2025年3月28日金曜日

2025年 3月30日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の愛は苦難を貫いて輝く」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』17章1~13節

讃美=526.515.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
ヨーロッパの絵画やステンドグラスでもよく知られる「山上の変容」。わたしたちも聖日礼拝説教のテキストとして幾度もとりあげてまいりました。人の子イエスが弟子のペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて「高い山」に登られた、と記されます。この「高い山」とはユダヤの地域においてはヘルモン山ではないかと言われております。ヘルモン山は標高2814メートル、富士山のようにそびえる山というよりも、滋賀県の比良山のような尾根が連なるような姿。凹凸の続く山頂には雪が積もりその姿は日本アルプスの尾根のようでした。
 但し標高3000メートル近い山並みは遠くから観れば絶景なのですが、実際に登るとなるとかなり険しい山道ではなかったかと考えられます。遠くから観れば美しい連山も、実際に登ろうとするならば立入る者を拒むような場所も多かったと考えられます。
 そのような危うい場所に人の子イエスは立入ってまいります。弟子達はそこで異様な出来事を目のあたりにします。それは則ち、モーセとエリヤが現れ、太陽のように顔が輝き、衣が光のように白くなったイエス・キリストと語らっているという場面です。山に登った弟子が過労によってそのような幻を観たとは福音書は記しません。むしろ次のような解き明かしが可能です。モーセは『旧約聖書』の『律法(トーラー)』を体現し、そしてエリヤは『預言者の書(ネビイーム)』を代表する預言者であり、律法の完成と預言の実現を救い主イエス・キリストに見るという理解です。しかし果たしてそのような説明に終って充分なのでしょうか。
 思えばモーセもエリヤも神のいる山と深く関わった人物でした。モーセとエリヤは二人とも神の山ホレブとの関わりで結ばれています。モーセはその尾根でエジプトに苦しむ奴隷の解放のメッセージを託されました。その招きは圧倒的であり、モーセ自らの五回の拒絶を徹頭徹尾拒むものでした。イスラエルの民が奴隷解放のわざに不平を公言したとき、モーセは再びホレブの山で十戒を授かったとの物語が記されます。さらに預言者エリヤは神の誡めを忘れたアハブ王と妃イゼベルの追っ手から逃れるためにホレブ山へとたどり着きながら、疲れのために自らの死まで願ったものの、ホレブで御使いの養いと神の語りかけによって、イスラエルの民を神の御旨に気づかせるために新たに目覚め、力を授かります。モーセの物語もエリヤの物語も、恐らく『新約聖書』の舞台では伝説と化していたかもしれません。実のところモーセやエリヤが最も苦しんだのはイスラエルの民全体の神への猜疑心であり、鼻で息をする者しか見えなくなった人々の欲望でした。アハブ王もまたイスラエルの王でした。
 人の子イエスの弟子はこのような経緯を受けとめるにはあまりにも素朴な人々でもありました。それは人の子イエスの変容に驚愕したペトロが、この三人を奉るための小屋を建てようとする言動からも透けて見えます。「これはわたしの愛する子」と響く声はバプテスマのヨハネによる洗礼の折とは異なる畏れにあふれていました。さらにイエスは改めて自らの死と復活を語った上で、時を遠く経た時代にはモーセやエリヤが英雄化されるものの、実際のところイスラエルの民はこの二人を畏れ敬うどころか軽んじて好きなようにあしらったと語ります。この「好きなようにあしらう」との言葉は「なぶり者にする」「陵辱する」という、一切の尊厳を認めなかったとするまことに強い意味をもつ言葉です。
 『旧約聖書』に描かれる人間像を、もし神の愛なしに読み込もうとした場合、おそらくそこにはわたしたちがこれまで味わったことのないグロテスクな人間像が描かれていることでしょう。イエス・キリストはその道筋を神とともにあゆみ、隠された神の愛を人々に示すだけでなく、自らの苦難を通してその光で世を照らした救い主でした。初代教会がまずキリストの十字架への苦難と死、そして復活の出来事をクリスマス物語よりも先に置いたわけがそこにあるように感じられてなりません。顧みてわたしたちの交わりはいかがでしょうか。教会の交わり、もっと言えばキリスト教の世界にありながらグロテスクな人間像に辟易された方々はいないでしょうか。もしも行き詰まりを感じるならば、人の姿に理想を求めるのではなく、イエス・キリストがどのようなあゆみをたどられたかを繰り返し思い起こす祈りが求められます。その祈りは救い主が世に遣わされる前から、『旧約聖書』の時から一貫して流れる神の愛によるものです。この祈りに目覚める者は決して多くはありません。しかしその多くはない人々はイエス・キリストを通してやがて「地の塩・世の光」として「我知らずして」神の愛と出会い、豊かに用いられ、その途上で出会う人々を苦難から解放するのです。わたしたちもその群れに数えられています。


