2024年9月26日木曜日

2024年 9月29日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第20主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「懸命に生きればこそ 必死にあゆめばこそ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 1~16 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 21-155(301),512,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 たまたまそこにいればこそ。たまたまその場に住めばこそ。何ということもない理由から自然災害に巻きこまれ、人生行路を変えられてしまった人々は後を絶ちません。家族を失い、住まいを失いというところから始まって10年、30年を経てもなお消せない記憶を抱えながら日々の暮らしに向きあう人々は、戦争体験者と入れ替わるように増えています。東日本大震災から14年目へと向かうなか、その時に報道カメラマンとして働いた方々の振り返りもまた世に出ようとしています。
 押し寄せる津波にレンズを向けるカメラマンもまた、自宅を同じ津波で失う。あるいは家族や親戚に犠牲者が生じる。スマートフォンでの動画撮影と並んで、そのような報道はマスメディアにあっても例を見なかったように思います。阪神・淡路の震災には、被災から距離のあるところから取材に来たマスメディア関係者に罵声を浴びせる人々の姿があり、そしてその人々にお詫びするという記録映像がありましたが、東日本大震災では「普段はここからわたしの家が見えるのですが、家は流されて全くありません」との音声がありました。撮影位置のベストポジションに入ると、挨拶しているご近所の人々の逃げ惑う姿が映り申し訳なく、撮れない。しかし自宅が流されるのであれば一当事者として状況を伝えられる、と当時を振り返るカメラマンもいました。なぜわたしはその場に立ち会ってしまったのかと、国際的な写真賞を受賞するほどに重圧に耐えきれなくなる当時の青年カメラマンもおり、「救助のヘリコプターでなくてごめんなさい」と深く葛藤する空撮班の班員もいました。津波に流される自宅を撮影したカメラマンは語ります。「復興って何なのでしょうね。もしかして100人いれば100通りの復興があって、もしかして復興できた人がいるかも知れないし、一生復興できない人もいるかもしれない。もしかしたら本当の復興とは施設や家の整備だけではなく、心の復興が終ってからの復興かと思いますが、それができないままの人もいるのかもしれない。ただ取材する側としてはそれも含めて復興にはこれだけ大変であり時間がかかることは伝えていかなくてはならないとの意識があり、思いがあります」とのお話でした。
 本日描かれる物語はラザロという青年とその家族を軸にして描かれる『ヨハネによる福音書』の名場面です。病に罹患し瀕死の兄弟ラザロのためにイエスを捜し求めるマリアとマルタ。協力する人々がようやく人の子イエスを見つけ出します。「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子に促す人の子イエス。しかし弟子の群れは決して結束が堅くはありません。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。ラザロが病床にいるベタニアは、弟子には身の破滅を招きかねない場所でした。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。物分かりの悪い弟子は「主よ、眠っていれば助かるでしょう」となるべく関わりから遠ざかろうとしますが、この声に「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と「その場に居合わせなかった」とのあり方が「ラザロの甦り」の出来事により深くつながるかけがえのない機会となるのだと人の子イエスは意味づけます。この「ラザロの甦り」は後にイエス・キリストの十字架と復活の兆しとされてまいりますが、この混乱のなかでただひとり、自らの恐れを振り払うようにして「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と仲間を鼓舞する弟子がいます。それがディディモと呼ばれるトマスであり、怯える弟子の群れのなかでは意気盛んな者として際立ちます。しかし、イエス・キリスト復活の折には、その復活の出来事を頑なに拒みもする弟子でもあると、わたしたちは後から気づかされるのです。
 十字架にイエス・キリストが釘打たれ、いのちを失うという絶望。イエスと熱心に関わろうとした弟子であるほどに、その絶望は深かったと記すようです。何事かに懸命に取り組んでいればこそ、何もかも失った、あるいは期待を裏切られたとの失意の痛みもまた直ちには癒しがたい傷となります。そのような人々を神は引きあげます。先ほど「伝えなくてはならない」と語ったカメラマンは自宅兼仕事場再建のため80歳にいたるまでの多額の返済を抱えました。しかし。
死への勝利を全地に知らせるキリストの復活。神の愛なくしては不可能な可能性。この人は必ずやり遂げるとの信頼を、一見重苦しく見えるその負債は、実は想像もできないほど豊かな刈入れとしても示しているはずです。今なお迷いと苦しみに喘ぐ人々の涙を、イエス・キリストはともに分かちあい、つつんでくださります。

