2024年1月26日金曜日

2024年 1月28日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「心配するな、わたしはともにいる」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 8章21~26節
(新約聖書  181頁).

讃美= 122,21-402,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 世にあってわたしたちが誰か、また何かと関わる場合、そこには必ず名前が生じます。その関わりが深ければ深いほど、その名は忘れがたいものとなります。最近、置き去り虐待という言葉がメディアで用いられるようになりました。現在ではこどもを放置して大人がその家を出てしまい行方を告げなかったとき、気づいた者が連絡すれば虐待として警察案件で扱われることになります。おそらくその場合、こどもは親の名を叫び続けながらあちこち探し続けたことであり、どのような年齢になろうともその人には癒しがたい傷になるに違いありません。

 本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では、わたしたちから観た『旧約聖書』の研究を軸とするファリサイ派を筆頭としたユダヤの民衆を相手に「わたしは去って行く」と語りかけます。「あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」。しかしイエスの語りかける相手は大人であってなおかつ独りではありません。だから却ってイエスの言葉に不安と疑問を覚えます。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりだろうか」。そもそも『ヨハネによる福音書』は、天地創造の神を悪と見なし、また肉体をも苦しみの源として嫌悪し禁欲を無目的に勧め、『旧約聖書』に描かれた神の歴史や被造物の意味を認めないヘレニズム・グノーシス思想に影響された人々にまずは向けられていました。この態度がイエスは救い主であると認めないその時代のユダヤ教徒以上に教会を蝕み始めたのです。実のところ人の子イエスはまずユダヤの民衆からそのように誤解を受けます。今日で言えば社会を否定し続けるカルトのようだと誤解を受けるのです。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、この世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬこととなると、わたしは言ったのである」。人の子イエスの言葉は、言葉尻をとればこのギリシア思想にいたるギリギリの線を突いていきます。問題は「上」が何であり、「下」が何を示すのかというところです。「下」が「世」であるならば「上」とは何となるのでしょうか。

 それが「わたしはある」との言葉です。もっと日本語の日常に則するならば「わたしはいる」となります。これこそ人の子イエスに詰め寄る人々が思い出すべき『出エジプト記』に記された神の名です。神話の神々には名はありますが、それはその神話の世界に限定されます。他方でギリシアの哲学者の神には名はありません。当時のヘレニズム・グノーシス哲学で分解された『聖書』の場合、『新約聖書』と『旧約聖書』の神は別物だとされます。しかしイエス・キリストが語る神は、名をもち、わたしたちを愛する神です。モーセを遊牧民の婿から古代エジプトで苦しむ奴隷を解放する役目に召し出した神の名は「わたしはいる」でした。五度もその重責から逃れようとし、うろたえるモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と語りかけた神、暗殺者に追いかけられ死を願った預言者エリヤに食事を提供した神こそ「わたしはいる」と語りかける神でした。この宣言によって多くのユダヤの民衆が惑わされずにイエスを救い主として信じるにいたります。

 親を見失い泣き叫ぶこどもに「泣くな」と怒鳴りつけるような暴力をわたしたちは目にいたしますと、わたしたちもまた「こんなことがあってよいのか」と義憤に駆られ、達観とは正反対の思いに駆られます。それは子を失った親にも、家族を失い自分一人だけ責め続けるご高齢の方々を観るにつけ同じ思いを抱きます。しかし主なる神はその度ごとに悲しむ者に手を差し伸べ、わたしたちの抱く構想を絶えず新たにしながら、自らの計画を明らかにされます。多くのボランティアが能登半島の報せをわたしたちに伝えています。他方で逃れてきた人々が他の地域に移住する可能性もあります。わたしたちも29年前の阪神・淡路大震災の当事者でした。神が備える出会いに準備をしながら、互いに名を呼び合う交わりをさらに育みましょう。キリストを通してわたしたちに呼びかける神にはかけがえのない名があります。わたしたちはその神に名を呼ばれています。「心配するな、わたしはともにいる」と招く神に背を押されて新しいあゆみを始めましょう。


2024年1月18日木曜日

2024年 1月21日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「主なる神の平安に満ちて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 2章1~11節
(新約聖書  165頁).