2025年3月21日金曜日

2025年 3月23日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  



説教=「涙と挫折こそ信仰の目覚め」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』16章13~23節

讃美=243.21-441(268).
21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  福音書の場合、カイザリアと呼ばれる地域には、概してローマ帝国の軍隊の駐屯地、ならびにその駐屯地を中心にして栄えるユダヤ教徒ではない者たちが集い、繁栄する地域があちこちにありました。とりわけこの町に暮らすユダヤ教徒は絶えずローマ帝国からの圧制を肌身に感じずにはおれなかったことでしょうし、またその圧制に対するところの屈折した生き方や思いも様々であったことでしょう。ユダヤ教徒の暮らす集落には分断と裂け目がいたるところにあったと考えられます。

  そのような呻きの響く地域にあって人の子イエスは各々の弟子に住民の噂を問い尋ねます。噂とは一般には根拠のないもので別段気にする必要もないのですが、むしろその噂のなかに人々の置かれた事情を問い尋ねようとする真摯な向き合いを人の子イエスの姿に見出せるというものです。弟子たちは口々に申します。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。いずれもその時代に人々が求めた『旧約聖書』に記される預言者であり、人の子イエスとの深い関わりにあった「最後の預言者」と称された人々です。共通するのは主の御旨に沿わずに進む道を誤った民衆や、権力を誤って用い、重要な判断を違おうとする王や指導者層に対して諫言を発し、他方で虐げられた人々に神の国の訪れや癒しのわざを行った、「神の言葉」を預かるとして描かれた者でした。いわばその時代のユダヤ教徒には英雄視されていた人々の名が列をなし、その姿が人の子イエスに重ねられていたのも無理はなかったと申せましょう。

  「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。カイザリアの地域の人々の具合を踏まえて、あなたがたはどのように思うのかという、極めて内面に立入った問いかけを人の子イエスは弟子各々に突如として向けます。これまで従ってきた弟子には何を今さらという思いを抱いた者もいたかもしれませんが、そのようなざわめきを『マタイによる福音書』の書き手は第一には記しません。むしろシモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という初代教会の信仰告白に連なるペトロの理解を引き出しながら、「あなたは幸いだ」と祝福した上で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国での鍵を授ける」との、まことに力強い宣言です。ローマ・カトリック教会ではこの箇所をして初代の教皇がペトロであると主張し、他の教会教派への優越を説きます。

  しかしそれではこのペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との理解は主なる神の御旨に適ったものだったのでしょうか。なるほど言葉としてはその通りでしょうが、この後よりイエスは自分が必ずエルサレムへ行き、長老・祭司長・律法学者から多くの苦しみを受けて殺害され、三日目に復活すると話し始めます。残念なことにペトロは人の子イエスのこの発言が理解できません。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。そのようなペトロにイエスは振り向いて「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく戒められます。片やペトロは幸いだと祝福され、片やペトロは「サタン、引き下がれ」と戒められる、極めて揺れの激しい弟子であるとともに、わたしたちは初代の教皇というよりも、日々の自らの姿をペトロに重ねます。ペトロのメシア理解は誤っていたのであり、鼻で息をする者しか目に入らない者の、実に曖昧な思い込みでしかなかったとも申せます。