2024年9月19日木曜日

2024年 9月22日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第19主日礼拝―

 時間:10時30分~
説教=「神の愛はすべての傷みをつつむ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 31~39 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 285,21-436(515),21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 現在よりも遙かに自然の前に人の力が小さかった古代の東アジアには「天人相関説」という考えがありました。これは政治を司る者が悪政を行なえば、自然の調和が乱れて地震や津波といった天変地異が起き、多くの犠牲者が出るから、支配者は民を飢えさせず、飢饉や疫病を蔓延させないためにも善政を敷かねばならないという内容です。やがてこの考えは迷信として退けられるにいたりますが、大震災の後、自らは安全圏にいながら「これは現代人が自然への畏敬を忘れたから起きた」などと犠牲者やご遺族の悲しみを癒そうとせず軽口を叩くメディアに較べれば少しは考えるところもある、というものです。多くのフードロスの問題がある一方で白米が一斉に小売店から消える浅ましいその有様には、科学技術の発展と人の品位は比例してはいないとの溜息が聞こえます。

 本日の『聖書』の箇所である『ヨハネによる福音書』10章には一見すると戸惑うような言葉が用いられます。34節にある人の子イエスの言葉「あなたたちの律法に『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」との箇所です。『旧約聖書』『詩編』82編には「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行なわれる」との理解があり、この言葉が転じて「あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか」との言葉が続きます。さらには『出エジプト記』4章16節ではモーセの兄アロンをして「彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代りとなる」との言葉が続きます。表面上文をきりとりますと誤解が生じますが、全体の文脈から判断しますと「神に委託された責任を授けられている人々」が示されているとも受けとめられます。

 正式な手続きを伴わずその場の高ぶりに任せて人の子イエスを殺害しようとする、エルサレムの祭司長や律法学者。「わたしはよい羊飼い」だと語った人の子イエスが「善いわざのことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と自らを正当化します。先ほど申しあげたような役目に伴う責任を棚上げする誤解に基づいて、イエスを殺害しようとする様子が分かります。しかし人の子イエスはそのような人々に向けて語りかけます。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはあり得ない」。そして「父のわざをおこなっているのであれば、わたしを信じなくても、そのわざを信じなさい」と自らを受け容れない人々に穏やかに接しているようにも聞こえるのです。

 この場でイエス・キリストは、敵愾心を露わにして襲いかかろうとする人々さえもその愛でつつみこもうとします。凶暴な態度の背後に、イエスに牙を剥く人々がこれまで受けた悲しみや痛みを見抜いて癒そうとするかのようです。本日の箇所で描かれる人の子イエスの姿は、自らを否定しようとする人々と論争しようとするのではなく、その言葉を否定せずに、自分が何者であるかを語る以外、沈黙を守りながらその場を去るという、英雄のような姿とはほど遠い救い主の姿が描かれます。

 人間には神から授かった責任がある、との言葉を上辺で捉えますとわたしたちはうろたえる場面もあります。正面から受けとめれば実に重たい響きがあります。しかしわたしたちが考える「責任」に先んじて、『詩編』82編に立ち返れば「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」との宣言があります。これは世の心ない統治者や有力者に向けた預言者の言葉としても響きます。『ヨハネによる福音書』の書き手はイエス・キリストの歴史的な人としての姿の描写に留まらず、「神の愛を体現した救い主」としての面を強調します。その愛とは他者の傷みに深く共鳴し、貧困や不正の中でなす術なくへたりこむ人々の手をとり、ともに歩もうとする姿にはっきりと示されています。人間性や人格を否定されて放置された人々の手を握って離さない愛こそ、神の愛の写し絵としてわたしたちに命じられており、わたしたちにも思わずそうせずにはおれない瞬間が訪れます。いつしかそのわざは、多くの交わりをもたらし、人々を巻きこんでまいります。