讃美= 217,21-224,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 ガリラヤのカナでの婚礼の宴に招かれた人の子イエスと弟子、そして母マリア。他の福音書には見られない、宣教活動に入ったイエスが弟子とともにではなく母親と同伴して披露宴に招かれるという珍しい場面を『ヨハネによる福音書』は描きます。婚礼の席ですから笑い声が聞こえ、人の子イエスもその笑い声に連なっていたことでしょう。ところでこの時代の宴のスタイルは今日の目にするものに較べて実に長期にわたりました。概ね10日ほどかかり、その中には新郎が『律法の書』を朗読したり、新婦が新郎とともに罪の悔い改めのために断食をしたりする日まで設けられます。いずれにしても厳粛な礼拝によって二人の関係が裏づけられ、タイトなスケジュールの後の宴ですからなおのこと喜びに溢れていたことでしょう。

 ところがこの宴で予想しなかったハプニングが生じます。宴に用いるぶどう酒が足りなくなってしまったのです。これはあくまでも主催者たる長老たちから委託された世話役の役目ですから、新郎・新婦には責任ではありませんし、ましてや人の子イエスと母マリアが出しゃばる必要もありません。しかしざわつく宴の席で母マリアはイエスに「ぶどう酒がなくなったよ」と伝えます。この箇所で興味深いのはイエスが母マリアに決して従順であったわけではなく、翻訳では「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と口答えするところにあります。このような不自然な日本語を用いるより「お母さん、それはわたしと関係ないでしょう。この場は救い主として働くタイミングではありませんよ」と受けとめたほうがよいかもしれません。しかしイエスのそのような申し出とは無関係に母マリアは「この人が何か申しつけたら、そのとおりにしてください」と勝手に申しつけてしまいます。1メトレテスは39リットル、それが六つあったのですから相当な分量です。その容積の水瓶にイエスが水を入れるように申しつけます。総量で234リットル。一斗樽で概ね十三樽というかなりの分量です。この物語がわたしたちに訴える事柄とは何でしょうか。

 まず、イエス・キリストは人々の悲しみの席にも喜びの席にも人知れずおられるという指摘です。この箇所をして初代教父たちは「イエスは笑ったか」という問いを真剣に論じました。その議論そのものが現代のわたしたちには微笑ましいのですが、その時代には救い主の権威をめぐる問題として真剣に話し合われたのです。宴席で水をぶどう酒に変えるよう無茶振りされたイエスがもし笑いを知らない人であれば、この場所で敢えてこのようなわざを行ないはしなかったでしょう。次に、キリストを通して明らかにされる神の出来事は、キリスト自らはわたしたちの身近なところに宿りながらも、わたしたちは気づかないという点です。ぶどう酒を味わう人は、それがキリストのなさったわざだとは誰も気づきません。わたしたちは気づかずにキリストの恵みに預かっているとの理解がこの箇所から解き明かすことができます。そして婚宴の席に招かれたすべての人々は、世話役もバックヤードで働く人々も含めて、かぐわしいぶどう酒の香りにつつまれるという物語です。

 わたしたちとイエス・キリストは、実はこのような香りによって結ばれています。わたしたちの日常は決してこのような晴れがましい婚宴の席を楽しむようなものばかりではありません。汗につつまれ、土埃にまみれながらわたしたちは生きています。さらに言えば、そのような装いとは程遠い暮らしに置かれるときもあります。しかしわたしたちはわれ知らずしてキリストの香りを帯びるだけでなく、天に召された方々と世にある復活を通して再会するその時に、キリストの花嫁としての芳しさにつつまれるのです。それは滅びにいたる臭気とは全く異なっています。このようなメッセージを届けられたその時代の奴隷たちは、農民たちは、神の備え給う「非日常」をどれほど喜んだことでしょうか。イエス・キリストが人々に伝え、また証しされようとした主の安息とはこのようなものではなかったかと思うのです。キリストのユーモアと香りの中で育まれる交わり。それはわたしたちの思いがけないところで育まれ、喜ばしい潤いとなります。時が来れば、わたしたちもキリストが設け給う宴席の中で深い平安を授けられ、悲しみの中にも喜びと新しい出会いを備えられるのです。その平安に満たされて新しい一週間を始めましょう。

2024年1月10日水曜日

2024年 1月14日(日) 礼拝 説教

   ー降誕節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「来なさい、そうすれば分かる」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 1章35~42節
(新約聖書  164頁).

