ー聖霊降臨節第8主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「神に愛され、人に赦されて」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』7 章36~43 節
(新約聖書 116 頁).
讃美= 217,452.544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
ファリサイ派または律法学者といえば、福音書の舞台では知識人階級とされる人々。わたしたちには気難しく巻物の『聖書』を開いてあれこれと議論に時を費やすイメージが先行しがちですが、他方でその時代にはエルサレムの議員になる資格もあり、回心前のパウロのようにローマ帝国の市民権をもつものいたり、「ユダヤの民」とローマ人から見なされてはいても、事実上は対等に振る舞える者もいたりしました。
そのようなファリサイ派の者の目からすれば、イエスと語らった者は別として、人の子イエスが交わりを深めた群衆(オクロス)など概して人の数には入らなかったとしてもあながち間違いではなかったと思われます。
本日の箇所では、イエスに関心を寄せるファリサイ派の人物がイエスを食卓に招いたところから始まります。彼の名前はシモン。イエスの弟子のペトロと同じ名の別人である可能性があります。人の子イエスはこの誘いを断ろうとはせず、臆することなくその招きを受けます。ファリサイ派の男が何を食卓の話題にしようとしたのか、それはわたしたちには知る由もありません。なぜならイエスとファリサイ派の人々の宴席での語らいは、一人の女性の登場によって中断されてしまうからです。『ルカによる福音書』ではこの女性を「罪深い女性」と書き記します。どのように罪深かったのか。例えば女性の尋常ならざるあり方について『聖書』は「やもめ」という言葉も用います。しかしながら伴侶と別れ、一人暮すほかない女性を別段『聖書』の舞台では蔑まれる様子はありません。このような「食卓」や「宴」の場面に登場する罪深い女性とはいったい誰を指すというのでしょうか。
19世紀フランス印象派の画家エドガー・ドガの描いた作品に「舞台の踊り子」があります。ドガは様々な角度から踊り子をテーマとして描いた画家として知られていますが、注意しますと、どの踊り子も某かの影を背負っているように思われます。1878年に描かれた有名な「舞台の踊り子」にしても、舞台の後ろに黒服の男性が描かれており、それはパトロンだとされています。このようなパトロンに19世紀の踊り子は支配されていたというのです。言わんや、宴席で舞いを舞う「白拍子」のような女性もまた、このような元締めに支配され、穢れた職業を生業とする者だと見なされた可能性もあります。「罪深い女性」と向きあうファリサイ派。シモンは胸の内にこの女性を非難し始めます。「この人がもし預言者なら、自分に触れている人がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。この非難はイエスと罪深い女性の二人に向けられています。他方で女性の内面は一切描かれず「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とあるだけです。女性の心にも口にも言葉はなく、ただその振る舞いだけがイエス・キリストへの思いを表わします。
しばしの沈黙が続いた後に、「シモン、あなたに言いたいことがある」と名指しして語りかけます。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。シモンは即答します。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」。イエスは「そのとおりだ」と答えた上で、女性を見つめながら「この人を見ないか。わたしがあなたの家にはいったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた」。「だから、行っておく、この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。そして女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけます。
一般に教会での倣いとして「証し」があります。それは教会員自らの体験を通して、自分がいかにキリストとの出会いに導かれたかを、おもに言葉を通して語るというものです。しかしまことの救いと申しますのは、人前で語るにあたってあまりにも時を要する場合もあり、勇気も無理も要るものです。しかし神の愛につつまれ、大切にされたその喜びは、語るまでもなくその人のわざを通して明らかにされます。多様性に富んだ喜びのわざ。罪深いとされたこの女性は、ひと言も発することなく、イエス・キリストとの出会いの喜びをファリサイ派の冷たい眼差しを怖れずに明らかにしました。イエスは女性に「あなたの罪は赦された」と語ります。今や女性を好奇と侮蔑の眼差しで見ていたファリサイ派の人々と女性の立場が逆転します。この箇所で描かれている人々すべてが、ファリサイ派も含めてすべての人々が赦されています。しかしその赦しがその人の喜びとなっているかどうかが「証し」の最も根本的な鍵ではないでしょうか。多様性にあふれた「証し」には無理がありません。教会での奉仕も尊い証しです。交わりも尊い証しです。人と出会いもまた尊い証しです。仕事もまた証しです。誰かを受け容れられるようになればそれもまた尊い証しです。病床の苦しみにあって祈りがあればそれも尊い証しです。世は証しに溢れています。そこに神の愛への喜びがあるならば。