  思えば人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家の中庭に連れてこられたとき、ペトロは鶏の鳴く前に三度イエス・キリストとの関わりを否定しました。しかしイエス・キリストはペトロとの関わりを否定するどころか、その態度に自らの預言の成就を見るだけでなく「わたしは決してあなたがたを見捨てることはない」との神の愛の証しを貫かれました。それは十字架の上で槍に刺し貫かれるよりも強い絆であり、歴史上の教会の分断の危機、交わりの分裂の危機を幾度もいくたびも救うという出来事に示されています。教会もまた、動揺するペトロのようにその態度を貫くことのできない、破れに満ちた交わりという一面ももっています。しかしだからこそわたしたちは、十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎながら、「この人こそが救い主イエス・キリストなのだ」との確信を抱くのです。信仰とは個々人の思いや拠り所に留まらない、イエス・キリストとの関わりです。その関わりはいかなる試練のなかにあっても絶たれるどころか、却って強められる神の愛を示しています。

2025年3月14日金曜日

2025年 3月16日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「世の分断を乗り越えるキリストの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節

讃美=Ⅱ-80.21-530(516).
21-88(Ⅱ255). 
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【説教要旨】
 視覚を失い、話すこともできず、そしてその症状から察するに聴覚も奪われたと思われる人物が本日の箇所には描かれてまいります。その人は自分の目指すところへ自力でたどり着けません。支える者に連れてこられ、人の子イエスのもとへと身を寄せます。人の子イエスとの出会いのもとで、その人の目は開かれ、そして恐らくは耳も聞こえるようになり、話ができるようになったとの出来事が記されます。見えない、聞こえない、話せないという閉ざされた状態から、人々との交わりの中へと押し出されたこの人の姿は、あたかもヘレン・ケラーとアニー・サリバンとの出会いと重なるようです。しかし全く異なるのは、この素晴しい出会いに横槍を入れる者がいるというところで、ヘレン・ケラーの伝記とは異なった筋立てとなってまいります。

 その時代の正統派ユダヤ教徒、もっといえばその時代精神を司る自負にあふれた古代ユダヤ教の指導者の群れであるファリサイ派の人々はこの癒しの出来事を認めません。おそらくは自分たちの知る癒し人やその時代の医者がことごとくその治療に失敗したか、あるいは現在よりもさらに輪をかけて心身の壮健さが追求された時代です。癒された人は「見えず、話せない」という特性だけで、もはやすでになにがしかの呪われた者や穢れた者として扱われたことでしょう。それは次の言葉に凝縮されています。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。騒ぎ立てるファリサイ派の者たちは、この音のなく、光もないままに放置されてきた人を助けもせずにやかましく騒ぎ立てるばかり。そして振りかざすのは、荒れ野で人の子イエスを試みた悪魔と同類の悪霊の頭ベルゼブル、俗には巨大なハエとして描かれる暗黒の存在であり、強い力が弱い力を排除するという道筋でしかイエス・キリストの癒しのわざを理解できません。その態度に向けてイエス・キリストはどのように反論するのでしょうか。

