2023年7月6日木曜日

2023年 7月9日(日) 礼拝 説教

   ー聖霊降臨節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「還ってきた息子を迎える母の喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』7章 11~17節
(新約聖書 115 頁).

讃美= 298,526.544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 本日の聖書箇所は、ローマ軍の将校の僕を病床から救った人の子イエスが、ナインという町に入ったところより始まります。弟子や大勢の群衆も一緒であったと記されます。イエスが町の門に近づくとそこでは葬儀が執り行われていました。ある母親の一人息子が逝去し、出棺の場にイエスは立ち会うこととなりました。母の手ひとつで育てあげてきた息子は息絶え、棺の中に横たわるばかり。逆縁の痛みに付添う人も涙に暮れています。イエスはこの母親を見て憐れに思い「もう泣かなくともよい」と言い棺に近づいて手を触れたとあります。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。すると死人は起き上がってものを言い始め、イエスは息子を母親に返し、人々は神を讃美したという物語です。この物語と重なるのは『ヨハネによる福音書』の「ラザロの復活」として知られるエピソードです。亡くなって四日、異臭が漂うラザロの遺体にイエスが祈り、そして「出て来なさい」と叫ぶと手足を布で巻かれたまま青年が墓から出てきたとの物語。多くの作家がこの物語をベースにして「死に勝利するいのち」とのテーマで作品を世に送り出してきました。

 しかし本日の『聖書』の箇所に感銘を受けながらも、日本語の「もう泣かなくともよい」との訳に、この言葉は適切であったかどうかと考え込むところもなくはありません。明治二〇年訳では「泣くな」とストレートに表現します。場面の緊張感を表わすにはこのようなシンプルな訳のほうが適っているかも知れません。けれども訳をたどってなお胸につかえるのは、おそらくは一人息子であったろうこの寡婦の息子の場合でも、ラザロの復活の場合でも「遺体がそこにあり、葬儀が行なわれた」というところ。わたしたちは遺体すら遺らぬままに葬儀を行なう他なかった母たちの悲しみを知っているという意味では、様々な思いに駆られます。当事者にとって悲しみや苦しみは決して比較できない事柄であり「○○はもっと悲嘆に暮れている」などという言葉は厳に慎むべきであります。しかし棺の中に石ころしか入っていなかった言い伝えをわたしたちは78年前から耳にしています。例えば広島の原爆によって灰燼に帰したがれきの中から掘り出された七万柱の遺骨は、今なお引き取り手のないままに、平和記念公園の片隅に保管されています。古代社会だったからこそ悲惨であった民衆の暮らしと、現代ならではの地球規模の危機の間をわたしたちは行きつ・戻りつしながら『聖書』のテキストに向きあっています。七万柱の遺骨の中には、実際には引き取られるべきご家族がいるものもあります。しかし戦後の混乱の中で他の人の遺骨を家族のものとして納骨した結果、それとしては知られながらも敢えてそのままにされているご遺骨があります。イエス・キリストがもしそこにいるならば「もう泣かなくともよい」とご遺族だけではなく、不条理さを抱えながら天に召された方々にも語りかけるのではないでしょうか。

 そう考えますと、あらためて復活という出来事は、血筋や血縁をそれとして受けとめながらも、そのような世の繋がりを越えていく出来事であると再確認されていく道にあります。神がその愛をもってすべてを統治される復活のときには、すべてが新たにされると『聖書』にはあります。何より証拠には、悲嘆に暮れるやもめと棺の中の若者の関係は親子であるとの描写はあっても、血のつながりがあるかどうかは問題にされておりません。血のつながりがあろうとなかろうと、息子に先立たれれば親は悲しむのは当たり前で、それは遺体のありなしを問いません。このようなところで「もう泣かなくともよい」との言葉は、あらためて死が終わりではないことをいかなる状況の中でも告げる宣言として響きわたります。弔いの嘆きが深いほどに、いのちの輝きは否応にも増していくのであります。棺から還ってきた息子を迎える喜びの母親の涙が、悲しみの涙にとって変わります。

 このところ泉北ニュータウン教会出身の牧師の方々とお会いする機会も少なくありません。最近では5月にお母様を天に見送られたS牧師、そしてご伴侶と告別式にいたるまでお話しをさせていただきました。悲しみの中にも心和むことに、お二人は養子としてSさんを授かり、そのお陰で告別式にも斎場の待合室にも温かな光が灯されていたようにも記憶します。『ルカによる福音書』で描かれているのは逆縁の苦しみであり、『ヨハネによる福音書』で描かれるのはかけがえのない兄弟を失った姉妹の物語であり、原爆供養塔にはひきとる家族もいない犠牲者の姿が象徴されています。しかし、『旧約聖書』『新約聖書』を一貫して描かれる死者の復活の物語とは、神の前には癒されない悲しみはないという事実を示し、イエス・キリストはどのような道筋にあって召された人にあっても、その無念さに寄り添い、決して一人にはしないとの約束を宣言いたします。なぜなら、イエス・キリストは十字架にあって「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神に見捨てられた絶望の中、身動きのできない人々の苦しみを自ら担ってくださった救い主だからです。夏とともに、わたしたちはいのちの終わりといのちの始めを思います。その要となるのは救い主イエス・キリストとの出会いです。キリストを通して歴史の問いかけに耳を澄ませましょう。