讃美=121,21-13(1~5),541.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 『ヨハネによる福音書』は、他の福音書に較べてその成立が十年ほど遅いというお話は前回の説教で触れました。そのような特徴を考えますと『ヨハネによる福音書』の書き手集団は、『新約聖書』にある福音書の他の「三部作」をすでに知っており、執筆の際に黙想とともに新しい福音書の執筆に着手したようです。その意味ではイエスの人としての歴史性というよりも「神の子キリスト」という超越的な理解が強調され、それに伴って物語に登場する人々の設定に手が加えられてもいます。

 本日の箇所ではガリラヤ湖で漁師であったはずのシモン・ペトロの兄弟アンデレが洗礼者ヨハネの弟子の一人として描かれています。わたしたちはこの設定の改変に驚くのですが、同時にそこにはやはり『ヨハネによる福音書』の書き手集団の伝えたかった事柄があったはずです。

 以前にも申しましたとおり、洗礼者ヨハネは、例えばファリサイ派と同じように古代ユダヤ教の集りであるエッセネ派というグループと深い関わりがあるとされています。エッセネ派とは荒れ野で『聖書』の研鑽に励み、生活共同体を作り、水によるきよめに重点を置いて暮らす人々として知られています。そしてその集りは同時に、都市や村落ではその生存が危ぶまれていたこどもたちの受け皿として働き、様々な特性をもつこどもたちがそこで育ち、群れの維持や運営に責任を担いうるこどもたちが次世代の舵取りとして研鑽に励んだと言われています。血のつながりに拠らず、洗礼者ヨハネの弟子の一人であったとされるアンデレがまず他の弟子とともにイエス・キリストに従い、そしてアンデレが兄弟であるシモン・ペトロに声をかけて弟子として従うという物語が描かれます。わたしたちのよく知るガリラヤ湖の湖畔の物語はこの箇所では描かれません。「来なさい、そうすれば分かる」との言葉が本日の記事には轟きます。

 さて始めからイエス・キリストを「見なさい、神の小羊だ」と名指しすることのできた洗礼者ヨハネでしたが、果たして他の福音書でその姿勢は一貫していたでしょうか。実のところそのような毅然とした態度が揺らぐ箇所があります。それは『マタイによる福音書』11章に記されています。この箇所で、洗礼者ヨハネはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスを批判したかどで身柄を拘束され投獄されています。その悶々とした中で、イエス・キリストの教えと行いを耳にして自分の弟子を送り問わせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。洗礼者ヨハネの姿は、本日のまことに毅然とした姿と、このように獄中生活を過ごす中で本当にイエスがキリストなのかと問わずにはおれない姿の間で揺れ動いています。この揺れ動きこそ、実は洗礼者ヨハネの姿としては実相に近かったのではないかと考えます。わたしたちの信仰も重なるところがあります。礼拝に招かれ出席するところは教会員の側からすれば暮らしの一面でしかないと言えなくも無いところがあります。そのようなあり方をして「自分の信仰」の是非を問うたところできりがありません。『旧約聖書』『新約聖書』を通じて描かれるのは神に従順である人々やキリストに従う人々の姿はごく限られており、むしろ仮に洗礼者ヨハネであったとしても「イエス様は何者なのか」と問わずにはおれない揺らぎを伴いつつあゆんでいるところが際立ちます。『聖書』には誰一人として超人は登場いたしません。失敗のない成功人生に導く師匠のような人もまたおりません。『聖書』に自己実現のマニュアルを求めるのであるならば、他のビジネス書をわたしはお勧めします。そうではなくて、譬え自らのもとから離れていっても、そのことを「卒業」のような節目として却って喜ぶような、自分の限界を知る人々が違いに支えあう姿に彩られています。本日の『聖書』の箇所で、洗礼者ヨハネはともに歩いていた弟子をすべて人の子イエスのもとに送ります。「イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ―<先生>という意味―、どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは,『来なさい、そうすれば分かる』と言われた」とあります。揺れる気持ちの中で新たにされる出会いがそこにあります。十の説明よりキリストに従う中で与えられる出来事への気づきを大切にいたしましょう。


2024年1月6日土曜日

2024年 1月7日(日) 礼拝 説教

ー降誕節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「見なさい、神のこひつじを」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 1章29~34節
(新約聖書  3頁).