 イエス・キリストが示した神の愛はすべての傷みをつつみます。その愛はキリスト自らを手にかけようとする人々が抱えた傷みさえ癒してまいります。私怨が鎮まるのを待つのも祈りのひとつです。「迫害する者のために祈りなさい」とは筋書きのないわたしたちの身の回りから世界へと、人の悲しみを分かちあうわざに繋がります。

2024年9月11日水曜日

2024年 9月15日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第18主日礼拝―

 時間:10時30分~


説教=「イエスに従ったひつじの群れ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 22~30 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 21-475(352),354.2,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
今でこそ建物の防寒対策・気密性が徹底され、北国の家では二重のサッシやセントラルヒーティング、床暖房、北海道の都市部にいたっては主要な道路の下に凍結防止剤が散布され、寒さのあまり手がかじかんで動かなくなるような外気温に触れていても家に戻れば温かな中で身体の緊張をほぐせます。しかしサッシがまだ一般的ではなく硝子窓、木製の雨戸、小学校にコークスのストーブがあったころの寒さと申しますのは格別であり、現在のような酷暑が実に稀であった代わりに、雪が降らなくても霜柱をザクザクと踏みながら歩くのが冬の日常であったころ、母親の手やかかとには必ずといってよいほど、ひび割れや「あかぎれ」を見つけたものでした。たとえ冬であろうと、なるべくなら湯沸し器を用いずに朝の備えをしたものでした。

四季の移ろい豊かなころの日本全国各地とは異なり、福音書に描かれるところの舞台は、確かに地域ごとの天候は様々であったでしょうが、乾燥した地域特有の気温の変化は否めなかったように思います。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行なわれた。冬であった」。『ヨハネによる福音書』の書き手は、エルサレムの神殿奉献記念祭が冬に行なわれていたと明記します。しかし冬のエルサレムには雪も降り、外を歩くにはマントをはおり上等の毛織物を身にまとわなくてはなりません。それができない人々には文字通り生死の境となる季節となり得ます。ひつじ飼いは、ひつじの群れに潜って暖をとるか、懸命に火を起こし焚き火を囲むほかありません。そのような貧しい民を差し置いて、恐らくはこの神殿奉献記念祭は執り行われていたように思います。

そのように張り詰めた空気を変えてしまうように、人の子イエスは「ソロモンの回廊」を歩いてまいります。「ソロモンの回廊」は神殿の周りを囲む壁のすぐ内側にあり、「異邦人の庭」と呼ばれるところにあったと申します。そこは本来なら誰もが入れる場所であり、『使徒言行録』では使徒と民衆たちが集まった場としても描かれ、『ヨハネによる福音書』では人の子イエスがすでに先んじてその場にいたと描いています。しかしながらこの祭、かつてヘロデ一族と関係者が建築した神殿を神に献げるという、神と関わり執り行なわれる祭儀というよりは、エルサレムの神殿を建築した者、そのために財産を寄進した者、政治的な後ろ盾となった者たちの祝う祭りという色の濃厚なものと化していました。そのなかをイエス・キリストは歩いてまいります。あたかもガリラヤ湖の水面を進むがごとし、です。そのイエスの歩みを妨げるように神殿に仕えるところの古代ユダヤ教徒が立ちはだかります。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。要はここで決着をつけようと迫ります。しかしこの場面で迫り来る人々の殺気に呑まれるイエスではありません。「あなたたちは信じない。わたしのひつじではないからである。わたしのひつじはわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。この言葉が、後の世にどれほど多くのキリスト者に勇気を与えたことでしょうか。イエスを遮る人々の怒りは石礫(いしつぶて)を投げようとしますが、その礫でさえもイエス・キリストの招きに従う人々は決して恐ませんでした。その理由は、見つめるものが根本的に異なるからです。

