2015年10月4日日曜日

2015年10月4日「こころに聖書が響くとき」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録8章26節~8章40節 

 サマリアからエルサレム、そしてガザへと、フィリポは御使いに派遣される。新共同では「寂しい道」とあるが、「荒野の道」「砂漠の道」とも訳せる。その途上に出会ったのはエチオピアの女王の宦官を乗せた馬車。宦官は係累を絶ち、家族を断念して宮廷に仕える。権力欲に取憑かれることなく、彼はエルサレムまで礼拝に訪れ、イザヤ書を読みながらの帰路につく。古代には黙読の習慣はないゆえに、宦官がイザヤ書を読む際は世人の知るところとなる。自らの男性性までも捨て去り宮廷に仕える姿は、正統的なユダヤ教徒には異様に映る。申命記23章で禁じられた通り、この人は穢れたものとして神殿への立ち入りを制約されていた。しかし同時に宦官は、僕であり奴隷である身の上を自覚している。物語の書き手は、どの性差にも属さない人物を登場させ、そして御言葉に肉薄する気迫に満ちた者として描く。しかし宦官はイザヤ書53章に躓く。フィリポの「読んでいることが分かりますか」との問いに逡巡なく宦官は答える。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。宦官はイザヤ書53章7節から8節を読んでいた。使徒言行録にも、聖書のメッセージに戸惑う人の姿が描かれる。
 イザヤ書53章は11節に「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」とあるように「主の僕の歌」として知られる。福音書で主イエス・キリストが、御言葉をめぐる戦いに臨んだのも荒れ野。悪魔による、石をパンに代えてみよとの誘惑。神を試してみよとの誘惑。そして悪魔自らにひれ伏して富と権力を手に入れてみよとの誘惑。この誘惑は聖書の言葉を引用しながら行われた。フィリポがイザヤ書から解き明かしたのは、救い主が荒れ野で先取りした十字架への苦難の道であろう。この解き明かしにより宦官のこころに聖書は響いた。その後二人は聖なる領域に入る。それは豊かに水を湛えている場。その場所こそ新たにいのちを授かる場所。宦官は洗礼を受けた。そして初代教会に連なる証し人とされた。水から上がるとフィリポは姿を消した。ルカによる福音書の24章の記事と同じようにで、ある。御言葉を問い尋ねる旅路は、決して寂しくはない。それは喜びに包まれた出会いの道でもある。宦官の問いに自らの姿を重ね、私たちも御言葉を問い尋ねる旅路を歩むのだ。