2025年2月28日金曜日

2025年 3月2日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「わたしたちのめざす岸辺」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』14章22~36節
(新共同訳 新約28頁)

讃美= 21-529(333).
461.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  木枯らしや春の嵐は、わたしたちの暮らす地域にも訪れます。都市部では「風が強かったなあ、季節が変わるなあ」と思わず呟くのですが、世界でトップクラスの積雪量の日本の山岳地帯では山は極めて危険なシーズンを迎えます。春山では雪崩が頻発し、夏の登山ルートはちょうどこの雪崩のコースになるからです。天候も不順であり、吹雪に見舞われればホワイトアウト、時雨の場合には低体温症を警戒します。何よりも滑落がもっとも恐ろしいところです。登山装備が絶えず改良される一方で、技術が追いつかず事故が多発するのも事実です。

  弟子達が夕刻から深夜、そして明け方に舟でわたるガリラヤ湖はその東西を高地に挟まれているため強烈な風が湖に吹きつけてまいります。そのような中、なぜ弟子は人の子イエスとともにではなく、無理矢理乗り込ませられなくてはならなかったのか合点がいかなかったことでしょう。漁師の身でありましたから、風の吹きつける夜の湖の危うさは代々語り草になっていたはずです。それにも拘わらず、人の子イエスは舟には乗らず、弟子はただただ荒波に揉まれてどこに流れ着くのか恐怖の坩堝にいたことでしょう。辺りには手掛かりとなる人里の灯りも見えず、たとえ見えたとしてもそこへたどり着くまで舟を漕ぎ続ける力もありません。舟が転覆しないように重心を低くするのがやっとです。そしてこれが舟を象徴とする初代教会を囲む危うい状況でした。

  『信徒の友』2025年2月号には少々ショッキングな特集が組まれていました。それは「専従牧師がいない」という事案であり、牧師のいない教会、または牧師を招聘するのが困難な教会が増加しており、代務や兼務の教会が増えているとのことです。わたしが若かりし時にお世話になった鳳教会も前年度は無牧であり、その中で新しい会堂の建築を決断し、そのわざを成し遂げていきました。その圧力を教会活動の追い風とするためには交わりの絆を強め、かつ間口を広めたものとなるよう努め、絶えず祈らずにはおれませんでした。しかしこのような事態は、人の子イエス不在のまま夜間に舟を漕がねばならなかった初代教会・原始キリスト教の時代にすでに象徴的に描かれているのです。

  狼狽する弟子が危機の中で忘れていたのは何か。それは一人山に登られたイエス・キリストの姿です。つまりどのような混沌とした舟の中にいても、人の子イエスと弟子の乗る舟はキリスト自らの祈りによってより強く結ばれています。登山者や漁師は様々なロープワークを知っています。イエス・キリストと荒波に揉まれる舟もまた危機に直面するほどに祈りというロープに結ばれてまいります。ただ、今はそれが弟子には隠されているだけなのです。

  前途の見えない、荒れ狂う湖水に象徴される「世」を進んでこられた人の子イエスを幽霊と見間違えたとて、イエス・キリストは「すぐ彼らに話しかけられた」とあります。「幽霊だ」と脅え、恐怖のあまり叫ぶ弟子。その姿は決して人前にはさらしたくない体裁です。しかしイエス・キリストはそのような実にみっともない弟子に向けて「安かれ」「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と説かれます。

  その声は教会組織に留まらず、その交わりに連なる一人ひとりに向けられています。半信半疑のペトロはそこにいる人影が人の子イエスかどうかを試そうとして「そちらに行かせてください」と語ります。強風は決してやむことはありません。ペトロは夜明けの朝日に照らされる湖面を見つめて怖くなったのではありません。湖面を波立たせる風に気をとられてイエス・キリストから目をそらしかけました。眼差しの大切さは、自動車の安全運転には欠かせないことだと免許をお持ちの方はご存じでしょう。何かにつけて散漫になり、目の焦点が定まらずに泳いでしまう。これもまたわたしたちの現実です。しかしその恐怖にあってはじめてペトロは目覚め、イエス・キリストは、沈みゆくその手を力強く握りしめられました。

  教会の姿がどのように変容していくのか。それはすでにコロナ禍の時期に激しく問われた課題でした。その結果、リモート礼拝というかたちが生まれました。さらに専従牧師不足という状況で、却って諸教会がお互いに支えあう仕組みが生まれるのではないかと、新たな可能性を前向きに語る人もいます。イエス・キリストの山での祈りは、弟子たちの瑞々しい礼拝をもたらしました。わたしたちの目指す岸辺、ゲネサレトには肥沃な平原が拡がり、羊が群れをなしています。教会の祈りが問われる時、そこにはすでにキリストの恵みが臨んでいます。