 それは一見すると実に世俗的な譬えから始まります。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成立っていくだろうか」。人の子イエスが指摘するのは、力の論理と排除の論理では癒しの出来事は決して生じないところにあります。イエス自らによれば、窃盗団は力尽くで人の家に押し入ります。しかし結局はその動機が「奪い合いと陥れ」にあります。ですからついには盗品の奪い合いとなり、集団そのものが瓦解していく状況にも似ています。そのうえで、人の子イエスは次のように語ります。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところへ来ているのだ」。イエス・キリストは横槍を入れてきたファリサイ派を決して否定しません。それはファリサイ派の言葉とは、全く異なる次元から発せられている教えだからではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々の言葉は「否定」に終始します。否定の言葉からは何も生まれず、現状を変えもせず、いのちを育てもせず、交わりを広げようともいたしません。他方でイエス・キリストの言葉は、暗闇に閉ざされた名も無い人を癒すというわざに拠って立ちます。喜びの分かちあいがそこにはあります。『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの愛のわざへの否定を集約すれば、それは最終的には荒れ野での誘惑における試みの声と同質のものとなります。しかし他方でイエス・キリストの行う癒しのわざへの喜びと感謝の声は、神の愛の力、則ち神への讃美のわざ、神の愛による統治を待ちつつどのようなところにいてもいのちを祝福する力に根ざしています。片方は他を廃し、多様性を認めず、収奪の果てに自ら朽ち果てて倒れていくのであって、草木も生えないと見捨てられた土から芽生える麦のような生命力はそこにはありません。

 東日本大震災が様々な問題を残しているだけでなく、パンデミックの時代を経て、食糧不足と世界大戦の危機という、わたしたちの尺度の通じない「グレートリセット」と呼ばれる時代。その今でも、イエス・キリストの愛は世の分断を乗り越えます。だからその幾度も、何十編も、何百編もそれが裏切られ、苦しみに遭おうとも、なおその愛はわたしたちを包もうとしてやみません。荒波を乗り越える度ごとに、わたしたちはイエス・キリストの愛の証し人として立たされています。そう、見えず、聞こえず、話せない三重苦に苦しんできたこの人を、イエス・キリストのもとに連れてきた、文章が受け身の文体で描かれているがゆえに、その存在すらおぼろげな、これまた無名の人のように、です。分断の叫びの中に、わたしたちは神の愛による一致を先取りしています。

2025年3月6日木曜日

2025年 3月9日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)

讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 大阪メトロ堺筋線「動物園前」駅9番出口。この出口から地上に出て阪堺電車架線下をくぐりますと、大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」にいたります。かつては日雇い労働者の街とされたこの土地も、今では行政の手が至る所に入るようになり、「ジェントリフィケーション」という問題が生まれつつあります。ジェントリフィケーションとは、概ねもともとは貧しい人たちが寝起きしたり食事したりするというような場所を、その普通の街並みとは異なる様子を逆手にとってブランド化し、企業の「目玉商品」として商標化しやすく道筋を言います。例えば仕事を終えて牛や豚の内臓を炒めたホルモンという食べ物があります。由来は「捨てる」を意味する大阪ことばの「放る」にその名が由来すると申しますが、このお店をマスコミ関係者やYouTube動画で下町グルメ番組に再編してまいります。観光客にはガイドブックにはない「下町グルメ」として喜ばれ、値段も上昇し、その場にいた労働者の人々はいつの間にか姿を消すといった具合です。日当で買ったホルモンを分かちあう時代から、星野リゾートのような高級ホテルの建築に伴い土地が買い占められ、互いに助け合っていたそれまでの絆が、人を豊かにするはずの富によって分断される様を肌身に感じながら、充分な医療も受けられなかったあの人たちはどこに行ってしまったのだろうと時に涙を禁じ得ません。

 本日の福音書で人の子イエスが行かれた荒れ野とは、文字通りの荒れ野を越えてさまざまな渇きに満ちた場ではなかったかと推し量るのです。40日間の断食を続けるなかで受けた最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」との声でした。これに対してイエスは「『人はパンで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』」と『聖書』を引用します。この誘惑は「食」という生物的には是非とも必要な根源的なわざを独占させようという目論みがあるということです。逆に言えば「分かちあい」という態度が欠如しています。次には『聖書』を引用しながら「神の子ならば、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と神を試させようとします。言うまでもなく「大切な人を試す」とは「その人との関わりを疑わせる」こと。誘惑はイエス・キリストに神との関わりを絶ち切ろうとさせます。そして終には「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄を与えよう」とさせます。国々の繁栄の陰に苦しむ貧しい人々や病床にある人々の姿は、神ならぬ者に連れていかれた高い場所からは見えるわけがありません。人の子イエスは語ります。「退け、サタン」と。この箇所で初めて天使が現れて人の子イエスに仕えたと記されます。

