時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「天が裂けるとき」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』1 章9~11節
(新約61頁)
讃美= 21-529(333).461.21-24.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
飲み物の話と申しますと教会の礼拝には相応しくないかも知れませんが、『聖書』には果実としての「ぶどう」がふんだんに用いられます。そしてもちろんその実りを発酵させたぶどう酒、則ちワインをめぐる譬えも用いられます。有名なところでは「新しいぶどう酒の譬え」。最も初期に成立した『マルコによる福音書』にも次のように記されます。2章22節には「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ」との言葉です。これは人の子イエスが断食を続けるヨハネの弟子、そして一部のファリサイ派を批判しての言葉ですが、ぶどう酒へと発酵する過程で泡立つぶどう汁の話はさておき、この箇所で注目すべきは「新しいぶどう酒」が「古い革袋」を破るのは常識として当然だとする前提です。何につけても新しいものは保守的なあり方を突き詰めるにしても外部からこじ開けるにしても旧来の頑なさを破って広がっていくという理解が描かれています。
それは『旧約聖書』『創世記』に描かれる「洪水物語」にも重なるところがあります。大洪水が引き起こされる際の描写は次のようになります。「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨は四十日四十夜地上に降り注いだ」(『創世記』7章11節)。この箇所では大規模な自然災害とは、犯した罪に無自覚な人々を滅ぼすためであるとの古代社会特有の意味づけがされております。しかし逆の見方をすれば、このように「ことごとく裂ける」という表現は、実はこの災害が罪人にあふれた世界を新たにし直し、箱舟にいるノアやセム、ハム、ヤフェトほかその家族、多くの生き物が神の恵みのもと、新たに生き直す世へと造り変えるという世界の途方もない変容をも示しています。人の目にはその場その場の局地的な状況しか目に入りません。ですからこれからどうなるかは見通しかねるところがありますが、神の備え給う時とは自然災害でさえもそのような遠大な計画のなか、地上への審判の物語から赦しへの物語へと話そのものの意味づけを転換させてしまいます。
それでは本日の、イエスがバプテスマのヨハネから水による洗礼を授けられた場面はどのように描写されるのでしょうか。それは「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて『霊』が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。この箇所では別段「天が裂ける」という言葉を用いなくても人の子イエスの変容は分かるというものです。それではなぜ「天が裂ける」という言葉が付加されたのでしょうか。参考までに『マタイによる福音書』も『ルカによる福音書』にも「天が開く」とは記されても「裂ける」とは記されません。『マルコによる福音書』ほどの強烈なインパクトある出来事としては記されてはいないのです。
人の子イエスがバプテスマのヨハネから水による清めの洗礼を授かるとの出来事は、とりもなおさず人の世がそのような清めを必要としている神の愛を忘れた世界であり、イエスもまたその神の愛を忘れた者とともに歩む救い主であるとの強い示しです。その驚くべき、本来であればあり得ないはずの圧倒的な神の愛の示しが何よりも「天が裂ける」との言葉には込められています。みどり子は母親の胎を破って生まれてまいりますが、今でもその時を正確に推し量ることはできません。大地にまかれた種もまた、種の殻を破って新たな芽が出てまいりますが、その時間を正確に推し量ることはできません。イエス・キリストを道としてこそ、神の愛の力であるその霊はわたしたちに豊かに注がれるのです。それはイエス・キリストが十字架で死を迎える際にエルサレムの神殿の幕が真二つに裂けるとの描写によってより鮮やかにいのちの満ちあふれが記されます。わたしたちには人の子イエスの死としか映り得ない出来事が、いのちの復活への舞台へと移る兆しです。キリストの苦難が、世の眼差しを復活の出来事へと堅く結びます。
本日は二十歳の祝福式を礼拝で執り行います。祝福を授かるのは西村咲恵子さんです。常々この咲恵子さんのお名前にはため息が出るほどの感銘を覚えます。つぼみはその皮を裂いて、恵みの花は咲いてまいります。わたしたちはそのような出会いによって多くを学び、多くを胸に刻み、多くの謙虚さを授けられてきました。神の愛が天を裂き、鳩のように人の子イエスを包んだ出来事から始まる多くの問いかけを、わたしたちは祈りを重ねるごとに授かり続けました。『ルカによる福音書』では人の子イエスと洗礼者ヨハネとの出会いの物語の序章として、エルサレムの神殿で語られた少年イエスの言葉はマリアとヨセフには「分からなかった」とあります。神の愛の新しさとはわたしたちには直ちには理解できません。それは人の素朴な思いを引き裂きます。しかしこの「分からなさ」を尊びながら、わたしたちは神の前での自己吟味に導かれ、教会は交わりに連なる方を受け容れる「新しい革袋」となると確信します。