讃美=164,234 A,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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【説教要旨】
 クリスマスの季節が明けて初めての聖日礼拝。わたしたちは今朝の『聖書』で「こひつじ」という言葉に触れています。泉北ニュータウン教会の創設者のお名前が土山牧羔、則ち、こひつじを牧するとのお名前であり、また教会に根ざす事業体が「こひつじこども園」「放課後等デイサービスこひつじ」とありますように、この名は『聖書』に頻繁に見られるいきものに由来しています。実際の暮らしでも鶏肉はチキン、牛肉はビーフ、豚肉はポークと家畜の年齢を問わず呼ばれますが、羊の場合には一歳以下の羊をラム、それ以上をマトンと呼び厳密に区別いたします。ちなみに福音書そのものも羊の皮から幾度も脂肪を抜いて乾燥させた羊皮紙に記されています。それほどまでに『聖書』の世界では暮らしに不可欠でした。

 それなしには生存が考えられない家畜であり、なおかつ「神自らの羊」として洗礼者ヨハネは人の子イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現われるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」と語ります。他の福音書と較べて興味深いのは人の子イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とイエスを救い主として名指しをするところ、そして「わたしはこの方を知らなかった」と明言する箇所です。

 「見なさい、世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣言するからには、相応の背景があったはずです。おそらくは『ヨハネによる福音書』の記された年代とも関係するところでしょう。イエス・キリストの人の子イエスとしての姿をありありと描くものには他の福音書がありますが、どれもイエス・キリストが十字架に架けられ、復活する出来事から40年から55年ほどは経過して成立します。つまり「イエス・キリスト」の姿を心に焼きつけた人々がその出来事を忘れまいと努めるなかで『ヨハネによる福音書』の場合はさらに10年ほど後のものとなっています。そうなりますと、使徒と呼ばれる人々がイエス・キリストの教えと生きざまを伝えようとしても、その時代には遙かに力をもっていた古代ギリシア思想の影響を避けられなくなります。実際『新約聖書』はギリシア語で記されています。その中でさまざまなイエスに関する誤解が起きてまいります。ある人は肉の欲をすべて絶ち、誘惑の源であるところの身体を十字架の上で消し去った行者としてのイエスの崇拝を試みます。極めて意志の強い修験道の行者のようなイエスです。実際とはかけ離れたイエスのイメージが幅を利かせる中で「世の罪を取り除く神の小羊」との叫びが響きます。「こひつじ」とはたとえ羊飼いに飼育されていたとしても極めて弱い生き物です。どれほどその時代の羊の野性味が強いといったところで、オオカミの牙や熊の手にかかればまるで熟れたフルーツのように切り裂かれてしまいます。病気にも決して強いとはいえません。ですから群れは羊飼いの手を借りなくても必死になって小羊を守ろうといたします。それほどまでに「小羊」は弱いのです。そのような弱さこそが神の愛のそそがれるべき存在であり、だからこそ「神の御子」と呼ばれていくのであります。その姿は洗礼者ヨハネの目にさえ映らぬほど小さなものでありました。

 大晦日の礼拝が終わり、わたしは急ぎ西成区あいりん地区の通称釜ヶ崎で行なわれる越冬闘争に出てまいりました。「闘争」と言ってもそれはだいぶクラシックな物言いで、実際には年末年始に一人の凍死者も出さないという長きにわたる取り組みが行なわれています。そこで活動される本田哲郎神父がおられます。その訳書に『小さくされた人々のための福音書』があるのですが、ホームレスの方々にお尋ねしたところ、様々な意見があり「わしは小さいもんとちゃうぞ」との言葉もあります。しかしわたしたちすべての人間がその小ささや弱さを実感することで避けられる争いや摩擦というものもあるのではないかと考えます。自らを大きく見せようとするからこそ争いが生まれます。それは「神の小羊」のあり方とは対極にあるあり方で、結局はやがて潰えていく強がりなあり方ではないでしょうか。イエス・キリストは教えのごり押しなど一度もされません。小さな者だからこそ授かったその器が、主なる神の大いなるわざに用いられていくのです。