 この一連の「誘惑」の物語は有名ですが、概して見落とされがちなのはこの荒れ野での人の子イエスの放浪が、自らの意志に基づいている修行のようなものでは決してない、というところにあります。あくまでも、直前の箇所で鳩のような姿で降りてきた「霊」の力、すなわち神の愛の力によって成し遂げられたというところにあります。わたしたちが日々の暮らしのなかで晒される誘惑を人の子として味わわれたイエス・キリストの道筋は、すべて神の愛の力によって背を押されて味わった出来事でもありました。逆に申しあげれば、わたしたちが日頃味わっている恐怖や苛立ちや孤独感もまた、主なる神の愛による導きであるとも言えるのです。公園で炊き出しを求めている人の列があります。その列があるからこそわたしたちはどうにかせずにはおれないと思い、あれこれと人の世の誰の命令にもよらずに食事を届けようとします。ある人に待ち合わせの約束を破られたとしても、憤ってその人との関わりを絶つのではなく「何かあったのだろうか」と心配をします。目を奪われるようなご馳走も結構ですが、いろいろな人の集まる餅つきのほうが楽しくやり甲斐があります。長年複雑だった親族との関わりを捨ててしまうよりも、できるなら次の世代でもよい、せめてひと言話ができればと願います。そのような暮らしの場所でわたしたちはさまようのではなく、イエス・キリストとともにさまざまな誘惑に晒されながらも感謝しつつ活かされ、神の愛に支えられているのです。

 分断の声ますます強まる今の世にあって、わたしたちが礼拝を尊ぶのは何よりも「神の言葉一つひとつで生き」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との教えを、各々の賜物に則して歩みたいと願うからではないでしょうか。主なる神はわたしたちがどのような誘惑に晒されても、どのような惨めさを味わおうとも絶えずともにいてくださり、イエス・キリストの姿を通して圧倒的な恵みとともにその実在をお示しになります。

2025年2月28日金曜日

2025年 3月2日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「わたしたちのめざす岸辺」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』14章22~36節
(新共同訳 新約28頁)

讃美= 21-529(333).
461.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
  木枯らしや春の嵐は、わたしたちの暮らす地域にも訪れます。都市部では「風が強かったなあ、季節が変わるなあ」と思わず呟くのですが、世界でトップクラスの積雪量の日本の山岳地帯では山は極めて危険なシーズンを迎えます。春山では雪崩が頻発し、夏の登山ルートはちょうどこの雪崩のコースになるからです。天候も不順であり、吹雪に見舞われればホワイトアウト、時雨の場合には低体温症を警戒します。何よりも滑落がもっとも恐ろしいところです。登山装備が絶えず改良される一方で、技術が追いつかず事故が多発するのも事実です。

  弟子達が夕刻から深夜、そして明け方に舟でわたるガリラヤ湖はその東西を高地に挟まれているため強烈な風が湖に吹きつけてまいります。そのような中、なぜ弟子は人の子イエスとともにではなく、無理矢理乗り込ませられなくてはならなかったのか合点がいかなかったことでしょう。漁師の身でありましたから、風の吹きつける夜の湖の危うさは代々語り草になっていたはずです。それにも拘わらず、人の子イエスは舟には乗らず、弟子はただただ荒波に揉まれてどこに流れ着くのか恐怖の坩堝にいたことでしょう。辺りには手掛かりとなる人里の灯りも見えず、たとえ見えたとしてもそこへたどり着くまで舟を漕ぎ続ける力もありません。舟が転覆しないように重心を低くするのがやっとです。そしてこれが舟を象徴とする初代教会を囲む危うい状況でした。

