ー聖霊降臨節第9主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「争いや駆け引きとは異なる交わり」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』8章1~3節
(新約聖書 117 頁).
讃美= 294,352.544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
本日の福音書の箇所では、人の子イエスと12人の弟子の働きを黙々と支えていった女性の名前が列挙されています。則ち「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、その他多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。
この一文からは、人の子イエスに従っていったのは12弟子だけでなく、陰ながら弟子も含めて世話をした女性たちの存在を浮き彫りにしています。この女性の群の描写にとりわけ奥深さを感じるのは、女性各々に留まらず、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」、つまりイエス・キリストの生涯に憎しみや嫉妬をもってこの世の影のようにまとわり続けるヘロデ一族の召使いの実質的な「長」の伴侶が、人の子イエスを支えていたという記事です。『マタイによる福音書』では東からやってきた三人の博士から面と向かってユダヤ人の王であるとの地位を「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられるのか」との問いによって否定され、王権を守るためにベツレヘムの二歳以下の男の子を殺害したというヘロデ大王、またその息子たちの乱行の数々を目のあたりにしたその責任。この一族に忠実に仕えるほかなかった伴侶のクザと気持ちを通わせながら、地下水脈のようにネットワークを張りめぐらせて、命がけで奉仕していった女性たちの名前が記されます。「その他多くの婦人」一人ひとりの置かれた立場の複雑さを象徴しながらも「イエスに一心に仕えたい」との願いに突き動かされてこの女性は献身的に仕えたと思われます。
凡そ古代の物語の中で、神格化された女神のような存在は別として、このような「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たち」という言葉に始まる女性の名前が明記されてイエスと12弟子に欠かせることのできない、柱としてのわざを担っていたと記す書物は稀です。女性の労と申しますものはここ30年ほどのとりくみとして関心を寄せられては来たものの、その道筋には多くの紆余曲折がありました。まずは自らのありのままを否定され、ハラスメントも甘んじて受けながら仕事に励むというところに始まり、家族との関わりも犠牲にするという時を経て、やりたい事柄を放棄しながらようやく今日の状況があります。それでもまだ道半ばというところにあって、何事かのスペシャリストでも何でもない、むしろ過去に病を得ていた女性たちがこのようにしてキリストと12弟子を支えていくのです。
その奉仕のあり方と対照的に、12弟子たちの姿はなんと愚かな振る舞いを呈していることでしょうか。同じ福音書の9章46節では「弟子たちで、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。このような争いは福音書の中では幾度も記されるところです。一般に「嫉妬深い」との言葉は漢字にすれば女偏で記されますが、福音書では男性の「嫉妬深さ」が弟子たちの中にも見出されるばかりか、その「嫉妬深さ」がやがて権力者のイエスへの殺意にも繋がっていく様子がありありと描き出されます。争いや駆け引きに満ちたこのような関わりは、イエスと弟子たちを支える女性のあり方とは無縁です。イエスを支えた女性たちは病に苦しみ、悪霊に取り憑かれ、偏見から蔑まれ、家族を失うという悲しみを知っています。12弟子にこのような描写はなされないところが、福音書記者が聞き及んだ、そしてわたしたちも今耳にしているメッセージではないでしょうか。
やがて来るべき時、すなわち十字架での殺害と埋葬とを経て、イエス・キリストの復活を目のあたりにする人々を『ルカによる福音書』で列挙いたしますと、次の人々となります。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、11人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア=イエスの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。この一文には、イエスを支えた女性たちの労が一時のものではないばかりか、語る復活の報せが当初は使徒たちから拒絶された事態をも示しています。逆に、教会が古代ユダヤ教の一グループではなく、キリストの教会として神の愛のもとに立つためには、この女性たちの証言が欠かせなかったと証ししています。ある人は申します。初代教会の最も初期の指導者はこのようなキリストの復活証言を伝えていった女性たちであったが、それが次第に男性へと入れ替わっていったと。
しかしながら父権的な言葉を見せるパウロでさえ『ローマの信徒への手紙』16章では、一人ひとり名前をあげて、女性への感謝と賛辞を惜しもうとはいたしませんでした。世界各地から戦争の報せが絶えない世にあって、イエスと弟子を支える群に加わった人々の姿に注目する態度は、力や謀で世を統治しようとする態度とは全く別のあり方でも、世の交わりを編みあげられる様を証明しています。病を経るほどに繊細な感受性が、今ほど求められている時代はありません。イエス・キリストの招きがあります。