聖書箇所:使徒言行録8章9節~8章15節
フィリポの働きを眺めていた魔術師シモン。彼にとって受洗への願いは、洗礼を通じて使徒たちと同じ力を得る欲望でもあった。シモンの願いは教会が陥りがちな課題として他人事ではない。自分の願う事柄が教会との関わりで時を待たずして成就して欲しいとの願い。御利益宗教とは異なって、聖書に描かれる奇跡とその実りは、神との関わりの中でもたらされる。問うべきは奇跡そのものではなく、奇跡が示す事柄。聖書の奇跡は他者に向かうのであり、自己救済ではない。その実りのかたちも多様性を帯び、必ずしも欲するものとは必ずしも一致しない。けれども神の力がその多様性をもたらしているならば、私たちも感謝とともに受けいれられるはずだ。8章10~11節で繰り返される「注目する」とは関わる対象に縛られることも示す。人々はシモンの行うわざに注目し、縛られていた。そしてシモン自らも身動きがとれずにいたのではないか。
ペトロとヨハネがサマリアへ行き、人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。サマリアの人々は文字通りキリスト者となった。但しシモンには、未だ使徒たちの行うわざの力にしか関心がなく、この力を金で買おうとする。この態度に使徒ペトロは向き合う。
金銀は我になし、とエルサレムで語った使徒ペトロは神の賜物を授かっていた。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい」。「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ」。「お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている」。ペトロは、身動きのとれなくなったシモンの課題を見破っていた。そしてシモンは祈りの実りが金では買えないこと、けれどもそれなくして人間は神の前に生きることは適わないことを告白した。これも神の赦しの証しでもあった。『コリントの信徒への手紙二』でパウロも記す通り、私たちは土の器。それは実にもろい。だが、そのもろさを心底知る者は、神の国とのかかわりの中で授けられる偉大な力を同時に知る。塵にも等しいこの身のかけらからも、主なる神が新たな創造を行われる。そして傷つけば傷つくほどに、私たちは神の愛の受け皿として用いられる。日毎の暮しの中であなたが求めるものは何か。イエス・キリストは、すでにあなたを求めている。