2025年2月20日木曜日

2025年 2月23日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神の癒しに潤わされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)

讃美= 
21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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【説教要旨】
  「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女性が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」、と本日の『聖書』のテキストは始まります。「そこ」とはガリラヤ湖の西側にある平原地帯を指しますので、ガリラヤとティルス近辺の道のりは40キロを少し超えるほどとなります。マラソンで走れる距離といえばそれまでですが、当時のことですから道にも起伏があり、直線距離だけでは測れず、歩き詰めでもなかったことでしょうから、徒歩で14時間以上はかかる道のりだったでしょう。福音書の物語の世界には、ユダヤ人のコミュニティよりもそれ以外の人々も多く暮らしておりました。さらには地中海沿いの地域であるティルスとシドンの地方には港町を玄関にしてパレスチナに暮らす人々やギリシアの人々もおりましたので、わたしたちが考える以上に文化や言語のサラダボール状態であったに違いありません。その中で見たこともない女性が、娘の救いを求めて人の子イエスと弟子の群れを一人追いかけてまいります。名前は分かりません。その姿も弟子には異様です。「この女性を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と弟子は人の子イエスに願います。よほど突然の事態であり、弟子もその見かけに戸惑ったのでしょう。助けを求めるその必死さは分かるが、その気持ちには巻きこまれたくないという弟子の心情をくみ取れる箇所ではあります。そしてまだ人の子イエスは黙っています。

  突然助けを呼ぶ声。わたしは職業上スマホ依存症と申しましょうか、いつも手の届く範囲内にスマートフォンを置いており、睡眠時も同じようにしております。突然の連絡を想定してではありますが、だからと言って非通知設定の電話が深夜にかかる時には戸惑いもあります。けれどもこのような突然助けを求める声というよりも「話を聴いて欲しい」という場合が殆どですので、会話の中で先方も少しずつ安心していく具合が分かれば「おやすみなさい」と通話ボタンを切ることもできます。相手がどこにいるのかを尋ねると言葉を濁されるのがいかんとも歯がゆいのですが、それもやむを得ないのかもしれません。

  しかしこのテキストで弟子は文字通り思いもよらない出会いを経験しました。それも強盗や暴徒ではなく助けを求める女性に直面したのです。混乱の中で弟子は「追い払ってくれ」と人の子イエスに申し出ます。弟子は女性に何を見ていたのでしょうか。その異様な姿にだけ気をとられていたのでしょうか。それともその切実な救いを求める声に怖じ気づいたのでしょうか。いずれにせよ弟子の混乱ぶりにはわたしたちの抱える無様さが重なります。それでは人の子イエスはその場で何を観ていたというのでしょうか。

  人の子イエスにはその女性の外見上の姿もその叫び自体も関心外でした。焦点はその内容にあります。ただしイエスもまたこの場で新たにされていきます。「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」とその言葉にはありますが、繰り返し申しますとこの「小犬」とは決してかわいらしい動物を指しているのではなくて、女性に対してあまりにも酷い侮蔑の言葉として響きます。穢れた動物、または伝染病を媒介する野犬のようなイメージです。「犬ころ」といってもよいでしょう。弟子を含めユダヤの民に与えなくてはならない救いはまだ充分ではないとの言葉が向けられます。けれどもカナンの女性は答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」、つまりこのカナンの女性は娘を癒してもらうために、自分もまたイエス・キリストの足下で、その恵みに深く関わっていると発言するのです。女性も、その娘の病もこの箇所では救われたとあります。恐らくはイエスもまた人の子イエスとしての救いの広がり、神の愛のスケールの途方もない大きさを実感されたことでしょう。福音書の中でイエス・キリストは、人としては始めから完成されたメシアとしてではなく、神の導きの中で耕されていく人の子としても描かれています。それだけにわたしたちはキリストに従う励ましを備えられます。

  神の愛はカナンの女性とその娘だけでなく、人の子イエスとその弟子をも癒すにいたりました。乾ききった世を歩んできた弟子もまた、この場を目のあたりにして大いに潤わされたに違いありません。

  わたしたちは思いも寄らない出会いの中で助けを求める声を聴いたとき、燃える思いに駆られるというよりは逃げ去ってしまいたい気持ちに襲われもします。生き残った被災者や被爆者はその罪悪感に長く苦しまれます。けれどもわたしたちもその思いが分かるからこそ、新たに支えの手を伸ばし、恵みを備えられると確信します。