  『信徒の友』2025年2月号には少々ショッキングな特集が組まれていました。それは「専従牧師がいない」という事案であり、牧師のいない教会、または牧師を招聘するのが困難な教会が増加しており、代務や兼務の教会が増えているとのことです。わたしが若かりし時にお世話になった鳳教会も前年度は無牧であり、その中で新しい会堂の建築を決断し、そのわざを成し遂げていきました。その圧力を教会活動の追い風とするためには交わりの絆を強め、かつ間口を広めたものとなるよう努め、絶えず祈らずにはおれませんでした。しかしこのような事態は、人の子イエス不在のまま夜間に舟を漕がねばならなかった初代教会・原始キリスト教の時代にすでに象徴的に描かれているのです。

  狼狽する弟子が危機の中で忘れていたのは何か。それは一人山に登られたイエス・キリストの姿です。つまりどのような混沌とした舟の中にいても、人の子イエスと弟子の乗る舟はキリスト自らの祈りによってより強く結ばれています。登山者や漁師は様々なロープワークを知っています。イエス・キリストと荒波に揉まれる舟もまた危機に直面するほどに祈りというロープに結ばれてまいります。ただ、今はそれが弟子には隠されているだけなのです。

  前途の見えない、荒れ狂う湖水に象徴される「世」を進んでこられた人の子イエスを幽霊と見間違えたとて、イエス・キリストは「すぐ彼らに話しかけられた」とあります。「幽霊だ」と脅え、恐怖のあまり叫ぶ弟子。その姿は決して人前にはさらしたくない体裁です。しかしイエス・キリストはそのような実にみっともない弟子に向けて「安かれ」「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と説かれます。

  その声は教会組織に留まらず、その交わりに連なる一人ひとりに向けられています。半信半疑のペトロはそこにいる人影が人の子イエスかどうかを試そうとして「そちらに行かせてください」と語ります。強風は決してやむことはありません。ペトロは夜明けの朝日に照らされる湖面を見つめて怖くなったのではありません。湖面を波立たせる風に気をとられてイエス・キリストから目をそらしかけました。眼差しの大切さは、自動車の安全運転には欠かせないことだと免許をお持ちの方はご存じでしょう。何かにつけて散漫になり、目の焦点が定まらずに泳いでしまう。これもまたわたしたちの現実です。しかしその恐怖にあってはじめてペトロは目覚め、イエス・キリストは、沈みゆくその手を力強く握りしめられました。

  教会の姿がどのように変容していくのか。それはすでにコロナ禍の時期に激しく問われた課題でした。その結果、リモート礼拝というかたちが生まれました。さらに専従牧師不足という状況で、却って諸教会がお互いに支えあう仕組みが生まれるのではないかと、新たな可能性を前向きに語る人もいます。イエス・キリストの山での祈りは、弟子たちの瑞々しい礼拝をもたらしました。わたしたちの目指す岸辺、ゲネサレトには肥沃な平原が拡がり、羊が群れをなしています。教会の祈りが問われる時、そこにはすでにキリストの恵みが臨んでいます。

2025年2月20日木曜日

2025年 2月23日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神の癒しに潤わされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)

讃美= 
21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
  「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女性が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」、と本日の『聖書』のテキストは始まります。「そこ」とはガリラヤ湖の西側にある平原地帯を指しますので、ガリラヤとティルス近辺の道のりは40キロを少し超えるほどとなります。マラソンで走れる距離といえばそれまでですが、当時のことですから道にも起伏があり、直線距離だけでは測れず、歩き詰めでもなかったことでしょうから、徒歩で14時間以上はかかる道のりだったでしょう。福音書の物語の世界には、ユダヤ人のコミュニティよりもそれ以外の人々も多く暮らしておりました。さらには地中海沿いの地域であるティルスとシドンの地方には港町を玄関にしてパレスチナに暮らす人々やギリシアの人々もおりましたので、わたしたちが考える以上に文化や言語のサラダボール状態であったに違いありません。その中で見たこともない女性が、娘の救いを求めて人の子イエスと弟子の群れを一人追いかけてまいります。名前は分かりません。その姿も弟子には異様です。「この女性を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と弟子は人の子イエスに願います。よほど突然の事態であり、弟子もその見かけに戸惑ったのでしょう。助けを求めるその必死さは分かるが、その気持ちには巻きこまれたくないという弟子の心情をくみ取れる箇所ではあります。そしてまだ人の子イエスは黙っています。

