2015年12月20日日曜日

2015年12月20日「救い主の光、輝く朝」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~18節

 ヨハネによる福音書の書き出しには「初めに言があった。言は神ととともにあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内にはいのちがあった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある。この文章が示す事柄とは何か。
 この福音書の書き手はギリシア思想の影響を受けた人々からの声に向き合った。ギリシア思想の世の捉え方とは、善と悪、陰と陽、光と影という二項対立。その世界で、ヨハネによる福音書は二つの対立を乗り越える「言」に救い主の姿を重ね、救い主を「神と世との仲立ちをされる方」として刻む。その光が照らす闇とは何か。
例えるなら、クリスマスの原風景に欠かせないベツレヘム。ルカによる福音書が描き出すこの街では、誰もが自分のことばかりに気を取られ、里帰りしたヨセフと身重のマリアに扉を閉ざす。閉じた扉に光は差し込まない。
年の瀬には教会に生活の糧を乞う人々を迎える場合もある。「お金を貸してください」と呟く訪問者への対応の中、実は求めが金銭にはなく、人として向き合ってほしいとの叫びを聴く。言葉の字面に気をとられ、見落としてしまう尊厳がそこにある。
 今朝の礼拝で強調したいのは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との箇所。神の言イエス・キリストは、肉となってわたしたちの間に宿られた。人としてお生まれになった。この「宿られた」との語は、荒野に天幕を張るという意味を併せ持つ。荒野に天幕を張る民は、創世記の族長の暮しに重なる。族長は助けを求めてきた人を締め出さず、飢えている人には食事を、渇いている人には水を分かち合った。人は自尊心を回復すれば再び立ちあがる。それは相手を大切にするところから始まる。闇に勝利するいのちの光。光あれ、との天地創造の言葉が新たに響き渡る。いまだかつて、神を見た者はいない。ヨハネによる福音書は率直に記す。続いて「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。独り子なる神とは、飼い葉桶に眠る無力な幼子に身をやつしている。それは神の愛の証し。メシアの訪れの喜びを、混沌とした時代を開拓するためにも分かち合い、光あるうちに光の中を歩もう。