2025年2月15日土曜日

2025年 2月16日(日) 礼拝 説教

     ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「混沌とした時代にこそ輝く光」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章17~20節
(新共同訳 新約7頁)

讃美= 
21-518(361).124.
   21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 わたしたちは『新約聖書』にはよく目を通し、そのことばを味わうのですが、『旧約聖書』となりますといささか日々の暮らしからは縁遠いような気がいたします。しかし『マタイによる福音書』で人の子イエスが度々引用する以上は、わたしたちは決して『旧約聖書』を疎かにするわけにはまいりません。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と本日の箇所では記されます。このような文章の中での『律法』は613の条文に分けられる一つひとつの掟というよりも、『創世記』から『申命記』にいたるまでの、かつては「モーセ五書」と呼ばれた書物、そして『預言者』とはヘブライ人の国王や民が神の備えた道から外れていくとき、王や人々を諫め、戦い、そして虐げられた人々を癒し力づけたところの、神のことばを預かった人々の物語の集合体を示しています。かたや『トーラー』と呼ばれ、かたや『ネビイーム』と呼ばれるこの書物は、人の子イエスの時代の古代ユダヤ教のファリサイ派や律法学者には正典とされ、その教えの拠り所とされていました。洗礼者ヨハネが関わっていた、荒れ野で水をもって身を清めながら『聖書』の学びに励むエッセネ派にも大切な教えが書き記されていました。

 それではこの『律法』と呼ばれる『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の誡めを含んだ物語、そして『預言者』と呼ばれる書物の内容とはどのようなものだったのでしょうか。

 その内容は、まずは天地の創造主なる神がこの宇宙といのちを六日間にわたって創造され、その後の一日に休まれたという記事が記されます。その後に女性も男性も神にかたどって創造されたはずの人間(アダーム)が神との約束を破り、楽園を追放されていきます。そしてその息子たちにいたっては神への献げものをめぐって兄が弟を殺害し、そしてその後に「慰め」という意味をもつノアの作った箱舟の物語、さらにはバベルの町の物語が続き、アブラハムの物語へと受け継がれてまいります。その後に描かれるのは、予測不可能な人生であるにも拘わらず、主なる神は自らの約束を破った後にも人間に「死んではならない」と絶えず語りかけ、弱い立場にある者の悩み、また奴隷の叫びに耳を傾け、その苦しみから解放しようとする神の姿が描かれます。この物語を読んでまいりますと「あなたは神を信じますか」という問いに違和感を覚えるようになります。それはこどもたちに対して目の前にいるお家の人やご家族、あるいは保育者に対して「あなたはお母さんを信じますか」と言っているようなもので、その問いかけそのものが信頼関係に水を差しかねない、愚問だとしか言い様がないのです。信頼関係を損ねるような問いを、寡婦や難民や孤児、社会から廃除された人々を救う神に向けるのはお門違いというものです。

 そしてこの箇所で人の子イエスが「廃止するためではなく、完成するためである」と語ったときに明らかにしたのは、人の子イエスもまた『律法』と『預言者』という、わたしたちが手にしている『旧約聖書』を丹念に読んだ上で、名前すらもつけられない人々やこどもたち、今でいう障碍をもった人々や感染症に罹患した人々に神の愛を具体的に証ししていったということです。これはまことに重要な人の子イエスの決意と態度を示しています。それは混沌とした世にあって、力を振るいそれこそが正義であると思い込んでいる人々、あるいはまずは競争に勝った者が正義を語りうると錯覚している人々に対して「否」を突きつける態度です。これは預言者としての態度です。そして使徒の集りとしての教会の壁を越えて、神の愛のわざをこの世へと押し広げ、尊ぶべき世俗として人々を愛し続けるという政治的な側面を否定しない統治者としての態度、そして今なお苦しみの中にある人々の痛みを癒し、いのちに希望の光を灯し祈り続けるという祭司としての態度です。『旧約聖書』を軽んじるという態度が万が一わたしたちにあるならば、それは『新約聖書』を単なる道徳の教科書に格下げしてしまうことになってしまいます。世の中は決して単純ではありません。渡る世間は鬼ばかりという現実もあります。しかしそのような現実は、そのものとしては決して絶対的なものではないのです。イエス・キリストはすでに世に勝っています。混沌とした世界に向けて神は「光りあれ」と仰せになりました。

 悲しみに心が塞ぎ込み、身動きがとれなくなったとき『旧約聖書』を開いてみてください。『詩編』には神を呪う言葉さえ記され、預言者には死を願う者さえ登場します。しかしその呪いや死を望む呟きはイエス・キリストを通して神に届いています。呪いは呪う者のいのちへの祝福へと、死を願う者には生きよとの声が響きます。