  突然助けを呼ぶ声。わたしは職業上スマホ依存症と申しましょうか、いつも手の届く範囲内にスマートフォンを置いており、睡眠時も同じようにしております。突然の連絡を想定してではありますが、だからと言って非通知設定の電話が深夜にかかる時には戸惑いもあります。けれどもこのような突然助けを求める声というよりも「話を聴いて欲しい」という場合が殆どですので、会話の中で先方も少しずつ安心していく具合が分かれば「おやすみなさい」と通話ボタンを切ることもできます。相手がどこにいるのかを尋ねると言葉を濁されるのがいかんとも歯がゆいのですが、それもやむを得ないのかもしれません。

  しかしこのテキストで弟子は文字通り思いもよらない出会いを経験しました。それも強盗や暴徒ではなく助けを求める女性に直面したのです。混乱の中で弟子は「追い払ってくれ」と人の子イエスに申し出ます。弟子は女性に何を見ていたのでしょうか。その異様な姿にだけ気をとられていたのでしょうか。それともその切実な救いを求める声に怖じ気づいたのでしょうか。いずれにせよ弟子の混乱ぶりにはわたしたちの抱える無様さが重なります。それでは人の子イエスはその場で何を観ていたというのでしょうか。

  人の子イエスにはその女性の外見上の姿もその叫び自体も関心外でした。焦点はその内容にあります。ただしイエスもまたこの場で新たにされていきます。「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」とその言葉にはありますが、繰り返し申しますとこの「小犬」とは決してかわいらしい動物を指しているのではなくて、女性に対してあまりにも酷い侮蔑の言葉として響きます。穢れた動物、または伝染病を媒介する野犬のようなイメージです。「犬ころ」といってもよいでしょう。弟子を含めユダヤの民に与えなくてはならない救いはまだ充分ではないとの言葉が向けられます。けれどもカナンの女性は答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」、つまりこのカナンの女性は娘を癒してもらうために、自分もまたイエス・キリストの足下で、その恵みに深く関わっていると発言するのです。女性も、その娘の病もこの箇所では救われたとあります。恐らくはイエスもまた人の子イエスとしての救いの広がり、神の愛のスケールの途方もない大きさを実感されたことでしょう。福音書の中でイエス・キリストは、人としては始めから完成されたメシアとしてではなく、神の導きの中で耕されていく人の子としても描かれています。それだけにわたしたちはキリストに従う励ましを備えられます。

  神の愛はカナンの女性とその娘だけでなく、人の子イエスとその弟子をも癒すにいたりました。乾ききった世を歩んできた弟子もまた、この場を目のあたりにして大いに潤わされたに違いありません。

  わたしたちは思いも寄らない出会いの中で助けを求める声を聴いたとき、燃える思いに駆られるというよりは逃げ去ってしまいたい気持ちに襲われもします。生き残った被災者や被爆者はその罪悪感に長く苦しまれます。けれどもわたしたちもその思いが分かるからこそ、新たに支えの手を伸ばし、恵みを備えられると確信します。

2025年2月15日土曜日

2025年 2月16日(日) 礼拝 説教

     ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「混沌とした時代にこそ輝く光」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章17~20節
(新共同訳 新約7頁)

