ー降誕節第5主日礼拝ー
時間:10時30分~
本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では、わたしたちから観た『旧約聖書』の研究を軸とするファリサイ派を筆頭としたユダヤの民衆を相手に「わたしは去って行く」と語りかけます。「あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」。しかしイエスの語りかける相手は大人であってなおかつ独りではありません。だから却ってイエスの言葉に不安と疑問を覚えます。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりだろうか」。そもそも『ヨハネによる福音書』は、天地創造の神を悪と見なし、また肉体をも苦しみの源として嫌悪し禁欲を無目的に勧め、『旧約聖書』に描かれた神の歴史や被造物の意味を認めないヘレニズム・グノーシス思想に影響された人々にまずは向けられていました。この態度がイエスは救い主であると認めないその時代のユダヤ教徒以上に教会を蝕み始めたのです。実のところ人の子イエスはまずユダヤの民衆からそのように誤解を受けます。今日で言えば社会を否定し続けるカルトのようだと誤解を受けるのです。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、この世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬこととなると、わたしは言ったのである」。人の子イエスの言葉は、言葉尻をとればこのギリシア思想にいたるギリギリの線を突いていきます。問題は「上」が何であり、「下」が何を示すのかというところです。「下」が「世」であるならば「上」とは何となるのでしょうか。
それが「わたしはある」との言葉です。もっと日本語の日常に則するならば「わたしはいる」となります。これこそ人の子イエスに詰め寄る人々が思い出すべき『出エジプト記』に記された神の名です。神話の神々には名はありますが、それはその神話の世界に限定されます。他方でギリシアの哲学者の神には名はありません。当時のヘレニズム・グノーシス哲学で分解された『聖書』の場合、『新約聖書』と『旧約聖書』の神は別物だとされます。しかしイエス・キリストが語る神は、名をもち、わたしたちを愛する神です。モーセを遊牧民の婿から古代エジプトで苦しむ奴隷を解放する役目に召し出した神の名は「わたしはいる」でした。五度もその重責から逃れようとし、うろたえるモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と語りかけた神、暗殺者に追いかけられ死を願った預言者エリヤに食事を提供した神こそ「わたしはいる」と語りかける神でした。この宣言によって多くのユダヤの民衆が惑わされずにイエスを救い主として信じるにいたります。
親を見失い泣き叫ぶこどもに「泣くな」と怒鳴りつけるような暴力をわたしたちは目にいたしますと、わたしたちもまた「こんなことがあってよいのか」と義憤に駆られ、達観とは正反対の思いに駆られます。それは子を失った親にも、家族を失い自分一人だけ責め続けるご高齢の方々を観るにつけ同じ思いを抱きます。しかし主なる神はその度ごとに悲しむ者に手を差し伸べ、わたしたちの抱く構想を絶えず新たにしながら、自らの計画を明らかにされます。多くのボランティアが能登半島の報せをわたしたちに伝えています。他方で逃れてきた人々が他の地域に移住する可能性もあります。わたしたちも29年前の阪神・淡路大震災の当事者でした。神が備える出会いに準備をしながら、互いに名を呼び合う交わりをさらに育みましょう。キリストを通してわたしたちに呼びかける神にはかけがえのない名があります。わたしたちはその神に名を呼ばれています。「心配するな、わたしはともにいる」と招く神に背を押されて新しいあゆみを始めましょう。
説教=「心配するな、わたしはともにいる」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』 8章21~26節
(新約聖書 181頁).
讃美= 122,21-402,541.
世にあってわたしたちが誰か、また何かと関わる場合、そこには必ず名前が生じます。その関わりが深ければ深いほど、その名は忘れがたいものとなります。最近、置き去り虐待という言葉がメディアで用いられるようになりました。現在ではこどもを放置して大人がその家を出てしまい行方を告げなかったとき、気づいた者が連絡すれば虐待として警察案件で扱われることになります。おそらくその場合、こどもは親の名を叫び続けながらあちこち探し続けたことであり、どのような年齢になろうともその人には癒しがたい傷になるに違いありません。本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では、わたしたちから観た『旧約聖書』の研究を軸とするファリサイ派を筆頭としたユダヤの民衆を相手に「わたしは去って行く」と語りかけます。「あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」。しかしイエスの語りかける相手は大人であってなおかつ独りではありません。だから却ってイエスの言葉に不安と疑問を覚えます。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりだろうか」。そもそも『ヨハネによる福音書』は、天地創造の神を悪と見なし、また肉体をも苦しみの源として嫌悪し禁欲を無目的に勧め、『旧約聖書』に描かれた神の歴史や被造物の意味を認めないヘレニズム・グノーシス思想に影響された人々にまずは向けられていました。この態度がイエスは救い主であると認めないその時代のユダヤ教徒以上に教会を蝕み始めたのです。実のところ人の子イエスはまずユダヤの民衆からそのように誤解を受けます。今日で言えば社会を否定し続けるカルトのようだと誤解を受けるのです。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、この世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬこととなると、わたしは言ったのである」。人の子イエスの言葉は、言葉尻をとればこのギリシア思想にいたるギリギリの線を突いていきます。問題は「上」が何であり、「下」が何を示すのかというところです。「下」が「世」であるならば「上」とは何となるのでしょうか。
それが「わたしはある」との言葉です。もっと日本語の日常に則するならば「わたしはいる」となります。これこそ人の子イエスに詰め寄る人々が思い出すべき『出エジプト記』に記された神の名です。神話の神々には名はありますが、それはその神話の世界に限定されます。他方でギリシアの哲学者の神には名はありません。当時のヘレニズム・グノーシス哲学で分解された『聖書』の場合、『新約聖書』と『旧約聖書』の神は別物だとされます。しかしイエス・キリストが語る神は、名をもち、わたしたちを愛する神です。モーセを遊牧民の婿から古代エジプトで苦しむ奴隷を解放する役目に召し出した神の名は「わたしはいる」でした。五度もその重責から逃れようとし、うろたえるモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と語りかけた神、暗殺者に追いかけられ死を願った預言者エリヤに食事を提供した神こそ「わたしはいる」と語りかける神でした。この宣言によって多くのユダヤの民衆が惑わされずにイエスを救い主として信じるにいたります。
親を見失い泣き叫ぶこどもに「泣くな」と怒鳴りつけるような暴力をわたしたちは目にいたしますと、わたしたちもまた「こんなことがあってよいのか」と義憤に駆られ、達観とは正反対の思いに駆られます。それは子を失った親にも、家族を失い自分一人だけ責め続けるご高齢の方々を観るにつけ同じ思いを抱きます。しかし主なる神はその度ごとに悲しむ者に手を差し伸べ、わたしたちの抱く構想を絶えず新たにしながら、自らの計画を明らかにされます。多くのボランティアが能登半島の報せをわたしたちに伝えています。他方で逃れてきた人々が他の地域に移住する可能性もあります。わたしたちも29年前の阪神・淡路大震災の当事者でした。神が備える出会いに準備をしながら、互いに名を呼び合う交わりをさらに育みましょう。キリストを通してわたしたちに呼びかける神にはかけがえのない名があります。わたしたちはその神に名を呼ばれています。「心配するな、わたしはともにいる」と招く神に背を押されて新しいあゆみを始めましょう。