2025年2月7日金曜日

2025年 2月9日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「いのちに響く言葉を尊ぶイエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章10~16節
(新共同訳 新約24頁)

讃美= 
21-403(Ⅰ.453). 
533. 21-29 (544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 本日は弟子たちによる「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」との問いかけへの人の子イエスの答えが軸となるメッセージとなります。弟子と人の子イエスとの語らいのテーマとなるのは「たとえ」すなわちイエス・キリストの語る「ことば」の秘密です。

 本日引用された『イザヤ書』に先んじて、『旧約聖書』で「ことば」が主題となる物語があります。それは『創世記』11章にある「バベルの町」の物語です。「バベルの塔」と見出しがつけられますが、要は「塔のある町」ですので「バベルの町」といたします。

 『創世記』物語の大筋は次のようになります。世界中が同じ言葉を用いて同じように話していた時代、東の方からやってきた民が、シンアルの地に平野を見つけてそこに住みつきます。民は「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合います。それまでのれんがは、粘土に麦わらをすき込んで泥のような具合のときに踏みつけ、型に入れて日の光に干すもので、今日で言えば極めて環境に優しい素材なのですが、壁土と同じように水に弱く、また高層建築で用いるにも重さに堪えられません。しかし焼きれんがとなれば話は別で、技術者の思い通りに形を整え、また強度も飛躍的に上昇することから、数十メートル規模の大規模な高層建築も可能となります。古代エジプト文明の場合は切り出した石が用いられましたが、それに劣らず強度があり、しかも思い通りのかたちに焼き上げられます。さらに「しっくいの代わりにアスファルト」を用いたところから、乾燥した石灰よりも防水性が高まるという特質も加わり、おそらく古代メソポタミア地方を舞台にして人類史上例を見ないほどの画期的な科学技術の大躍進だったと言えるでしょう。

 しかしこの都市は大きな問題が秘められていました。それはこの都市の建築の動機です。それはこの町のシンボルである塔に込められています。「さあ、天まで届く塔のある町を建てて有名になろう。全地に散らされないように」との一節です。「天」とはまさしく主なる神のいるところ。そこに届く塔を建てる動機も「有名になろう」というのですから、この町に隠された人間の高ぶりというものが塔には象徴されています。しかし本来ならば天にいるところの主なる神はわざわざこの町に出向き「この人々は一つの民で一つのことばを話しているからこのようなわざに手をつけた。このままでは民が何を企てても妨げられない。人々のことばを混乱させ、互いのことばを聞き分けられなくなるようにしてしまおう」と民を全地に散らされ、都市の建設は中断され、ことばが「混乱(バラル)」したことから町の名はバベルとなったとの物語です。わたしたちはこの箇所で多くの言語が生まれたとの誤解を抱いていますが、意思疎通が不可能になるのは、自分が正しいと思い込んだとき、相手の話に耳を貸さなくなったときで、この一週間のあゆみでもどこかでやらかしてしまった覚えがあるのではないでしょうか。同じことばであっても、奢りや高ぶりがあったときには、いのちの響きどころか記憶にも残りません。

 それでは人の子イエスはどのようなことばを用いたというのでしょうか。それは「たとえ」という表現です。人の子イエスと寝食をともにしている弟子であればともかく、集まる人々の多くは文字の読み書きはできません。しかし各々のかけがえのない暮らしに根ざしたことばは用いているはずです。その暮らしを、愛情をもって受け容れながら、そのときに出会う人々の用いることばを紡いだときに、イエス・キリストの教えは人々のいのちに響いたことでしょう。今日でいう「刺さることば」として忘れられない教えとして記憶されていきました。

  ファリサイ派の律法学者の言葉は一定の知識の基礎を前提としますが、イエス・キリストの教えはそのような前提がなくても、暮らしの中にこだましたことでしょう。そして「バベルの町」の物語を超越して、新しい交わりを育んでいったに違いありません。一つの民でもなく、一つの言語でもなく、一つの文化でもなく、あらゆる人々、世界に交わりを育んでいったのです。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」から、確かに「見えず、聞かず、分からずとも」イエス・キリストが示した神の愛は、そのような限界を通して人々を包んでまいります。分からなければ尋ねればよいのです。イエス・キリストはその問いかけを歓迎します。

 互いに耳を傾けあう交わり。それがイエス・キリストを頭とした教会の交わりの原点です。『聖書』のことばはそのとき分からなくても、後になるほどと膝をつき、目から鱗が落ちるときがやってきます。その瞬間を楽しみにしていましょう。それがイエス・キリストの教えに触れる醍醐味というものです。