讃美= 
21-518(361).124.
   21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 わたしたちは『新約聖書』にはよく目を通し、そのことばを味わうのですが、『旧約聖書』となりますといささか日々の暮らしからは縁遠いような気がいたします。しかし『マタイによる福音書』で人の子イエスが度々引用する以上は、わたしたちは決して『旧約聖書』を疎かにするわけにはまいりません。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と本日の箇所では記されます。このような文章の中での『律法』は613の条文に分けられる一つひとつの掟というよりも、『創世記』から『申命記』にいたるまでの、かつては「モーセ五書」と呼ばれた書物、そして『預言者』とはヘブライ人の国王や民が神の備えた道から外れていくとき、王や人々を諫め、戦い、そして虐げられた人々を癒し力づけたところの、神のことばを預かった人々の物語の集合体を示しています。かたや『トーラー』と呼ばれ、かたや『ネビイーム』と呼ばれるこの書物は、人の子イエスの時代の古代ユダヤ教のファリサイ派や律法学者には正典とされ、その教えの拠り所とされていました。洗礼者ヨハネが関わっていた、荒れ野で水をもって身を清めながら『聖書』の学びに励むエッセネ派にも大切な教えが書き記されていました。

 それではこの『律法』と呼ばれる『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の誡めを含んだ物語、そして『預言者』と呼ばれる書物の内容とはどのようなものだったのでしょうか。

 その内容は、まずは天地の創造主なる神がこの宇宙といのちを六日間にわたって創造され、その後の一日に休まれたという記事が記されます。その後に女性も男性も神にかたどって創造されたはずの人間(アダーム)が神との約束を破り、楽園を追放されていきます。そしてその息子たちにいたっては神への献げものをめぐって兄が弟を殺害し、そしてその後に「慰め」という意味をもつノアの作った箱舟の物語、さらにはバベルの町の物語が続き、アブラハムの物語へと受け継がれてまいります。その後に描かれるのは、予測不可能な人生であるにも拘わらず、主なる神は自らの約束を破った後にも人間に「死んではならない」と絶えず語りかけ、弱い立場にある者の悩み、また奴隷の叫びに耳を傾け、その苦しみから解放しようとする神の姿が描かれます。この物語を読んでまいりますと「あなたは神を信じますか」という問いに違和感を覚えるようになります。それはこどもたちに対して目の前にいるお家の人やご家族、あるいは保育者に対して「あなたはお母さんを信じますか」と言っているようなもので、その問いかけそのものが信頼関係に水を差しかねない、愚問だとしか言い様がないのです。信頼関係を損ねるような問いを、寡婦や難民や孤児、社会から廃除された人々を救う神に向けるのはお門違いというものです。

 そしてこの箇所で人の子イエスが「廃止するためではなく、完成するためである」と語ったときに明らかにしたのは、人の子イエスもまた『律法』と『預言者』という、わたしたちが手にしている『旧約聖書』を丹念に読んだ上で、名前すらもつけられない人々やこどもたち、今でいう障碍をもった人々や感染症に罹患した人々に神の愛を具体的に証ししていったということです。これはまことに重要な人の子イエスの決意と態度を示しています。それは混沌とした世にあって、力を振るいそれこそが正義であると思い込んでいる人々、あるいはまずは競争に勝った者が正義を語りうると錯覚している人々に対して「否」を突きつける態度です。これは預言者としての態度です。そして使徒の集りとしての教会の壁を越えて、神の愛のわざをこの世へと押し広げ、尊ぶべき世俗として人々を愛し続けるという政治的な側面を否定しない統治者としての態度、そして今なお苦しみの中にある人々の痛みを癒し、いのちに希望の光を灯し祈り続けるという祭司としての態度です。『旧約聖書』を軽んじるという態度が万が一わたしたちにあるならば、それは『新約聖書』を単なる道徳の教科書に格下げしてしまうことになってしまいます。世の中は決して単純ではありません。渡る世間は鬼ばかりという現実もあります。しかしそのような現実は、そのものとしては決して絶対的なものではないのです。イエス・キリストはすでに世に勝っています。混沌とした世界に向けて神は「光りあれ」と仰せになりました。

 悲しみに心が塞ぎ込み、身動きがとれなくなったとき『旧約聖書』を開いてみてください。『詩編』には神を呪う言葉さえ記され、預言者には死を願う者さえ登場します。しかしその呪いや死を望む呟きはイエス・キリストを通して神に届いています。呪いは呪う者のいのちへの祝福へと、死を願う者には生きよとの声が響きます。