聖書箇所:使徒言行録12章1~11節
ヘロデ・アグリッパ王。クリスマス物語に描かれる暴君の孫。その手にかかりゼベダイの子ヤコブが殺害された。熱狂的なユダヤ教徒はその残忍なわざに喝采を送る。これに味をしめたアグリッパはペトロの身柄を拘束する。
その時代の刑罰の殆どは公開。それは食と気晴らしのエンターテイメントを求める人々の求めに応える支配の手法でもあった。民衆の力を削ぐためのガス抜きに、ゼベダイの子ヤコブは供せられた。ヘロデ・アグリッパは、その支配を確たるものとするため、解放の出来事を示す除酵祭を隠れ蓑として用いた。
暴君の姿とは裏腹にアグリッパのペトロへの恐怖心は、監視に配置された兵士の数から推し量れる。一六名の兵士を一人の人物にあてがう。ペトロを囚えたアグリッパ王は、むしろその世の力をむき出しにした振る舞いの中、却ってペトロに恐怖しているかのようだ。
ところで獄中は恐怖だけでなく、あらゆる誘惑に苛まれる場でもある。この場が信仰を深める「強いられた恵みの場」だと言えるのだろうか。
教会で用いられる「強いられた恵み」との言葉はルカ音書のキレネ人シモンをめぐるエピソードに基づくと言われる。問答無用とばかりに役目を押しつけたり、不条理な苦しみを合理化するために用いられたりもするこの言葉は果たして聖書的なのか。本日の聖書箇所と併せてヨハネによる福音書9章と、コリントの信徒への手紙二12章に則して考えるならば、もし「強いられた恵み」があるとすれば、それは何者かによって強制されるのではなく、弱さや悲しみに臨む癒しの恵みである。人のわざのごり押しを正当化する恵みは言わば「安価な恵み」に他ならない。使徒ペトロは身柄を拘束されるが、主イエスの十字架の姿に倣い証しする時はまだ来ていない。だからこそ御使いが閉ざされた牢獄の扉に逃れの道を備えるのだ。
泉北ニュータウン教会での話し合いでは「喜びを分かち合いましょう」という言葉がそこかしこで聞こえる。獄の中にあっても、キリストと出会った者は決して孤独には陥らない。伝道という言葉に異なる視点から光を照らすと、教会のわざは余計な力みから自由になれるのではないか。腹を括らなければ見えてこない事柄は確かにある。しかしペトロは牢獄の中にあってさえ決して思い詰めてはいなかった。全ての奉仕は神の栄光への讃美に用いられる。