない交わりが、教会を介して網の目のように張り巡らされている様子が窺える。
神の前に立つ年の瀬。畏れながらも、神の国のモデルとしての教会とつながりながら、私たちは新たな希望を授けられたことは確かであった。福音書の記された時代からは2000年の隔たりを持ちながらも、聖霊の力によって、聖書の世界と私たちは固く結ばれている。どのような立場にいようと、どのような生業に立っていようと、主は私たちの歩んだこの一年のかけがえのない歩みを用いて、色鮮やかな神の国を描いたタペストリーを織りあげてくださる。新たな年に向けて、主が命じられたことに、耳を傾けて歩みたい。