本日は長寿感謝の日を覚えての礼拝です。八十路を迎えた方々への神の祝福をともに分かちあう礼拝です。この八十年の間、わたしたちの住まう国は絶えず他人と較べるというしくみの中での教育や産業、科学を組み立ててきました。いつの間にか「何のために」とのその人自らのテーマを忘れての過度な競争の結果として、比較できないいのちの重さが軽んじられてきた一面は否めません。だからこそ、そのような冷たい風の中で、なおもイエス・キリストに従い続け、時には板挟みや滑り落ちそうになりながら『聖書』の言葉と祈りの中で道を模索されてきた方々に心より神の祝福を祈ります。厳しい冬のエルサレムを思い出しながらも、頭に積もった雪に譬えられる齢のしるしには、年ごとに訪れる身体の変化によって、己を誇るどころかむしろ謙遜にされ、隣人からの支えに主なる神の支えを重ねられますように祈ります。今のわたしたちがそうであるように、見通しの利かない世にあってイエス・キリストを見つめてこられた重さにより、他の圧力に屈しない、頑固さとは異なる「イエス・キリストへのこだわり」が育まれます。それこそその人のこれからの新しい伸び代となるのです。わたしたちも春夏秋冬問わず変わらないイエス・キリストの愛に従いましょう。

2024年9月5日木曜日

2024年 9月8日(日) 礼拝 説教

   聖霊降臨節 第17主日礼拝― 

時間:10時30分~




説教=「神の地境をまもる者」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 1~6 節
(新共同訳 新約186頁)

讃美=    461,21-412(234).21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
本日の『ヨハネによる福音書』10章1~6節では、羊の群れ、羊飼い、羊の囲い、そして門番というその時代の牧畜のありかたが具体的に記されています。羊の群れは囲いによって保護され、そしてその囲いは門番にまもられています。さらに羊たちもまた繊細な感覚で羊飼いの声を聞き分けて誰に導かれるべきかを知っています。羊飼いが羊を追いかけて捉えようとしなくても、羊は自らの足で羊飼いの後を追ってまいります。反対に、門を通らないで他のところを乗り越えてくるのは「盗人」「強盗」と見なされて、羊たちは決してついて行かず、逃げ去るとの話です。人の声なら誰でも構わずついていくのではなく、深い信頼関係を結んだ羊飼いを識別して後をついていくのです。続く箇所では人の子イエスは「わたしはよい羊飼い」と語ります。イエス・キリストのもとでは誰もが神の平和と慰めを授かります。

他方で本日の箇所からは「盗人」や「盗賊」の姿も描かれます。初代教会の交わりに様々な噂を流して分断を誘い、混乱を起こすものもまたわたしたちの現実として記されてもいると覚えるべきでしょう。『旧約聖書』『申命記』はイエス・キリストに連なる『律法』の誡めが記されています。その中でも本日は『申命記』19章14節「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない」に注目します。地境、すなわち隣人との土地の境を侵してはなりません。この箇所に則するならば、現在パレスチナでイスラエルが行なっている領土拡張の争いはその掟に反します。事実、ユダヤ教で超保守派と呼ばれる人々は近代国家を規範とするイスラエルを「神の国」としては決して承認しません。

不当に地境を動かされ、追い出された羊飼いや羊たちはどこへ逃れればよかったのか。この問いをもまた『ヨハネによる福音書』は伏線としています。『旧約聖書』でエジプト脱出をする他生きる道がなかった、あるいはバビロン捕囚からの解放を待ち焦がれた人々は何に希望を託せばよかったのでしょうか。わたしたちもまた、そのように世をさまようなかで、隣人の助けをいただき、神が定めた地境のもとで、すべての人の救い主であるイエス・キリストにまもられ活かされる喜びと豊かさを分かちあいたいと願います。